縄文人は派手好きだった・「漂泊論B」43



神社のことを「宮(みや)」ともいう。やまとことばであるこちらの方がほんらいの呼称にちがいない。
みや=見屋、すなわち「かみ」を拝む建物。いやこれはただのこじつけだが、とにかくそこに「かみ」がいたのではないし、古代以前の日本列島における「かみ」は、そういう「存在」としての対象ではなかった。
「かみ「という音声が思わず口からこぼれ出る感慨があったし、「みや」という感慨があった。やまとことばは、そういう機能の言語として生まれ育ってきた。
「み」は「実」の「み」、「充実」「実感」の語義。「身が入る」とか「身にしみる」などというが、このときの「身=み」は、そういう字を当てているだけで、べつに体のことではなく、ほんらいは「体ごとの実感」というようなニュアンスだろう。
「み」は、深く実感すること。
「や」は「山」の「や」、はるかに遠い感慨の表出。あこがれ、畏敬。
「宮(みや)」とは、この世界の森羅万象に対するあこがれや畏れを深く実感すること。そういう体験をする場所が、原始神道の神社だった。
それは、「神」に対してそういう感慨を抱いたということではない。彼らは「神=ゴッド」なんか知らなかった。それでも生きてあればこの世界の森羅万象に対して知らず知らずそういう感慨が湧いてくる。その体験を「かみ」といったのだ。
もともと神社とは、体ごとそういう感慨に浸ってゆく場所なのだ。それは、何もかも忘れて「いまここ」に消えてゆく高揚感のことだ。
だが、この世界やこの生をつかさどる神や霊魂という概念を持ってしまえば、そういう「いまここ」の「即興」の体験はできない。
縄文人にとって生きてあることは、「いまここ」の「即興」であり、「いまここ」に消えてゆくことだった。それが人間性の普遍ではないと、果たしていえるだろうか。
起源としての神社には「祖霊」としての祭神などなかった。そんなものは、仏教を輸入した大和朝廷が勝手にでっちあげたものにすぎない。
われわれ日本人の祖先は、「いまここ」を生きる「即興」の文化を紡いで暮らしていた。したがって、「ご先祖様の霊」などというものがあるとは思っていなかった。われわれだって、ひとまずそんな霊があることを前提にして暮らしているが、心の底では信じていない。



スピリチュアル……われわれ日本人がどうして「生まれ変わり」や「死後の世界」などというものを信じなければならないのか。まったく、いやになってしまう。僕はそれほどすれていないし頭も悪いから、そんなものは信じられない。
日本人なら誰だって信じられない心は残ってしまうのだ。
いや、人間存在の自然において、そんなものを信じてゆくことができるような心のはたらきにはなっていないのだ。
しかし現在は、信じてしまうような社会の構造があり、時代の状況がある。そしていったん信じてしまったらもう、引き返せない。
それでも日本人なら誰でも、心の底では信じていない。人間なら誰も、そんなことを信じきれるものじゃない。
人間はそういう信じる心をつくっているのであって、生まれたままの自然にそんな心のはたらきがあるのではない。
この社会は、そういう信じる心をつくってしまうような構造になっている。
人は、そういう社会の構造に囲い込まれてしまったりすがりついていったりしながら、「霊魂」や「生まれ変わり」や「死後の世界」信じる心になってゆく。そのようにして育ってきたのなら、もう信じきる道を突き進むしかない。人間はそのように観念世界をつくってしまうことができるし、つくってしまえば、この世界と調和した心地になれる。それは、この社会の構造と調和している心地なのだ。
しかし人間の心は、根源において世界と調和していない。
原初の人類は、世界との調和を喪失するかたちで二本の足で立ち上がっていった。そうして、喪失しているぶんだけ命はいきいきとはたらいた。
世界との不調和を「なりゆき」にまかせて生きているのが人間なのだ。
世界との調和をつくろうとすること自体、この社会の制度性なのだ。
世界と調和していることなど、人間の自然でもなんでもない。
人間は、世界との調和を生きようとしている存在ではない。
調和していないことが、人間の自然なのだ。そして調和していなことの帰結は「終わる」ことにあるのであって、調和を獲得することにあるのではない。
「死後の世界」や「生まれ変わり」を信じてこの生の永遠性を自覚すれば、この生と世界との関係は調和に満ちたものになることだろう。それでいいのか?そうやって心は動くことをやめる。われわれの感性はそうやって鈍磨してゆき、思考は停滞してゆく。
