舞うということ・「漂泊論B」65



弥生時代奈良盆地を政治や経済の側面で語る歴史書はあっても、弥生時代の舞について語っている著作を僕は知らない。
それは、日本列島の住民の世界観や生命観の祖型について考えることである。
高校生のころ、和辻哲郎の「風土」という本を読んでひどく感心したことがある。その本は、僕の心を奈良盆地に誘った。
ひとまずここでは、和辻哲郎がそこで考えたことのその先に分け入ってゆきたいのだが、そうなると、どうしても「舞」のことが気になる。
大和朝廷ができてからの舞の文献ならいくらでも残っているのだろうが、気になるのはそれ以前のもとになるかたちだ。
いちおうお神楽の舞は現存するもっともプリミティブなもののひとつだろうが、これだってまあ、仏教とともに大陸から輸入された舞(伎楽)をアレンジしていったものが多く、時代によるさまざまな変遷に洗われており、あくまで現在の舞にすぎない。
獅子舞などは、もちろん弥生時代にはなかった。
また、曲芸のような舞も、おそらく大陸からの輸入だろう。
日本的な舞は、跳んだりはねたりするようなものではなかった。ここのところは大事だ。



大陸の舞は、広い平原で生まれ育ってきた。だから、二本の足で立って歩くことの発展型として走ったり跳んだりはねたりすることの醍醐味に目覚めていった。そうしてバレエが生まれてきた。おそらくそれは、みずからの二本の足で立って歩くという与件=自然から飛び立とうとする衝動だろう。確かに人間にはそういう衝動があり、そこから曲芸の舞も生まれてきた。
しかし、山間地で暮らしていた縄文人には、そうそうむやみに走り回れるようなスペースはなかったし、男たちはひたすら山道を歩いて旅していた。
日本列島の文化の基礎には「歩く」ということがある。縄文人は、走り回るよりも、歩くことそれ自体を洗練させていった。日本列島の舞の基礎となるかたちは、そのようにして成り立っている。
したがって、曲芸のような舞は大陸から入ってきたところからはじまっているのであって、神楽も、弥生時代までは遡行できない。
また、弥生時代の舞は仮面をつけていたかという問題もある。
西洋の「マスク」は、内面や氏素性を隠すためにつける。仮面舞踏会は、そうやって欺き合いながら親密になってゆく流儀なのだろう。異民族や階級差が入り混じっている社会だから、それらをいったん帳消しにしようとする意図があるのだろうか。これもまた、「歩く」という自然からの跳躍・逸脱である。
それに対して日本列島の、たとえば能の面などは、逆に内面や氏素性をより濃密にあらわすという機能を持っている。
身体の外の自然や他者に対して親密な日本列島の文化と、緊張感を持っている大陸文化との違いだろうか。
西洋人の方が変身願望は強い。だから、他人を欺くという駆け引きも上手い。日本人は、上手に自分を偽ることができない。内面や氏素性を濃密に表現してしまうような仮面の文化を持っている民族なのだ。
いや、仮面だけではない。やまとことばは内面を表出する機能として洗練してきたが、大陸の言葉は「意味」に特化して完成してきた。「意味」は、内面を偽る仮面=マスクの機能を持っている。
であれば、弥生時代に仮面をつけて舞っていたことは考えられない。たぶん、猿や熊になって舞うというようなことはしていなかった。
文化人類学的な現代の未開人が猿や熊になって踊っているからといって、日本列島の弥生人縄文人もそうしていたとはかぎらない。
それはあくまで舞う人の全人格の表出であり、「歩く」という自然をそのまま表現する作法だった。
弥生時代には、曲芸の舞も跳びはねる舞もなかった。



