平和を生きる作法・「漂泊論B」44



太平洋戦争が終わってすでに65年が経った。
明治以来、日本が戦争をしていない時代がこんなにも長く続いたことはなかった。
世界的にも、第3次世界大戦はきっとやってくるとずっといわれてきた。
人々はこの長く続く平和に戸惑い、世界中でさまざまな社会矛盾や社会病理を引き起こしている。
アメリカだろうとフランスだろうと日本だろうと、すべての国民が平和を享受して生きているわけではない。
最近の大津いじめ事件一つを取り上げても、この国はすでに病んでいる、といえなくもない。
人類は、平和な時代を生きるすべをすでに忘れてしまっているのだろうか。
ずっと戦争ばかりしてきたということは、戦争をするような意識と社会の構造になってしまっている、ということだろう。そんな意識と社会の構造で平和を生きようとしているのだから、いろいろぎくしゃくしたことは起きてくる。
それに対して縄文時代は、戦争がまったくなかった。そりゃあ、守るべき共同体(国家)が存在しなかったのだから、戦争なんか起きるはずがない。
縄文時代の遺跡からは、人を殺す「武器」というものが一切出てこないのだとか。日本列島では、そういう時代が1万年も続いた。こんな例は、ユーラシア大陸の文明国にはない。
縄文時代のそういう平和な時代を生きた人々は、どのような心の動きをしていたのだろうか。
日本列島の住民は、そういう平和な時代を生きる感性と心性を伝統として残しているはずである。



縄文人は、食うことには困っていなかった。まあ、なんでも食ったし、彼らが飢えていたという考古学の証拠はない。
彼らは、生き延びるための経済とか政治というようなことにはあまり興味がなかった。
「いまここ」の、何もかも忘れて気持ちが高揚する「祝祭=娯楽」が彼らを生かしていた。
彼らにとって生きることは遊びのお祭りだった。
ここから、原始神道が生まれてきた。
それは、宗教とか信仰というようなものではなかった。
原始人に宗教も信仰もなかった。
縄文人を原始人と呼べるかどうかは微妙なところだ。縄文時代は1万年も続いたし、そのあいだに彼らはすでに古代的な文化や知能のレベルに達していた。それでも、四方を海に囲まれたこの島国で、原始人の心性を引き継いで暮らしていた。原始的な心性を引き継ぎ洗練させていった古代人、というようにひとまず僕は考えている。
そのようなかたちで洗練しながら原始神道が生まれてきた。
人間はもともと、食うこと(=経済)よりも、遊び(=祭り)に夢中になってしまう生き物なのだ。
原始人の生には、「生き延びる」などというコンセプトはなかった。
「死後の世界」とか「生まれ変わり」とか「霊魂」などという概念は、文明人の生き延びようとする欲望から生み出されたのであり、そういうことにすればこの生は永遠の循環構造になる。
まあ人間の観念は、そのように納得したければ納得してゆくことができる。しかし、そんな事実があるという証拠はもとよりないし、人類は直立二足歩行の開始以来のこの700万年の歴史をそのような欲望を紡いで生きてきたわけではない。
そういう概念というかあさましい欲望が人間に生まれてきたのは、共同体(国家)の発生以来のここ数千年のことにすぎない。
原始人にはそんな欲望はなかったし、そんな世界観・生命観で生きていたのでもない。
生き延びようとする欲望をたぎらせているのが人間の本性でも自然でもない。
原始神道は、そんな世界観・生命観の上に成り立っているのではない。それは、宗教でもなんでもなかった。たんなる「祭り」としての、遊びであり芸能であり娯楽だったのだ。



生き延びようとするから戦争になる。
命の尊厳……生き延びることに価値があるのなら、衣食住は大切だ。衣食住の安定が、生き延びることを保証してくれる。
現代人は、たしかに衣食住の問題はすでに解決しているのかもしれない。だからそれにとらわれていないかというと、そうではなく、だからこそそれにこだわって、もっと充実させようと、なおのこと執着している。人間がこんなにも衣食住に執着して生きる時代もなかった。
そうして、死を怖がり、けんめいに生き延びようとしている。だからこそ、死を怖がらない戦争をしたくなる。
戦争は、死を怖がっている人類が発狂しないための「ガス抜き」になっているのかもしれない。
もしも縄文人が戦争をしていなかったとしたら、生き延びようとしていなかったからであり、すなわち衣食住だけのために生きていなかったからだ。
彼らは生きようとしたのではなく、生きてあることを忘れる祝祭に夢中になっていった。
それは、彼らが「いまここ」を「即興」で生きていた、ということだ。
「生き延びる」ということは戦争の時代のスローガンとしてとても有効なのだろうが、平和の時代をその衝動で生きようとすると、何かとぎくしゃくしてきてしまう。死ぬことに悪あがきしたり、平和を病んだものにしてしまう。
ただ平和であればそれでよいというわけにはいかない。平和には、平和を生きる作法があるのだろう。縄文人のように。



