「美少女」の発見・「漂泊論B」66



人間なら誰だって、生まれてきて死んでゆくというみずからの生の与件について考えるだろう。
何はさておいても、そのことが気になる。というか、そのことに対する思いの上にわれわれのこの生が成り立っている。
言葉の起源とか人類拡散の起源とか国家の起源とか、そうした人類史のさまざまな起源は、おそらくこの「思い」から生まれてきたのであって、政治や経済の問題として語られては困る。
原初の人類は、猿よりも政治的経済的な「共生」の能力を持っていたのではない。二本の足で立ち上がることによって、いったんその能力を喪失したのだ。
たとえば、猿のように、群れが増えすぎたらじゃまな個体を追い出して適正な群れの規模を保つというような「政治」をしなくなったし、また、食料を獲得するためのさまざまな身体能力とともに猿社会の分配のシステムという「経済」行為の能力も喪失した。
彼らは、そのように政治や経済による「共生」の能力をいったん喪失し、ただもう他者との出会いに対するときめく「思い」だけで群れをつくったり、その「思い」が薄れてくればかんたんに群れをばらけさせたりする猿になっていった。まあ、そのようにして地球の隅々まで拡散していったのだ。
「共生」の能力を喪失して人間になったのだ。
猿が順位争いをするとき、「これは殺し合いではない」ということをおたがい知っている。これが「共生」の能力である。しかし人間は、いまだに相手が何を考えているのかわからなくて、ただのケンカやいじめだって殺してしまったりする。
人間の言葉や表情や身振り手振りなどのコミュニケーションの技術が発達しているのは、もともと「コミュニケーション=共生」の能力を持っているからではない。その能力が退化した存在だから、その代替としてそれらの技術を持つようになってきただけである。
猿は、話さなくてもわかり合っている。
人間は、話し合ってもまだわかり合えるとはかぎらないし、わからないまま一方的にときめいたり憎んだりしてもいる。
人と人の関係は、根源的には一方的な関係である。一方的にときめいたり憎んだりしている。そうやって、ときめかずにいられない思い、憎まずにいられない思い、かなしまずにいられない思いの、その無力性とうらはらなダイナミズムこそ、人間の本性なのだ。
じつは人間は、猿よりも「共生」の能力を持った存在であるのではない。原初の人類社会よりも猿の群れの方がずっと共生のための政治が安定的に機能していた。
原初の人類の群れは不安定な離合集散を繰り返していたから、その勢いで地球の隅々まで拡散していったのだ。



人と人は、根源において、わかり合うことのできない関係を生きている。
僕は、たとえ相手が自分のことを嫌っていても好きな人は好きだし、たとえ好かれていても嫌いな人間は嫌いだ。
この世の中には、相手に嫌われて失恋してもあきらめられないという例も、相手がどんな人間であるかもわからないまま一方的に恋をしてしまうという例も、いくらでもある。
「わからない」という思いを携えて恋は盛り上がる。
人間は「わからない」という思いを抱く生き物だから、知能が発達し、そこから学問をする探究心も生まれてきた。まあ、学問に対する探求心も人に対するときめきも同じといえば同じ心の動きであり、われわれは、他者の心は「わからない」という場に立って他者にときめいている。
知的な人とは「わからない」という心の位相を深く豊かにそなえている人であるが、ときめく感性が豊かな人だって、つまるところそういう人種にちがいない。
人と人は、共生できない心で共生しているのであり、根源的には共生しようとする衝動もない。ただ、その「共生できない=わからない」という心の位相から豊かなときめきが生まれ、猿のようなわかり合う関係以上のよりダイナミックな共生関係が生まれてくるし、わかり合うことができないからこそ大いに疑心暗鬼になって猿以上のケンカや戦争もする。