この社会は、人が世界との調和を欲しがるようにしてしまう構造になっている。
「死後の世界」や「生まれ変わり」や「霊魂」を信じてこの世界との調和を持とうなんて、よほど社会に対してすれているかナイーブであるかのどちらかなのだ。そうやってすれっからしの賢い知識人とたらしこまれやすい愚かな庶民とが結託して、スピリチュアルのブームをつくっている。いや、ナイーブな知識人とすれっからしの庶民、というべきだろうか。まあ、どっちでもいい。ようするにそれは、現代社会の構造(制度性)の問題だ。
それは、人間社会に共同体(国家)が生まれ、人々の心に世界との調和を求める心で生きることを強いるようになったことの結果だ。
世界との調和を実感すればそれで万歳だ、などといわれても困る。われわれは、そんなふうには生きられない。
日本列島でそのような社会の構造になっていったのは、1500年前に大和朝廷が生まれ、仏教とともに「死後の世界」とか「生まれ変わり」とか「霊魂」という概念が輸入されてからのことである。
大陸ではすでに6、7000年前からすでにそういうシステムになっていたが、日本列島では、そういう変化が大幅に遅れた。それは、縄文時代の1万年で、すでに世界との非調和の「なりゆき」を生きる文化を高度に洗練させてしまっていたからだ。そういう人間の自然を生きる文化を。
日本列島の住民がこんなに高度に完成された共同体を持ってもまだそんな縄文以来の「人間の自然」の文化を捨てきれないのは、それが「人間の自然」だからだ。
万世一系なんてどうでもいいが、ひとまず原始的な存在である天皇神道もここまで生き残ってきたのは、この国の縄文以来の伝統が原始的な「人間の自然」の上に成り立っているからだろう。
ただの作為的なシステムは、時代とともにどんどん淘汰されてゆく。しかし「人間の自然」の上に成り立ったシステムは、そうかんたんには消えない。
とはいえ、「死後の世界」も「生まれ変わり」も「霊魂」も知らない古代の人々が仏教的なそれらの世界観・生命観を受け入れてゆくためには、それなりに小さくない痛みや嘆きがあったはずである。
われわれ日本列島の住民は、いまだに「国(くに)」という制度的なシステムを嘆き続けている。



縄文集落にも、個人が住むには大きすぎる建物というのはあった。
雨の日や寒い冬の日にもみんなが集まることのできる施設として建てられたのだろうか。
おそらくこれが、起源としての神社の建物だ。
祭りは、人が集まってくるところで発生する。
そこで、語り合ったり、歌ったり踊ったりしていたのだろう。
縄文社会は基本的に祝祭社会だから、そういう歌や踊りの文化が大陸より遅れていたということは考えられない。
ただ、大陸の歌や踊りが決められたかたちを持って発達していったのに対して、日本列島のそれは、即興で流れてゆくのが基本になっていたらしい。これは、共同体(国家)を持っているか否かの社会の構造の違いから来ているのだろう。
たとえば「手の動きが何かを意味している」というようなことは大陸の流儀であり、日本列島では何でもありの即興で、その動き方の「色気」だけが表現の根本要素だった。
こういう踊り方は、大きな共同体(国家)を持たないアフリカと日本列島で発達していった。アフリカにも、日本の古代・中世とそっくりな踊り方をする部族がいるらしい。日本舞踊の原型のような、微妙に即興的に手を動かしたり体をくねらせたりするだけの踊り方。日本ではそれが制度的な要素も加えて高度に様式化していったが、共同体が発達しなかったアフリカでは、そういう原始的な踊りがいまでもそのまま残っていたりするらしい。ある歴史家はそれを、シルクロードを通って日本列島から伝わっていったのだともいっているほどよく似ているのだが、そこのところはまあ、よくわからない。たんなる同時発生かもしれない。
しかしまあ、日本列島の古代や中世の踊り方をそのとき中国人が見て、なんと洗練されてあでやかなことだろう、と感動したということは十分想像できる。
共同体の制度なんかなくても、歌や踊りの文化は発達する。
ただ、アフリカはいまでも歌や踊りの即興性は残っているが、日本列島ではしだいにそれを失っていった。というか、様式美と即興性をミックスさせて発達してきた、ということだろうか。
共同体の制度を持たない「なりゆき」の文化の縄文人の歌や踊りは、おそらく即興性にあふれていた。