人間はパンのみによって生きるにあらず、などといっても、その、パンよりも大切なものが宗教=信仰であるとはかぎらない。
縄文人にとってそれは、自分を忘れて何かに夢中になってゆく高揚感(カタルシス)にあった。まあ宗教だって、そういう気分にさせる祝祭性は必要だ。けっきょくその体験が人間を生かしている。
生き延びるためなら、「パン」がいちばん大切なものになるだろう。そして「死後の世界」や「生まれ変わり」やそれを生きるための「霊魂」が必要だろう。
しかし縄文人には、「生き延びる」というような欲望はなかった。ただもう生きてあることを忘れて何かに夢中になってゆく「いまここ」の祝祭性に飛び込んでいった。原始人はみなそうやって生きていたし、原初の人類はそうやって二本の足で立ち上がっていったのだ。
人間は、根源において、生き延びようとしているのではなく、生きてあることを忘れたがっている存在なのだ。
原始神道は、そういう人間の自然=普遍性の上に成り立っている。
そういう「いまここ」の祝祭性がコンセプトである原始神道には、「死後の世界」も「生まれ変わり」も「霊魂」もなかった。
何かに夢中になってゆくこと、縄文人にとってのその「何か」とは、どのようなものであったのだろうか。
たぶん、「なりゆき」でなんでもよかったのだ。
「生き延びる」ためなら、そのための限定された何かがあるのだろう。「パン」とか「死後の世界」とか「生まれ変わり」とか「霊魂」とか、まあそのようなものだ。
しかし縄文人は「生き延びる」ことを目的にしていたわけではなく、そのための原理原則などなかった。
生き延びることなど目的にしていないのだから、未来の時間など思わなかった。つまり、何かに夢中になっていたいといっても、その「何か」を具体的想定することなどしなかった。
ただもう「いまここ」にあらわれた何かにときめいてゆくことができればよかった。べつに「何か」を欲しがっていたのではない。ただ、ときめいていたかっただけだ。
大切なのは「何か」ではない。生きてあることも自分もきれいさっぱり忘れてときめいているという、そのことが大切だった。「祝祭」の真髄は、そこにこそある。
だから神道においては「やおよろずの神」という。それは、「神=何か」などなんでもいい、ということだ。
人の心は「何か=神」にときめくのだが、「何か=神」が大切なのではない。ときめくというそのことが大切なのだ。
そして縄文人は、ときめくというその体験を「かみ」といった。
何かにときめいているのだからその「何か」もたしかにこの生や自分を超えた「かみ」ではあるが、その「何か」はなんでもよかった。



「なんでもいい」ということは、「即興性」の文化というか世界観・生命観である。
あらかじめ決められた「何か」があるのではない。「命の尊厳」などという、あらかじめ決められた価値などなかった。
縄文人にとって生きることは「即興」のいとなみだった。
したがって神道には、あらかじめ決められた教義などというものはない。
「神体(しんたい)」などという。神が宿る山や森や岩などを、ひとまずそう呼んでいる。
しかしこの言葉は、明らかに漢語であり、やまとことばではない。どうしてこんな言い方をしないといけないのか。
神には体などないから、山や森に宿る、という発想が生まれてくる。
山や森に神が宿っていることを「神奈備=かん(む)なび」などともいう。これはやまとことばだろう。そういう言葉があるのにわざわざ「御神体」といってしまうところに、この国の文化すなわち世界観や生命観がいかに仏教に浸食されているかがよくわかる。
天皇を神だといってしまえば、神の体もなければならない。おそらくそのような事情からだろう。大和朝廷の政策から生まれてきた言葉だ。
原始神道に、「御神体」などなかった。
「なび」とは、親しみを秘めている状態(存在=世界)のこと。「な」は「親愛」、「び=ひ」は「秘める」の「ひ」。「秘める」、すなわち「宿る」。
かみが親しく宿っているから「かんなび」というのだろうか。かみがなびいていること。「なびく」とは「漂う」こと。
「かみが宿っている」とは、「存在としてのかみ」がいるということではなく、そういう深くときめく体験をさせられる真髄がそこに漂っている、ということだ。その「真髄」のことを「かみ」といった。だから「真髄」は「神髄」とも書く。
語源としての「かんなび」は、「神髄が漂っている」というだけのことであって、「神体」のことではない。山や森に漂っている気配のこと。
縄文人は、山や森には「かみ=神髄」が宿っている、と思っても、山や森を「神」だとは思わなかった。直接、山や森そのものに深くときめいたのだ。まずそういう体験がなければ、後世の、山や森を「神体」とする発想も生まれてこない。
そしてそれを「神体」とすることによって、「神」という意識にとらわれて、山や森それ自体に対する畏れやときめきは薄れている。
縄文時代に「神」や「霊魂」に対する信仰などなかった。後世になって「山には神霊が宿っている」とか、いろいろいわれるようになってきたが、縄文人はあくまで山や森それ自体に対する直接的な畏れやときめきがあっただけだ。その直接性が、「いまここ」の即興性でもあった。
山や森に対するおそれやときめきがふつふつと心に湧いてくることを「かんなび」という。
それは、山や森そのものに対する直接的な感慨であり、「かみ」という感慨はあったが、神という対象を意識していたのではない。