一般的にいわれているような、言葉を生みだそうとして言葉を生みだしたとか、言葉が生まれる前に言葉の機能をすでに知っていたなんて、そんなむちゃくちゃな論理が成り立つはずがない。言葉が存在しない社会で言葉をイメージすることなんかできるはずがないじゃないか。
言葉が生まれてきたから、言葉に気づいていっただけのこと。
一般的には、言葉の本質的な機能はコミュニケーションにある、ということになっている。で、言葉でコミュニケーションしようとして言葉を生みだした、という。
そうじゃない。原初の人類は、言葉なんか知らなかった。それでも、さまざまな「思い」が胸に満ちてきてさまざまな音声が思わず口からこぼれ出るようになっていったのだ。言葉をコミュニケーションの道具にしようと発想するようになっていったのは、そのずっとあとのことだろう。
原初の「思い」の表出だった音声がコミュニケーションの道具にできるほど自在に操れるようになるまでには、おそらく何百万年もかかっている。そしてそれだって、あとからコミュニケーションの道具になっていると気づいたのであって、コミュニケーションの道具にしようとする意図=目的があったのではない。
人間は、何はともあれ音声=言葉を吐き出さずにいられない「思い」が胸に満ちてくる存在であって、先験的にコミュニケーションの関係の中に置かれてあるのではない。
ただもう、ときめかずにいられない存在であり、ときに憎まずにいられなくなる存在なのだ。そしてそれは、コミュニケーション=共生の関係の中に置かれていないからであり、その「孤立性」の中から「思い」が満ちてくるのだ。
わかり合うことができる関係であるのなら、それだけで完結して、ときめくことも憎むこともない。
人間は先験的にコミュニケーションの不調の中に置かれてあるからこそ、一方的な思いが豊かに胸に満ちて、思わずさまざまな音声を発するようになっていった。その「孤立性」こそが、言葉が生まれてきた契機なのだ。
根源的には、人と人は、わかり合うことによって関係を結んでいるのではなく、たがいに一方的な胸に満ちてくる思いを抱き合うことによって関係を結んでいる。ときめき合うにせよ、憎み合うにせよ。



人間の二本の足で直立している姿勢は、不安定で倒れやすいうえに、胸・腹・性器等の急所を外にさらしてしまっている姿勢である。攻撃されたらひとたまりもない。それでも原初の人類は、そのように弱みをさらし合ったまま正面から向き合うという関係をつくっていった。
その姿勢は、「攻撃されたらひとたまりもない」という「表現=メッセージ」を持っている。順位争いをしている猿なら、迷わず攻撃する。ボスだって、その姿勢を取っているかぎり、攻撃されたらひとたまりもない。
とすればそのとき原初の人類の群れは、その「表現=メッセージ」をたがいに無視し合ったのだ。というか、そんなことを忘れて、たがいに一方的にときめき合っていった。
つまりそのとき、コミュニケーションの不調に陥ったのであり、その「わからない」という体験から、世界が新しく現れ、それにときめいてゆくという心の動きが起きてきた。
ときめくとは、新しい世界が立ち現れてくる体験である。そうやって目の前の世界や他者が、いつになく美しく輝いて見えた。つまり、そのようにして人間的な美意識に目覚めたのであり、それは、二本の足で立ち上がって猿から分かたれたときからすでに獲得されていた。
人と人の関係や人間性の基礎は、「わからない」という心の動きの上に成り立っている。「ときめき」も「憎しみ」も、そこから生まれてくる。



「わかり合う」ことと「ときめき合う」ことは、同じではない。それらは。政治や経済の意識と美意識くらいに違う。
人間が猿から分かたれてあるゆえんは、「ときめく」という美意識を持っていることにある。そしてその意識は、「わからない」という心の動きの上に成り立っている。
「わかりあう」という関係は、人間より猿の方がずっと確かに持っている。猿は決して猿のあり方を踏み外さないが、人間はかんたんに人間の道を踏み外す、僕のように。
人と人がコミュニケーションによってすでにわかり合っているのなら、ときめき合うこともない。「わかり合う」ことは、広義の政治意識・経済意識であり、それらは、共同体(国家)の発生とともに発達してきたにすぎないのであって、人間性の基礎だとはいえない。そんなところから人類の文化が生まれてきたのではない。原始時代は文化的だったのであって、政治的でも経済的でも宗教的でもなかった。
そういう共生・共認のパラダイム人間性の基礎や原始時代を語られても困る。
まあ、時代や社会の制度性に踊らされて生きてきた人間にかぎって、そのような口ぶりで人間性の基礎や原始時代を語りたがる。