そして即興性にあふれていたということは、決められたときだけではなくいつでもそういう祭りが生まれてきていた、ということだ。
女子供だけの集落に旅をする男たちの小集団が訪ねてくれば、たちまちお祭りになっていった。そしてそういうお祭りの歌垣でパートナーが決まっていった。即興のパートナーである。
歌垣とは、「あの子が欲しい、花いちもんめ」みたいな遊びのこと。
彼らの暮らしは、すべてが即興の「なりゆき」だった。



まあ、そういうお祭りが屋外の広場だけではすまなくなり、大きな建物もつくるようになっていったのだろうか。
伊勢神宮の本殿のような高床式の建物は弥生時代のものだといわれていたが、じつは縄文集落にもあったことが最近にになってわかってきた。
そして高床式だから、開け放てば、そのまま舞台になった。そうやって歌や踊りをみんなに披露するということを、もしかしたら縄文時代からやっていたのかもしれない。
そしてこのような舞台の形式は、現在の農村歌舞伎や能の舞台にいたるまでずっと引き継がれてきている。昔の関所や裁判所も、この舞台形式だ。
この高床式の建物は貯蔵庫だったというのが一般的な歴史家の解釈だが、縄文人は室(むろ)をつくって貯蔵していたのであり、それで事足りていたのではないだろうか。
とにかく「祭り」は、彼らの暮らしの大切な一部だったはずである。
起源としての神社は、祭りのための建物だった。宗教施設というようなものではなかったはずである。
そういう建物を、すでに縄文人も持っていたのかもしれない。
最初の祭りは、集落の中心の広場だけでなされていたが、大きな建物が建てられるようになってからは、屋内でもできるようになっていった。
宮=見屋とは、舞台のことだったのだろうか。そういってしまうとかんたんだが、語源的には、感慨をあらわす言葉であったはずである。
「みや」とは、遠いあこがれが胸に満ちてくること、つまり、華やかさとかあでやかさのようなことを「みや」といったのだろうか。
「雅(みやび)」といえば、はなやかさやあでやかさが秘められてある様子のこと。「ひ=び」は、「秘める」の「ひ」。
縄文人は、染色技術が発達していて、わりとカラフルな服を着ていたらしい。
後世に「霊魂」という字があてられる「たま」という言葉には、「キラキラ輝いている」というニュアンスもある。キラキラ輝く翡翠の玉。縄文人はあんな硬い石をけんめいにまん丸になるまで磨いていた。彼らは、そういうはなやかであでやかなものが好きだったらしい。それは、「即興性」から生まれてくるニュアンスである。
即興で生まれてくる言葉は、キラキラしている。
彼らはけっこう派手好きだった。というか、けっこうおしゃれで、キラキラしたものが好きだった。そして、キラキラした心でときめいていった。
赤い漆の食器や櫛も愛好していた。
漆なんか、どうしても生活に必要なものというわけでもないだろう。しかも、抽出するのにひどく手間がかかるし、手もかぶれる。それでも彼らは大いにそれにこだわった。
それほどに「祭り=娯楽」が好きだった。
歌や踊りが好きだった。
つまり、何もかも忘れて気持ちが高揚するカタルシスを汲み上げながら暮らしていたのだ。その感慨を「みや」といい、そういう体験が生まれる場を「みや」といったのかもしれない。
どうやら起源としての神社は、気持ちがキラキラして晴れ晴れとするところだったらしい。
まあわれわれだって、正月の初詣のときは、そういう気分になっている。
縄文の祭りの、自分を忘れて森羅万象に溶けてゆく高揚感を「みや」といった。
日本人がなんでもかんでも受け入れてしまう習性を持ち、そういう歴史を歩んできたのは、つねに神道的な祝祭の気分が心の底に流れているからかもしれない。
それは自分を忘れてしまうことだから、受け入れることに抵抗感はない。日本人は、尻軽なおっちょこちょいだ。
大和朝廷は仏教を受け入れ漢字を受け入れ、幕末・明治のころはとんでもない不平等条約とともに西洋文化を受け入れてゆき、昭和になって戦争に負けたときには、その負けた相手のアメリカ文化を進んで受け入れていった。
あとになって困ることなど考えずに、ひとまずまるごと受け入れてしまう。よくもわるくも、その即興性、「なりゆき」の文化。
日本列島の住民にとってそれは、ひとつの「祝祭」だった。
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