縄文の官能・「漂泊論B」45



縄文人は、山の中に集落をつくっていたし、男たちは、山の中を歩き回って旅をしていた。
日本列島は、氷河期が明けて海面が上昇したことによって平原のほとんどは水没し、さらには川が氾濫しやすくなって、残った平原も湿地帯になってしまった。
そのために人々は山に移住してゆくことを余儀なくされた。そこから縄文時代がはじまっている。
多くの縄文人は、山の民だった。
縄文人にとって山は、不可侵の神聖な場所でもなんでもなかった。それで、どうして「神が棲む場所」だと思うことができよう。
ただ、山に対する親しみがあっただけだ。その親しみの感慨が「かみ」であったわけで、山を「神という存在」だと思っていたわけではない。
集落の女たちにとって、旅をする男たちはどこかの山からやってくる存在だったし、集落から旅立っていった男たちはきっとどこかの山を歩いていることだろうと思いを馳せた。
多くの縄文人は、山の幸で暮らしていた。
また逆に、山の中に入っていって道に迷ったり斜面を転落したり、オオカミやクマなどに襲われた女子供もいたことだろう。
縄文人には、そういう山に対する悲喜こもごもの感慨があった。
それは、山に対する信仰、などというものではない。
山に囲まれた集落で暮らしていれば、山の稜線が世界の果てであるような心地になる。そういう「いまここで世界は完結している」という感慨のカタルシスを汲み上げてゆくことこそが縄文人の祭りだった。
「鎮守の森」というくらいで森と神社はセットになっているものらしいが、もとはといえば縄文人と山との関係にあったのだろう。
それは、山に対する「信仰」ではない。
彼らは、山に対して「生かしてもらってありがたい」と感謝していたのではない。人間は、根源において生き延びようとしている存在ではない。彼らは、生きてあることを忘れてしまうカタルシスを紡いで暮らしていた。
山に囲まれて暮らしていれば、山の向こうを思わなくなる。それは、この生の外側を思わないということだ。そうして、心が山の中に溶けてゆく。



石川啄木は「故郷の山に向かいて言うことなし、故郷の山はありがたきかな」といった。山を前にしていると、自我が消えてゆくような心地がする。そういう山に対する親密な感慨が、縄文人にはあった。
富士の樹海に入っていって自殺する人がいる。山の中が心中の場所に選ばれることは昔からあった。山は、日本人に「もう死んでもいい」という心地にさせる。そのようにして自我が消えてゆく。
そのようにして、生きてあることを忘れてしまう。
生きてあることの高揚感(カタルシス)と、死んでゆくことは、紙一重だ。
心中する男女の最後のセックスは、無上の生のよろこびか、死への旅立ちか。いずれにせよそれは、「いまここ」に消えてゆくこと、すなわちこの世界もこの生も「いまここ」で完結している、という心地にちがいない。山は、日本人の心をそういうところに導く。
そういうカタルシス(浄化作用)の感慨がある。それは、「山に生かしてもらってかたじけない」などという信仰心よりも、もっと人間の心を高揚させる実存的官能的な体験であるにちがいない。



原始神道は「マナ」に対する信仰だ、などともいわれている。
「マナ」とは、超自然的な力のこと。超能力、ともいう。呪術もそのひとつだろうか。
しかし人間は、根源的には生き延びようとしている存在ではないのであり、そんな力をありがたがるようになったのは、やっぱり共同体(国家)の発生以降のことだ。
それは、超自然といいながら、じつはものすごく俗っぽい制度的な世界観・生命観なのだ。
原始人は、そんな生き延びようとする心をたぎらせているような俗物ではなかった。
この自然に対して無力な存在になることが、人間の生きる作法である。そうやって原始人は地球の隅々まで拡散していったのであり、ネアンデルタールは氷河期の極北の地に住み着いていった。
エスパーだか念力だか、そんなオカルトをむきになってもてはやしているのは、生き延びることにあくせくしている現代人の方ではないか。何が原始宗教なものか。
アマゾン奥地の呪術信仰だって、現代の文明社会の観念性が伝播していった結果であり、原始時代のものではない。彼らだって、すでに原始人ではない。人間の遺伝子と制度的な観念性は、知らない間に地球の隅々まで伝播していってしまう。
原始人や縄文人にとっては、生き延びるためのそんな力を得ることよりも、「いまここ」に消えてゆくカタルシスを汲み上げることの方がずっと貴重な体験だった。そういうカタルシスを知っているから人間は、無力な存在として生きようとする。
この世界もこの生も「いまここ」で完結している、という高揚感。
原始神道は、そういう純粋な祝祭性というか実存的な官能の上に成り立っているのであって、マナ信仰でも精霊信仰(アニミズム)でも祖霊信仰でもない。そんなものはみな、文明人の制度的な信仰にすぎない。