同じような意味で「神薙ぎ=かん(む)なぎ」という言葉もある。
「なぎ」とは、世界が「いまここ」で完結・調和していること、あるいはそれに対する親密な感慨のこと。
「な」は「親密」、「ぎ=き」は完結した世界のこと。
ただし、人間と世界が調和しているというのではない。あくまで世界そのものが調和していること。調和している世界は美しい。
穏やかな海のことを「なぎ」という。
「なぎ倒す」といえば、一度にまとめて倒してしまうこと。
世界が完結してあることに対するカタルシスの感慨を「なぎ」という。
山や森の神髄に包まれてわれを忘れる心地になってゆくことを「かんなぎ」という。だから、そのようにして歌ったり舞ったりする巫女のことも「かんなぎ」といったりする。
縄文人は、山に囲まれた集落の中に高床式の社殿を立て、唄ったり踊ったりしながら、何もかも忘れて「いまここに消えてゆく」心地に浸っていった。この「いまここに消えてゆく」という高揚感のカタルシス(浄化作用)が縄文人を生かしていた。
心が山や森に溶けてゆくような心地。それは、山や森との「一体感」というのではない。自分=身体はあくまで「消えてゆく」のだ。
「消えてゆく」ことをコンセプトに生きていた人たちが、神を「存在」として思い描く「御神体」という概念など持つはずがない。
「神体」など、ただの漢語である。原始神道にそんな概念などなかった。あれば、そんな漢語を使う必要もなく、ちゃんとしたやまとことばとして残っているはずである。
そして「かんなび」や「かんなぎ」は、御神体をあらわす言葉ではなく、単純に山や森に対する親しみをあらわす言葉だった。



原始神道に「御神体」などというものはなかった。
現在の原始神道に対する認識の基礎は、ほとんどが戦前の天皇崇拝の論理の上につくられている。
天皇が神であるなら、「御神体」は存在するものであらねばならない。
そして、戦争を遂行するためには、人間は生き延びようとする存在であるという前提が必要だ。
しかし、原始神道はそんな論理の人間観の上に成り立っているのではない。
縄文時代に人々は戦争をしていなかった。彼らはあくまで「平和」を生きる作法で暮らしていた。
生き延びるための「死後の世界」とか「生まれ変わり」とか「霊魂」という概念は、戦争の時代に必要な生命観であって、平和を生きた縄文人のものではなかった。
65年前の終戦直後の人々だって、ひとまずそのような戦時中の概念を打ち捨てて、「いまここ」に消えてゆく「祭り=娯楽」とともに新しい時代を歩みはじめたのだ。
原始神道は、生きるため・生き延びるための教えではない。平和の時代は、「すでに生きてある」という前提の上に成り立っている。しかし「すでに生きてある」からといって、それを謳歌していたのではない。謳歌するということ自体、生きようとする欲望の上に成り立っている。縄文人は、生きてあることを嘆いていた。生きてあることを嘆いているのが、直立二足歩行の開始以来の人間の本性なのだ。「すでに生きてある」と感じるから、生きてあることが嘆きになる。それは、生き延びるための「パン」があるかないかというような問題ではない。「すでに生きてある」という事実に追いつけないという、あくまで実存の問題であり、官能の問題なのだ。そしてその「嘆き」から生きてあることを忘れて「いまここ」に消えてゆくカタルシスを汲み上げてゆくのが、縄文的な平和を生きる作法だった。
原始神道は、そういう「祝祭」の作法だった。
柳田国男折口信夫の説く原始神道など、もっともらしいことをいっても、生き延びようとすることを前提にした大和朝廷以後のものにすぎない。柳田や折口は戦争の時代を生きた人だから、どうしてもそういう発想や解釈をしてしまう。そこに、彼らの限界がある。
原始神道は、平和を生きる作法なのだ。
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