「身体の孤立性」の上に立った美意識こそ、人間性の基礎である。美意識によって原始時代の歴史がつくられてきた。コミュニケーションという共生・共認の政治や経済によってではない。
というわけで僕はいま、原始時代の美意識のひとつの到達・洗練のかたちとして、弥生時代奈良盆地の舞の文化について考えている。
もしも弥生時代奈良盆地に舞の文化があったとすれば(あったに決まっているのだが)、それは現在以上に純粋な美意識から生まれてきたものであったにちがいない。
と同時に、社会そのもののかたちも、政治的経済的宗教的な意識よりも、「ときめき」という美意識の上に成り立っていたはずである。原始的であるとは、そういうことなのだ。
そこには、支配者はいなかった。
後世の文献が、大和朝廷の成立以前にもいくつかの豪族が群雄割拠して内乱が起きていたようなことを書いているが、それが史実だとは思えない。
纏向遺跡がどれほど大規模な都市集落の遺跡であったとしても、そこに支配者がいて政治組織(王朝)が存在したという証拠にはならない。
世界中のどこでも、初期の都市集落は支配者が先導して生まれてきたのではなく、自然に人が集まってきていつのまにか大きな集落になっていただけなのだ。そういう民衆どうしの「出会いのときめき」が初期の都市集落をつくったのであって、支配者がつくったのではない。
弥生時代奈良盆地は、当時の日本列島でもっとも民衆自身の連携プレーが進んでいた土地だった。そしてそれによってほとんどが湿地帯だった奈良盆地干拓され、数多くの巨大前方後円墳が出現した。べつに、支配者が民衆を奴隷のようにこき使ってなされた工事だったのではない。
民衆自身の連携による土木工事は、古代までの日本列島の伝統である。そして土木工事がそうであるのなら、弥生時代のその都市集落の運営も民衆の自治によってなされていた可能性が濃い。
なぜそのような自治が可能であったかといえば、ひとつには「なりゆきまかせ」の思考があったからであるが、何より、人と人が豊かにときめき合っている社会だったからだ。
そこには、生まれ変わったように世界が新しく美しく見える体験があった。この体験こそが、奈良盆地の社会を根底において支えていた。
この美意識が、やがてみんなで踊るだけでは飽き足らなくなって、巫女の舞を鑑賞する習俗になっていった。



しかし、踊り方に特別な決まりがあったわけでもなかろう。
みんなで踊っていると、なぜか少女たちの一群の踊りが人々の目を引くようになっていった。
この少女たちは、まだ男と一緒に踊るということをしなかった。初潮前後の少女たちである。
彼女らは、ふだんから仲間で練習していて、祭りの場では、つねに新しい表現を披露してみせた。
彼女らの身のこなしは、男にも社会にも媚を含んでいなかった。その「孤立性」が、奈良盆地の人々の美意識を魅了した。それは、男と女の関係が錯綜しつつ膨張し続ける集団の混乱と鬱陶しさを抱えた奈良盆地の人々にとっては、何か奇跡的な美しさに感じられた。
その舞に「みそぎ=浄化作用」を感じた。
やがて人々は、少女たちだけを舞台で踊らせるようになっていった。これが、「巫女」の発生だったのだろう。
もしかしたら、そのようにして舞が「芸能」として生まれてきたのかもしれない。
まあ出雲阿国出雲大社の巫女だったという噂もあるくらいだから、日本列島の芸能としての舞の起源は巫女にあったということはじゅうぶんに考えられる。



一般的に、能面の美というと、まず「小面(こおもて)」という少女の面が挙げられる。それは、日本列島の芸能としての舞は巫女の舞が起源になっていることの歴史的無意識かもしれない。
起源としての巫女は、政治経済的な存在でも宗教的な存在でもなく、あくまでも「舞姫」として発生したのだ。
そのころの原始神道は、宗教ではなく、純粋な祝祭だった。
人々は、純粋な祝祭として、巫女=舞姫を祀り上げていった。
語源としての「祀り上げる」というやまとことばは、舞台に上がらせることをいったのかもしれない。
おそらく、祭りの締めくくりとして巫女が舞台に上がったのだ。
日本列島は、「祀り上げる」社会である。それが、神を知らず、神の指名がない社会の流儀なのだ。
湿地帯だった奈良盆地干拓し、あちこちに巨大前方後円墳を築き上げていったのも、民衆自身の「祀り上げる」行為だった。
まあ、なんのかのといっても、世界中の人間社会が、どのようなジャンルであれ、つまるところ人々が「祀り上げる」ことによって動いている。
人間は、カリスマを祀り上げたがる生き物なのだ。それをしないと生きていられない存在らしい。
そして弥生時代奈良盆地の人々が必要としたそのカリスマは、政治的リーダーでも宗教的リーダーでもなく、この生の「みそぎ」の形代(かたしろ)としての「巫女=舞姫」だった。
彼らは、いい暮らしがしたいということよりも、とにかく生きてあることの「けがれ」をそそぎたかった。つまり「生き延びたい」というのではなく、生きていれば知らず知らず体にたまってくるこの「けがれ」をなんとかしたかったのだし、なんとかすることによって無上のカタルシス(浄化作用)を体験することができた。
おそらくそれが、人類の普遍的な生きてあるかたちなのだ。
原始人はみな、そのようなコンセプトで生きていた。