「舞う=まう(ふ)」という言葉の語感に、跳びはねるというニュアンスは感じられない。
「ま」は「まったり」の「ま」、「充足」「完結」の語義。すなわち、心に満ちてくる感慨のこと。
「ふ」は「伏す」「降る」「踏む」の「ふ」、「到達」「終息」の語義。すなわち「表現・表出」すること。
心に満ちてくる感慨を表現・表出することをひとまず「まふ」というのだが、この音声の響きは動的ではない。
では日本列島の住民は、どのようなときに「充足・完結」の感慨を抱くか。
日本列島の住民は、身体の外の自然(世界)に対する緊張感が希薄な民族で、自分を捨てて自然の中に飛び込んでゆくのが縄文人弥生人の生きる作法だった。
彼らにとってこの生は、自分を忘れて身体がまわりの自然に溶けて消えてゆく心地のときにこそ充足・完結していた。
この「溶けて消えてゆく」感触を、「ま」といったのだ。そうして「ふ」は、「ふうっ」と息を吐いて熱を冷ます。「震える」の「ふ」、震えながら消えてゆく。これもまた「終息」の静けさをあらわす。
弥生時代の舞の作法は、おそらく自然に溶けて消えてゆくようなかたちにあった。跳びはねて自然から超出してゆく踊りではなかった。
「まふ」とは、自然に溶けて消えてゆくようにゆっくりとなめらかに体を動かしてゆくこと。
「消えてゆく」こと、これが日本的な舞のコンセプトなのだ。
したがって、その祖型は、おそらく神楽よりも能の方にある。
もちろん能は、神楽から派生した猿楽という様式だったのだが、神楽よりももっと祖型に遡行してゆこうとする志向性を持っている。それが「幽玄=消えてゆく」というコンセプトだ。
中世に登場した能は、日本列島の舞の歴史における、いわばルネサンスというか先祖がえりの様式だったのだ。
「舞」も「踊り」も言葉としては同じような意味だろうが、いまや「舞」といえば、能舞に特化したようなイメージもある。まあ一般的には古い踊りの様式ことを「舞」と呼ぶような習慣になっているのかもしれないが、それでも「まふ」と書いてしまえばもう、能舞以外にイメージしにくい。
「まふ」という言葉の語感に対する日本人の無意識は、おそらく能舞に舞の本質=起源を知らず知らず感じ取っている。



日本列島の原初的な舞は、熱狂するための行為ではなく、「もうこれで死んでもいい」というような恍惚=カタルシスを体験してゆくことだったらしい。つまり、熱狂するのではなく「うっとりする」心地をもたらす舞だったのだ。
集団として結束し閉じてゆくためには熱狂することが有効だが、弥生時代奈良盆地は、よそ者をどんどん受け入れて膨張してゆく集団だった。人々の意識は、誰もが山という自然に向かって開いていた。そのようにして「うっとり」とまわりの自然に溶けてゆく祝祭の作法として舞が育ってきた。
誰もが自分を捨てていれば、集団は自然に結束してゆくというか、人々は親密な関係になれる。そのとき奈良盆地は外の地域との緊張関係などなかったから、熱狂して閉じてゆく必要はなかった。
意識がまわりの山に向いているということは、山の向こうを思っているということではない。まわりの山そのものが、彼らにとっての外部であり、意識を身体の外に向けさせてくれる対象だった。
跳びはねて自然から逸脱するということは、意識が外に向いているようでいて、じつはそうではない。それは、身体の外部の自然を拒否していることだから、意識は身体の内側に向いており、そのようにして熱狂している。
ヒットラーのドイツが、いかに熱狂的で自閉的な集団であったことか。
弥生時代奈良盆地の舞は、熱狂するためでも集団が外部を排除して結束してゆくためのものでもなかった。舞=踊りの本質=起源を、そんな制度的なパラダイムで考えるべきではない。
人間は、もっと無邪気に踊り出さずにいられない生き物なのだ。そしてその踊り方は、熱狂して跳んだり跳ねたりするのではなく、いくぶんはにかみ微笑みながらたがいの「出会いのときめき」を表出してゆく行為だった。
人間が猿と分かたれた根源のかたちは、二本の足で立ち上がって「たがいに弱みをさらしながら正面から向き合う」という「出会い」の関係をつくったことにある。人と人の「出会い」には、根源においてそういう「はにかみ」と「ときめき」がともなっている。その「はにかみ」と「ときめき」を表出する行為として、踊り=舞が生まれてきた。
したがって、原初の踊りは、けっして跳んだりはねたりしながら熱狂してゆく身体作法ではなかった。
ただもう、その「はにかみ」と「ときめき」を共有しつつ、人間として生きてあることの「けがれ(=身体の受苦性)」がそそがれてゆくカタルシス(浄化作用)を体験し合っていただけなのだ。
おそらく氷河期のネアンデルタール人だってそのように踊っていた。西洋のフォークダンスとバレエとどちらが本質的根源的かといえば、フォークダンスの方だろう。
そうして弥生時代奈良盆地もまた、そうした原初の踊りそのままのコンセプトを「舞」として洗練させていったのだ。



