なりゆきの起源論・「漂泊論B」67



起源における巫女は処女の娘が選ばれた、というが、おそらくそれは後世につくられた制度であって、もともと日本列島には処女かどうかを問う文化などなかった。
セックスなどというものは、教えなくても少年と少女がどこかで勝手に覚えてやってしまうものなのだ。それが、人間の自然である。
少なくとも弥生時代の人々は、そんなことは止めようがないことだ、と思っていた。そういうことができる森や原っぱはいくらでもあった。
そうして妊娠してしまうことだってあったのだろうが、ひとまず父親など問わない女系家族の社会だった。
そのころの巫女は、処女かどうかではなく、初潮前後の年代の娘が選ばれたのだろう。
セックスをしたかどうかということよりも、そういう年ごろの娘の立ち姿や舞姿に固有の美しさが見出されていった。
弥生時代女系家族で、女たちは複数の男と関係を持っていて、父親が誰かということなど問われなかった。
もちろん男もまた、複数の女と関係していた。そういう乱婚社会だった。
ひとりの男がひとりの女を養うという一夫一婦制になっていったのはずっとあとのことで、そういう時代になってはじめて処女の価値が生まれてくる。
人類が一夫一婦制の家族制度を持つようになったのは共同体(国家)の発生以降のつい最近のことだ。それまでは世界中どこでも乱婚の女系家族だった。
大陸では6千年前ころからすでに共同体(国家)があらわれてきたが、日本列島では1500年前ころからようやくそのかたちになってきたにすぎない。
弥生時代は、共同体(国家)の成立前夜の時代である。したがって、支配も階級も存在しなかった。階級制度は共同体(国家)の支配のかたちとして生まれてきたのであって、農業をして集団の生産力が上がれば階級が生まれてくるとか、そんなものじゃない。
弥生時代奈良盆地の人々は、上からの支配によってではなく、民衆どうしの「なりゆき」まかせの連携で集団をいとなんでいた。人間集団のダイナミズムは、そういうかたちで生まれてくる。それが人間の自然なのだ。奈良盆地は、そのようにしてほかのどの地域よりもダイナミックに連携しながら大きな集団になっていった。生産活動だけでなく、何ごとにおいても、人間の自然としての「なりゆき」まかせのダイナミズムが起きている社会だった。




男女の関係だって、人間の自然としての「なりゆき」を考えるなら、一夫一婦制ではなく、おそらく姉さん女房の女系家族になってゆくはずである。
弥生時代に支配と被支配の関係などなかった。したがって、男が女を支配するような関係もなかった。
現代のように女が年上の男にあこがれるというような傾向は、男の支配や庇護のもとに潜り込みたいという無意識である場合も多い。つまり、そういう心の動きが起きてくるような社会の構造になっているというだけのことで、べつに人間の普遍的な心の動きというわけではあるまい。
弥生時代奈良盆地においては、田や畑は、集落の共有だった。みんなで耕し、みんなで分けた。
だから子供だってよその家に上がり込んでご飯を食べさせてもらってくることなんか珍しくもなんともなかったし、この習俗は現在の農村にも残っている。
弥生時代の男には、女を支配するという発想がなかった。セックスは、女にたのんでやらせてもらうものだった。そのために「歌を送る」ということは、庶民でもしていた。そして女も歌を返す。そういう習俗の伝統があったから、万葉集にも「詠み人しらず」の庶民の歌がたくさん収録されているのだろう。
鳥の世界だって、オスによるメスに対する求愛行動の上に男女関係が成り立っている。男が女に求愛行動をするのが生き物の自然である。そして求愛行動が受け入れられる可能性はセックスのことをよく知っている年上の女の方が高いから、自然の「なりゆき」としてどうしてもそういう関係になってゆく。
セックスに目覚めた少年や若者がセックスのことをよく知らない年下の娘に「やらせてくれ」とたのむはずがない。
弥生時代には、男が女を支配するという関係でセックスすることはなかった。
その社会はいわば原始共産制だったのであり、男が女を支配したり庇護したりする関係はなかった。したがって、女が年上の男にあこがれるというような意識もなかったし、だからこそ年下の男が年上の女に求愛するという習俗が自然に生まれてきた。
少年が勃起や射精の能力に目覚めるのは、じつは少女の月経開始よりも早くやってくる。だから自然状態においては、少年は、年上の女にあこがれながら成長してゆく。
弥生時代の月経開始の年齢が14、5歳だったとしたら、少年が勃起や射精に目覚めるのはそれより1、2年早かったはずである。
そうやって、最初から年上の女と年下の男がくっつくという関係で人生がはじまる社会だったのだ。
彼女らは、年上の男によって処女を卒業するのではなく、年下の少年との遊びの延長としてのままごとのような「なりゆき」でセックスをおぼえていった。おそらく、これが人類史の普遍的なかたちなのだ。
どんな生き物だって、教えられなくても自然にセックスを覚えてゆく。
年上の女が年下の男を誘惑する社会だったのではない。年下の男が年上の女に求愛する社会だったのだ。そうやって人類史の女系社会が続いてきた。