生きてあることは、「生き延びたい」と願っていられるほどお気楽ものではない。生きてしまっていることの「けがれ」がつねに付きまとっている。そして人間としての知性も感性も快楽もセックスアピールも、その「けがれ」を自覚しているもののもとにある。
初潮前後の少女とセックスしたいなんてとんでもない話で、その年代の少女には何か特別な身体の孤立性が漂っており、それは大切にしてやらないといけない。「大切にしてやらないといけない」と思うのが、原始的な心性なのだ。
原始社会にロリータ趣味などなかった。
初潮前後の少女の「身体の孤立性」は、人類が普遍的に感じていることだ。そこから「神隠し」などの「美少女伝説」が生まれてくる。このたぐいの話は、世界中にある。
ともあれ、そういう話が生まれてくるくらい人間は、生きてあることの「けがれ」を負わされている存在なのだ。自覚しようとするまいと、人は「けがれ」を負ったかたちで生きて存在している。
弥生時代奈良盆地の人々にとっては、生き延びるための政治や経済よりも、まずその「けがれ」をそそぐ祝祭こそが第一義のものだった。
政治や経済の問題は、そのあとの「なりゆき」として派生していたにすぎない。
彼らは、政治や経済で「共生」してゆくよりも、たがいに孤立しながら「連携」してゆくことを願った。人間は、もともとそういう存在なのだ。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、猿として「共生」することを断念して、人間としてたがいに孤立しながら「連携」してゆくことだった。


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ともあれ、少女の舞姿に魅せられることは、人類の普遍的生理的な心の動きにちがいない。
人類の芸能としての舞は、少女の舞姿とともに生まれてきた。
芸の修行が生まれてくるためには、まず何が美しいかという基準がつくられていなければならない。その「基準」として、まず少女の舞が見出されていった。
日本列島では、宗教の修行よりも、舞の芸の修行の方が先に生まれてきた。
縄文時代の1万年は、自我を捨てる文化で暮らしていた。であればそこで、自我を確立するための宗教の修行が発想されるはずがないし、自我の象徴である神という概念も浮かんでこない。
その代わり、われを忘れてうっとりと鑑賞してゆく心を育ててきた。そういう自然の景観があったし、人と人の関係も、自分を捨てて向き合い支配しない、という作法になっていた。だから、かんたんに別れたし、そのぶん思いがけない出会いもたびたび起きている社会だった。
原初の人類が二本の足で立ち上がってたがいに向き合う関係をつくることは、猿社会のようなわかり合い支配し合う関係を放棄することだった。縄文時代の1万年は、そういう根源のかたちを洗練させていった時代だった。
弥生時代だって、そういう美意識の作法の延長としていとなまれていた。そうして彼らは、舞を、体を動かすよろこびのためのものだけでなく、鑑賞する芸として祀り上げていった。
また舞う側の巫女自身も、ただ体を動かすよろこびだけでなく、「表現」の意識に目覚めていった。
日本列島の舞は、ただ体の動きを躍動させるという作法にはなっていない。体を解き放つのではなく、体そのままを環境に溶けて消えてゆくように動かしてゆく。それはきっと、自我の消失の作法なのだろう。自我の消失こそが「みそぎ」になる。
「消えてゆく」というコンセプト、たぶんこれがキーワードなのだ。
人間が二本の足で立っていることは、生きてあることの「けがれ」を意識させられることである。弥生時代の巫女の舞は、その「みそぎ」の作法だった。
どんなふうに舞うかということ以前に、初潮前後の少女は立ち姿そのものが「みそぎ」のかたちになっている、と弥生時代の人々は気づいていった。
初潮前後の「少女=おとめ」……もしかしたらこの存在を人類で最初に発見したのは、古代の日本列島の住民だったのかもしれない。現代では往々にしてそうした少女までもセックスの対象として見たがるものもいるが、弥生時代奈良盆地の人々が「巫女=おとめ」を発見していったのはそういう対象としてではなかった。あくまでも、生きてあることの実存的な問題として祀り上げてゆく対象だった。
彼らは、それほどに生きてあることに対する「けがれ」の意識が深かったし、それほどに美意識が中心の暮らしをしていた。
まあ弥生時代の男女関係はほとんどが姉さん女房で、女がリードして男にセックスをやらせてあげるという習俗だったから、ロリータ・コンプレックスとか処女崇拝などというものが生まれてくる環境ではなかった。
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