弥生時代において最上位の舞の名手はおそらく巫女であった。
彼らの舞のコンセプトが「出会いのときめきとはにかみ」を表出することにあったとすれば、それをもっともクリアに表現しているのは初潮前後の若い娘の表情や姿にあったはずである。
彼らは、そのような若い娘の踊る姿や表情に感動していった。
日本列島の舞の美しさは、処女の立ち姿にはじまって処女の立ち姿に終わる。
舞が職業というか特別な技芸として確立される以前の、技巧的な洗練がそれほど意識されていなかった時代である。歴史的に見て、どんな巧者もはにかみとときめきを含んだ処女の立ち姿舞姿にはかなわない、と感じられていた時代が前段階としてあったはずである。
言い換えれば、日本列島の最初の職業舞踊家は処女の巫女だった、ということになる。
職業といっても、金を稼いでいたという意味ではない。みんなの前でその舞を披露してみせた、というだけのことである。
また、巫女といっても、あくまで舞踊家だったのであって、宗教的な呪術をしていたのではない。
そうして、やがてカリスマ的な巫女があらわれてきた。
そのころ奈良盆地の人々は、人との出会いのときめきを豊かに体験しつつ、一方では集団が膨張してゆくことの「けがれ=鬱陶しさ」の意識も肥大化してきていた。そんな集団を受け入れるためには、集団を肯定する象徴的な存在が必要だった。
彼らは外部のよそ者をたえず受け入れていたのだから、政治的に結束してゆく思考を持っていなかった。また、多くの土地が農業のできない湿地帯だったのだから、経済的に満たされていたのでもない。さらには神という概念も持っていなかったから、宗教的な結束も望むべくもなかった。
つまり彼らは、結束しようとしていたのではない。それぞれの小集落に分立しながら、連携しようとしていただけだ。
彼らに必要だったのは、結束させてくれる支配者ではなく、連携させてくれる象徴としてのカリスマだった。最初から「共生」している仲間どうしであるという意識などなく、分立して暮らしているものどうしが「出会いのときめき」とともに語り合ってゆくときの共通の話題がひとつ欲しかったのであり、そういう存在として、彼らみずからがカリスマの巫女を祀り上げていったのだ。
それは、政治的な存在でも経済的な存在でも宗教的な存在でもなかった。あくまで彼らの美意識と実存意識が生み出した存在だった。
日本列島の天皇の起源は、おそらくここにある。ここが気になる。



弥生時代に、宗教などなかった。
原始神道の社殿は、おそらくたんなる舞台だった。
後世に仏教を輸入したのも、支配者たちは宗教的な規範や呪術性を必要としていたのに、既成の神道にはそういう要素がきわめて希薄だったからだろう。
ともあれ弥生時代奈良盆地に巫女という舞踊家を登場させたのは、人々の舞に対する美意識だったのであって、宗教心でも集団を統治しようとする政治意識でもなかった。
あくまで美意識であり、あくまでこの生のけがれをそそごうとする実存意識だったのだ。
美意識や実存意識が現代的なものだと考えるのは早計である。人間は、原始的であればあるほどそういうことを純粋に深く考える存在になってゆくのだ。
現代人は、なんのかのといっても、けっきょくは金のことやうまいもの食うとかいい暮らしがしたいとか、そんなことが大事の生き方をしている。そういう生き方のついでに美意識や実存意識を語っているだけのくせに、原始人はそういう意識を何も持っていなかったかのように多寡をくくりたがる傾向がある。
それは、違う。
人間は、二本の足で立ち上がったときから、すでに美意識や実存意識に目覚めていたのだ。そして日本列島の伝統的な舞の様式も、そういう問題意識から生まれ育ってきたのだ。
政治のことも経済のことも宗教のことも、さしあたりどうでもいい。
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