踊りの起源・「漂泊論B」51



人類の歌や踊りはいつからはじまったのか。
歌と踊りとどちらが先かといえば、これは難しいところだ。
まあ、踊りとは音楽に合わせて体を動かすことで、音楽がなければ踊り続けることはできないし、踊りが進化することもない。
ネアンデルタール人はすでにフルートのような笛を持っていたらしい。穴をあけて音階をつくっていたというのだから、それはもう立派に音楽であったはずだ。
太鼓のような打楽器は、もっと前からあったにちがいない。べつに太鼓のかたちになっていなくても、叩けば打楽器である。
何かを叩くリズムに合わせて踊ることをはじめていったのだろうか。
アフリカの踊りは、そのようになっている。彼らには、自然から逸脱しようとする衝動と、体を激しく動かしたいという衝動があった。
ネアンデルタールだって、体を動かすことには体が温まるという効用があった。それはまあそうなのだが、彼らの場合は、それだけではなく、みんなが親密になってゆくという場にもなっていた。
アフリカの場合はひとりひとりがそれぞれ勝手に恍惚となっていければそれでよかったのだが、ネアンデルタールの踊りの場では、縄文時代の歌垣のように、その夜のパートナーを決めるという機能もあったのかもしれない。
近在の集落から人がやってくれば、たちまち歌と踊りの祝祭になる。ネアンデルタールはもう、縄文人と同様に、そういうことをせずにいられない人々だった。そういう祝祭性が、氷河期の極北の地に住み着いている暮らしを成り立たせていた。



人間にとって二本の足で立っていることはとても居心地の悪く無力な姿勢である。
人間存在は、そういう受苦性の上に成り立っている。
そして、歩いてゆくことはその受苦性からの解放であり、歩いていれば、身体のことを忘れている。これが、人間の行動の根源的なコンセプトだと思える。
踊るということを覚えたのも、まあそうやって身体の受苦性から解き放たれる行為だったのだろう。
人間は、身体の受苦性から解放されたがっている存在なのだ。そのようにして、身体が進化してきた。
もともとチンパンジーのような猿だった人類の身体が直立二足歩行の猿としてひとまず完成してきたのは、100万年前ころからだろうか。そこで、歩くことよりももっと身体が解放される行為として踊りが生まれてきたのだろう。つまり、ただ歩くだけではすまなくなってきた。
しかしそれは、身体や直立二足歩行が完成することによって、もっと身体の受苦性を深く抱えこんでしまった、ということでもある。
もう、二本の足で立って歩くしかない存在になってしまった。
それほどに二本の足で立っていることは居心地の悪い姿勢なのだ。この居心地の悪さは、永遠に解決されない。現代人だって、この姿勢によるさまざまな身体疾患を抱え込んでいる。膝が痛いとか腰が痛いとか、なまじ身体や直立二足歩行が完成しているからこそ、さまざまな無理を身体に強いるようになってしまった。
因果なことに、その居心地の悪さのストレスからカタルシスを汲み上げてゆくのが人間の生きる作法なのだ。
根源的には、人間の行為は二本の足で立っていることの心身のストレスからの解放として起きてくるのであり、踊りもまた、そのような契機から生まれてきたのだろう。
そして、踊りは歩くこと以上の解放感が体験されるということを、いつのころからか人類は気づいていった。そうして、踊りのための音楽が生まれてきた。それはまあ、身体も知能も文明もそれなりに進化した数十万年前以降のことにちがいない。



踊りは、歩いてゆかなくてもその場で身体の解放が得られる行為である。
つまり、歩いていった果てに起きる行為なのだ。
どこからともなく人が集まってきて、そのめでたさに心が高揚して踊りが生まれてくる。
人が集まってくるという高揚感が踊りを生み出した。
まあこのようなことは、人類発祥の昔から起こっていたことであり、そこでキャッキャとはしゃぎ合うことが、ひとつの踊りだったともいえる。
人間集団の根源は、そういう祝祭性の上に成り立っている。
しかし、ただはしゃぎあうだけでは長続きはしない。
だから原初の人類集団はなりゆきまかせの離合集散が頻繁に起こり、ついには地球の隅々まで拡散していった。
サバンナの中の小さな森から森へと移動生活をしていたアフリカの家族的小集団どうしは、その森で出会えば、そこで祝祭がはじまったことだろう。そうしてひとしきり盛り上がり、気がすんだらたちまち別れてゆく。これが、アフリカの祭りの流儀らしい。べつに、人と人が親密になってゆくイベントではない。それぞれが自然からも仲間との関係からも離脱してトランス状態に入ってゆくのだ。そのためには、どうやら打楽器のリズムが有効らしい。
ミーイズミは、アフリカの伝統である。
しかしネアンデルタール縄文人の踊りの文化は、これとはちょっと違う。



