身体作法の伝統・「天皇の起源」23



現代人は、自分の意志で身体をどう扱うか、という作為的な問題意識で生きている。身体はどのように動くのか、どのように動いてしまうのか、という発想はしない。だから、かえって身体の動きがぎこちなく、とっさに体の方が勝手に動いてしまうという体験がないし、歳をとって歩けなくなってしまったりすることも多い。
意識が身体を支配をしているから、意識の変調がすぐに体に現れる。
昔の日本列島の住民は、もっとスムーズに体を動かしていたはずである。
とくに「歩く」という身体作法は、この国の伝統文化なのだ。
人類の直立二足歩行は、体の重心を少し前に倒せば自然に足が前に出てゆく歩き方であり、体が勝手に動いてしまう身体作法を持っているのが人間の自然なのだ。
人類は、「体が勝手に動いてしまう」というかたちで「踊り」という身体作法を身につけていった。
そして「体が勝手に動いてしまう」身体作法こそ、日本列島の伝統文化である。
戦後社会は、この伝統を失った。というかみずから捨てた。そうして、願いをかなえることとか、人間の意志がこの社会をどう扱うかというような作為的で近代合理主義的な問題意識で突っ走ってきた。
「体が勝手に動いてしまう」こと、それはつまり「なりゆき」にまかせて「いまここ」を受け入れてゆくということであり、戦後社会はそのような伝統文化を置き去りにしてきたあげくに、なんだか体の動きが鈍くさい人間ばかりの世の中になってしまった。
彼らには「なりゆき」で身体が動く、ということがない。



バブル以後、もはや「身体をどう支配するか」とか「この社会をどう動かしてゆくか」という作為的な問題意識は行き詰ってきている。その論理で原発反対を騒いでみても、いまいち盛り上がらなかった。
それはきっと、良くも悪くも「なりゆきにまかせるしかない」という伝統を消し去ることはできなかった、ということだ。戦後左翼の知識人たちは、それが日本人の限界だ、日本語の限界だ、それはもうやめないといけない、とさんざん言っていたのだけれど。
共産党も含めて彼らはほんとに、「日本人の限界」という言葉が好きだった。まあ日本列島の住民はそういう自己否定の言い方をしたがる民族であるのだが、彼らのそのセリフとともに戦後社会は伝統を置き去りにしながら歩んできた。
戦後社会においては、身体をどう取り扱うかという問題だけがあって、身体のなりゆきに対してはどんどん鈍感になっていった。そうやって誰もが自意識過剰になっていったのかもしれない。その傾向がバブル景気で極まり、現在は、それを体験した大人たちと、それを知らない若者とのあいだのジェネレーションギャップが大きくなってきている。
いまどきの若者たちは、大人たちに反抗はしないが、大人たちのその作為的な表情やしぐさや思考をうんざりしながら眺めている。
日本列島の伝統においては、身体という自然も社会も、「すでに存在しているもの」としてその「なりゆき」を受け入れてゆく対象だった。現在、このような態度や思考は、大人たちよりも若者の方が持っている。
戦後社会はそういう伝統をかなぐり捨てて作為性に邁進しながらバブル景気にたどりついたわけで、大人たちにはもう、そういう習性がしみついてしまっている。



原発反対運動は、民衆よりも上位に立っていると自覚したものたちによる、民衆を支配しコントロールしようとする運動である。
福島の人々は今、「起きてしまったことはしょうがない、その現実をどう受け入れてゆくか」と煩悶している。そんなときに「原発は悪だ」と叫ぶことは、彼らの煩悶を踏みにじることになったりしている。
原発がいいか悪いかという問題ではない。この世界の「なりゆき」として起こってしまった「いまここ」の現実を受け入れるなら民衆はついてゆく。しかし、この世界=社会を支配しコントロールしようとしても、それは民衆の身体感覚とずれてしまっている。
民衆自身の先験的な連携は、そんなところにあるのではない。何はさておいても、この世界の「なりゆき」としてのその事実をどう受け入れてゆくかということにある。そのいとなみを放り出してむやみに原発反対を叫ばれても戸惑うばかりだ。
支配者がこの国の民衆の連携を組織することは、そう難しいことではない。もともと自我の薄い民族だし、それが避けがたい「なりゆき」だと納得すれば、あっさり受け入れる。そうやってあのとき、みんなして戦争に突入していったのだろう。
よい現実だろうと悪い現実だろうと、この国の民衆はひとまずそれを受け入れる。歴史の無意識としての日本列島のこの伝統は、そうかんたんになくならない。
そのとき原発反対を高らかに叫ぶ声と、福島の農産物を買って福島の人々を祀り上げようとする声なき声とがあった。前者は戦後の風潮としての左翼運動とか民主主義とかの病理であり、後者は、この国の歴史の古層がよみがえる現象だった。