日本列島の住民の山に対する感慨の基礎は、縄文時代につくられた。
原始神道の基礎は、山に対する感慨の上に成り立っている。
しかしそれは、山に神が住んでいる、ということではない。
もっと直接的な、山の民としての山に対する親密な感慨から原始神道が生まれてきた。
アマテラスという太陽神の信仰なんか、大和朝廷以後のものだ。
梅原猛とか中沢新一は、「自然の恵みに感謝する」のが原始神道であるというようなことをいっているのだが、そんな思考は、ただの制度的な自意識の産物にすぎないのであり、原始人も縄文人も、べつに生きてあることをうれしがっていたのではない。
縄文人は、生きてあることを嘆いていた。だからこそ、自分を投げ捨てて山に抱かれてあることのカタルシスを体験してゆくことができた。それは、何もかもきれいさっぱり忘れて「いまここ」に消えてゆく高揚感であり実存的な官能なのだ。
日本列島の住民の山に対する親しみは、「自然の恵みに感謝する」などという道徳的なことではない。もっと実存的で官能的な感覚なのだ。そこにこそ、原始神道の本領がある。
感謝すればえらいのか。人間は自然に対して無力な存在であり、自然に殺される体験はいくらでもある。それが人間の自然とのかかわりである。ネアンデルタールの子供の半分は、寒さのために生まれてすぐに死んでいった。それでも彼らは、けんめいに子供を産み続けていった。
縄文人だって、山に入っていって死んでしまった女子供はいくらでもいたのであり、それでも彼らはそんな危険な山に住み続けた。
発掘される縄文の男の骨は、腕や肩や足などの部分が変形してしまっていることが多い。それほどに彼らは山道を歩きまわっていたのであり、ときには斜面を転落して肩や腕を骨折することも珍しくなかった、ということだ。そのころは外科治療なども未熟だったから、いったん骨折したら一生変形したままになってしまう。それでも彼らは、山道を歩き続けた。
人間と自然の関係は、ほんらい、「感謝する」などといっていられないような、もっとせっぱつまってのっぴきならないものなのだ。
原初の人類は、せっぱつまって二本の足で立ち上がっていった。
それでも人間は、生き延びようとすることなど忘れて自然の中に飛び込んでゆく。それが、縄文人の山とのかかわりだった。
生きてあることなど鬱陶しいだけだが、それでも生きてあることの中に飛び込んでしまう。生きてあることを忘れて生きてあることの中に飛び込んでしまう。
自然の中に飛び込んでゆけば、生き延びようとすることなど忘れてしまう。
人間と自然の関係は、「感謝する」などというおちゃらけた関係ではないのだ。そんな程度の低い道徳論で縄文人の暮らしや世界観・生命観を語ってもらっては困る。
縄文人は、生き延びることなど忘れて自然の中に飛び込んでいったときに「かみ」という感慨を体験した。
それは、「いまここ」の実存的官能的な体験だった。そういう祝祭性。
べつに、「神という存在」を意識していたのではない。
「自然の恵みに感謝する」などという安っぽい道徳論で原始神道を語っている連中には、日本列島の「かみ」という言葉の玄妙なニュアンスはわかるまい。
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