みんなで自然の中に飛び込んでゆきながら親密な関係が生まれてくる祭りと踊りは、極北の地まで拡散していったネアンデルタールのところから生まれてきたにちがいない。
まあそこは行き止まりの地だったし、寒いからどうしても寄り集まってゆこうとする。ひとりひとりが勝手にトランス状態に入ってゆこうという気にならなかった。
アフリカのサバンナの民は、別れのために踊るという祭りをし、ネアンデルタールは出会いを止揚してゆく行為として踊りの文化をつくり上げていった。
初期の原始人は、出会いのときめきにはしゃぎ合っていても、わりとあっさり別れていった。それが、世界中に拡散してゆくにつれて、しだいにその出会いのときめきを生きる集団性が生まれてきた。そうして人類の集団は、しだいに大きな規模になっていった。
そこではじめて、自然の中に溶けてゆくようなメロディに対する志向が生まれてきたのだろう。
ネアンデルタールのフルートは、おそらくそのようにしてつくりだされた。
ネアンデルタールは、踊りのリズムにメロディを加えていった。そのメロディによって、人々の親密な関係が生まれてきた。
輪になって踊るという習性は、そこで生まれた。
日本列島にも、盆踊りというのがある。この古式は、男と女が一対になりながら輪になって踊る、というものだったらしい。運動会のフォークダンスも、まあそういう形式だ。
西洋ではそこから社交ダンスというのが生まれてきたが、日本列島では、手をつないだり体をくっつけ合うという習慣がなかった。
ネアンデルタールの踊りが人と人が親密になってゆくことを最優先にしていたとしたら、日本列島の場合は、みんなして「自然に抱かれてゆく」というコンセプトがもっと大切にされていたのだろう。だから、体をくっつけ合う踊りが生まれてこなかった。ただ親密になることだけじゃない。手をつないだり抱き合ったりしてしまったらそこで完結して、みんなして山という自然に対する親密さを共有してゆくということがおろそかになってしまう。
みんなが山に抱かれてある……という感覚。この「みんな」という感覚が、よくもわるくも日本的なのだ。
日本列島には神との一対一の関係を結ぶという自我の文化がなく、みんなで自我を捨てて山という自然に対する親密さを共有し、みんなで自我を捨てる(=自我から解放される)ことのカタルシスを汲み上げてゆく、という文化になっている。
だから、そばに寄っていっても、くっついてはゆかない。



縄文人にとって「山という自然に抱かれてある」という感覚は、われわれが想像するよりもずっと深く切実だったのではないだろうか。そしてこれが、日本列島の文化の基礎にも、天皇制の基礎にもなっている。
西洋人は、それぞれが神との一対一の関係を結んでいる。そういう自我を持っている。
一方縄文人は、誰もが自我を消して山という自然に抱かれてあった。
日本列島の住民にとっての天皇は、山という自然と同様に、自我を消す装置として機能している。
したがって、どんな権力者も、天皇になろうと思うことができない。天皇は、なろうとしてなる存在ではなく、なろうと思うことが不可能な存在である。
天皇になろうと思うこと自体が、自己矛盾なのだ。
天皇家の中でおたがいに「自分が天皇であるべき存在である」と主張し合う争いはいつもあった。しかしそれはあくまで既得権益の争いであり、それぞれが自分こそが天皇であると主張しているのであって、天皇になろうとしているのではない。
この国においては、天皇になろうと思うことは絶対的な自己矛盾なのだ。天皇になることは、自我を消すことなのだ。天皇とは、自我を消している存在である。
天皇家の外部の人間は、どんなに強大な権力をにぎろうと、つねに天皇になろうと思うことの不可能性から逃げることはできなかった。
天皇の身がわりとして権力を手中にすることはできても、天皇になることはできなかった。
初期の大和朝廷では地方の豪族が代りばんこで天皇になっていたというような説もあるのだが、そんなことはあり得ないのだ。それだったら、頼朝も尊氏も信長も秀吉も天皇になれた。
日本列島の歴史で、自分こそが天皇であると主張したものはいくらでもいたが、厳密な意味で天皇になろうとしたものはひとりもいない。
天皇になることは自我を消すことだから、天皇になろうと思うことは自己矛盾なのだ。そしてその壁を、誰も打ち破ることはできなかった。
天皇になろうと思うことのどうしようもない後ろめたさは、たぶん信長にもあった。自分こそが天皇であると思うことができるものでなければ、天皇の座を争うことはできない。
天皇家は、たぶん弥生時代奈良盆地の民衆のあいだから生まれ、それがずっと続いてきたのだ。
天皇は、民衆が自我を消して山という自然に抱かれてゆくことの「象徴=身がわり=形代」として奈良盆地で誕生した。
奈良盆地の共同性は、みんなして山という自然に抱かれてゆく心の動きの上に成り立っていたのであり、天皇はその担保というか生贄のような存在だった。しかしだからこそ、民衆から深く愛されてもいた。彼らにとっては、山という自然に対する親密さは、天皇に対する親密さと同義だった。
縄文人の踊りは、男と女が抱き合う前に、まずみんなして山に抱かれていった。同様に、第二次大戦の特攻隊の兵士が死んでゆくときも、心は、親しい知人と抱き合う前に、まず天皇に抱かれてあった。だから、「天皇陛下万歳」と叫んだ。
日本列島の山という自然は、自我を消す装置として機能してきた。
自我を消して世界や他者に親密になってゆくという作法、その基礎は、山という自然の中を生きた縄文人がつくった。
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