人間にとって「歩く」ことは体が勝手に動いてしまうことであり、とんだりはねたりすることのほうがむしろ身体を無理やり支配する作為的な動きなのだ。
日本人は、世界的に見てとくに身体能力に優れているわけではないが、独特のスムーズで自然な体の動きを持っている。それは、歩く文化を洗練させてきたからだ。
日本列島の「歩く」文化は身体が勝手に動いてしまうことを止揚する文化であり、それはまた、この身体の避けがたい「なりゆき」としての「穢れ」を自覚し受け入れるということでもある。そこから、他者を「祀り上げる」という心の動きが生まれてくる。
つまり、日本列島の体が勝手に動いてしまう文化は、他者を祀り上げる文化でもある。
原初の人類は、他者との出会いのときめきから自然に体が動いてしまう体験をした。そうして踊りが生まれてきた。
人類の直立二足歩行は自然に体が動いてしまう身体作法であり、この生態が契機になって踊りが生まれてきた。
人間は、自然に体が動いてしまうような契機を持っている。
日本列島の踊りがなぜ跳びはねるような動きへと発展していかなかったかといえば、「歩く」ことを基礎にしている文化だからだ。
縄文人の多くは、山間地で暮らしていた。山の暮らしからは、走ったり跳びはねたりする習慣は生まれ育ってこない。そういうことができる広い平地がないし、山の斜面でそんな動きをすればたちまち転落する。
縄文人は、山道をひたすら歩き、歩く文化を洗練させていった。日本列島の「歩く文化」の基礎は、縄文時代の1万年でつくられた。
歩き続けていたから、自然に体が動いてしまう傾向が発達し、歩くことを基礎にした踊りが生まれ育っていった。
べつに考古学の証拠があるわけではないが、山道を歩くことを習慣にしていた縄文人はそれゆえにこそ踊ることが好きで上手な人々だったと考えないとつじつまが合わない。



人類の踊りの文化は、跳びはねる動きとして生まれてきたのではない。そんなことくらいは猿でもしているし、猿の方がもっと上手だ。
猿は人間よりも身体能力を豊かに持っているが、猿の身のこなしを人間よりも優雅で洗練されていると思う人はいないだろう。
人間的なしぐさや身のこなしの洗練は、踊りの文化とともに生まれ育ってきた。そしてそれは、意志的な身体操作としての跳びはねることによってではなく、自然に体が動いてしまう体験としての「歩く」ことの洗練として生まれてきた。
原初の踊りは、歩くことに熱心な民族のもとで生まれ育っていった。
跳びはねることが原初的な踊りだと考えるべきではない。それは、共同体の制度が発達して意識が身体を支配するという傾向が肥大化してくるとともに育ってきた。
アフリカのダンスだって、基本的には「歩く」という身のこなしでリズムを刻んでゆくことの上に成り立っているので合って、西洋のバレエのような踊りとは違う。
リズムを刻むということ自体が歩く行為の延長であり、跳びはねることは、リズムという「なりゆき」から逸脱してゆく身体操作である。
アフリカのダンスは、あくまでリズムという「なりゆき」を大切にしている。だからその擦り足のような動きは、能の動きと似ている部分も多い。
能にも、たとえば「田村」や「船弁慶」のような戦闘の舞もある。しかしそれだって、つねに片方の足が地面についているという「歩く」という身のこなしが基礎になっている。
アフリカのダンスは、われわれの先入観ほどには跳びはねてはいない。西洋のバレエのようなアクロバティックな動きはない。あくまで「なりゆき」のままに身体が動いてしまう踊りである。座ったままの踊りが伝統になっている部族もあるくらいだ。
人間の「自然に体が動いてしまう」という身のこなしは、「歩く」ことが基本になっているのであって、猿のように跳んだりはねたりすることにあるのではない。



幕末のころに日本列島にやってきた西洋人は、日本人の自然な身のこなしの洗練度に驚いたのだとか。それはきっと、「歩く」ことの上に成り立った「舞の文化」の歴史を長くつないできていたからだろう。
姿勢のよさとか、ボディランゲージとか、意志的な身体操作の文化は西洋の方が発達している。しかし日本列島の「舞=姿の文化」は、「なりゆき」のままに自然に体が動いてしまう身体作法にある。
野球選手のフォームなどは、アメリカの選手よりも日本の選手の方が明らかに自然でなめらかである。基礎的な身体能力に差はあるにせよ。そしてそういう違いは、すでに民衆の身のこなしの違いになってあらわれている。
外国の女が着物を着ても、なんとなくさまになっていない。それは、体型の違いだけのことではない。身のこなしの違いがそのまま「姿」の違いになってあらわれている。
日本的な身のこなしの文化というのがある。その伝統の基礎は、おそらく1万年のあいだひたすら山道を歩いていた縄文人によってつくられた。この国の伝統の古層はそこにあるのであって、縄文人はわれわれにとっての異民族であったのではない。
つまり日本人のルーツは、大陸からやってきた新参者の弥生人縄文人と入れ替わったのではなく、縄文人がそのまま弥生人になっていっただけである。
それはともかく、縄文・弥生時代は舞がさかんだったはずである。なぜなら「歩く」ことを基礎にした社会だったからだ。もしかしたらわれわれ現代人が考えるよりも彼らはずっと洗練した身のこなしを持っていたかもしれないし、そういう古層が中世の「能」としてよみがえったのかもしれない。
能の舞は、洗練の極みであると同時に、とても原始的な「歩く」ことを基礎にした身体作法でもある。われわれが弥生時代奈良盆地の巫女の舞とはどのようなものであったのかと想像するとき、「能」の舞がそのヒントになるのではないかという気がしないでもない。
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