弥生時代の人々は、必要以上に「規範=制度」というものをつくらなかった。
自然の「なりゆき」で女系家族になっていたのだ。
世界中どこでも、共同体の「規範=制度」が生まれてくる前に、まず原始共産制の「なりゆき」まかせで社会が動いてゆく段階があった。
農業をして生産力が上がれば持つものと持たざる者の「階級」が生まれてくるとか、そんなものじゃないのだ。
弥生時代の人々は、そんな制度なしに農業生産力を上げていった。その社会は、支配によって人々が束ねられていたのではなく、誰もが孤立しつつ「連携」していったのだ。
規範も制度もなかったから、女も男も、勝手に複数の相手と関係していた。誰もが勝手なことをしていたからこそ、小さな仲良しグループをつくって他を排除するというようなことはせず、ひとりひとりの「連携する」という関係が生まれていった。彼らは、個人としても集落としても孤立しつつ、しかも個人どうしも集落どうしも連携していった。
弥生時代奈良盆地は、「連携してゆく」という「なりゆき」が豊かに起こる社会だった。そうして、野放図に大きな集団になっていった。それは、地域ごとに豪族という支配者がいる社会ではなかった。
そこは、まわりの地域から人がたくさん集まってくるところだった。もしもそこにほかの地域以上の支配と階級制度があってよそ者が来ても最下層の奴隷にさせられるだけなら、誰も行かないだろう。
弥生時代奈良盆地には、民衆どうしの「連携」のダイナミズムがあった。そういうエネルギーで、湿地帯であった奈良盆地干拓してゆき、そのための巨大な前方後円墳を次々に造営していった。
規範や制度に閉じ込められている社会ではなかった。したがって、わざわざ「巫女は処女でなければならない」などという決まりをつくるはずがない。
ただもう、そういう年ごろの娘だけが持っている舞姿の美しさに人々が魅せられていったのだ。



美しいものと出会えば「もう死んでもいい」と思えてくる。
原初の人類が二本の足で立ち上がっていったことだって、いわばそういう体験だった。それは、きわめて不安定で、胸・腹・性器等の急所を外にさらすという、攻撃されたらひとたまりもない姿勢だった。つまり、誰もが「もう死んでもいい」という感慨を抱きながらその姿勢を常態化させていった。
「もう死んでもいい」という感慨を体験するところに、人間の人間たるゆえんが成り立っている。
そうやって人類は、美意識を洗練させてきた。「もう死んでもいい」という体験をする存在だから、美意識が洗練されてきたのだ。
「もう死んでもいい」と思えるほどに世界が新しく鮮やかに立ち現れてくる体験がある。それは、いままで生きてきたことがすべて清算される体験である。
人間はこの生の「けがれ」を清算しながら生きている。そのようにして美意識が育ってくる。
われわれは「けがれ」を清算しないと死ねないし、死ねば「けがれ」が清算される。そうして、「けがれ」を清算することが生きることになっている。
根源的には、美意識が人間を生かしている。
美意識とは無縁の政治意識や経済意識や共生意識などというもので人類の歴史を語ると誤る。
日本列島の「けがれ」の意識は美意識であって、階級意識でもなんでもない。そしてそれは、人間性の普遍的な意識なのだ。
二本の足で立ち上がった人類は、その姿勢の「けがれ」を「そそぐ=清算する」かたちで歩いてゆき、地球の隅々まで拡散していった。そういう意識である。
根源的には、人間は未来に向かって生きようとしている存在ではない。人間を動かしているのは、生きてあることの「けがれ」からの圧力である。そういう圧力を受けている存在だから人にときめかずにいられないのであり、文化も文明もそこから生まれてきた。
知能が発達したから文化や文明が生まれてきたのではない。文化や文明が生まれてきたことの結果として知能が発達したにすぎない。
そういう文化や文明が生まれてくる「なりゆき」があった。
弥生時代の人々が支配者も階級も存在しない社会で集団をいとなんでいたことも、姉さん女房の女系家族であったのも、人類史の必然的な「なりゆき」だった。
人類史には、共同体(国家)が生まれてくる前の人間としての自然の上に成り立った社会があったのだ。
最初から支配者や階級が存在したとか一夫一婦制があったようなことをいってもらっては困る。
弥生時代奈良盆地は、政治や経済や共生の意識ではなく、イノセントな美意識の上に成り立った社会だった。



2千年前の世界で、弥生時代奈良盆地ほど「なりゆき」まかせの社会もなかったのかもしれない。
そのころ世界の文明はすでに共同体(国家)の制度を着々と成熟させていたのであれば、そこは、原始的な心性をそのまま文明社会で洗練させてゆけばどうなるかという人類史のひとつの実験の場であったのかもしれない。
「なりゆき」まかせなんて、まったく、神はどこにいるのかという話である。彼らは、神という概念を知らなかった。
日本的な「なりゆき」とは、「神の御心のままに」ということではない。
やまとことばの「かみ」は、「深く納得する」とか「疑いようもない」というような感慨のニュアンスを表出する言葉だったのであって、この世界をつくった神という存在をイメージしていたのではない。
西洋の「ゴッド」が動詞に変化することはないだろう。
しかし「かみ」は、「かむ」という動詞の体言である。はじめに「かむ」という言葉があった。
「かん(む)ながら」という言葉がある。まあ一般的には「神の御心のままに」と解釈されているのだが、神という存在を信じているのなら「かみながら」といえばいいだけである。しかし日本列島の古代人は、どうしても「かむ」という動詞を捨てることができなかった。「かむなぎ」とか「かむなび」とか「かむさび」とか、すぐに動詞としてのその言葉を使いたがった。
現在の「かみがかり」という言葉だって、古代には「かむがかり」といっていた。それほどの彼らは「神=かみ」という名詞を使うことにいささかのためらいがあった。
それは、もともと「深く納得する」というたんなる動詞だった。
とすれば「かむながら」とは、「深く納得する心のままに」とか「ひたすら信じて」といっているだけかもしれない。「かむ」という言葉は、もともとは「神という存在」のことではなく、「心の動き」をいっただけなのだ。
「かむながらの道」といえばひとまず「神世の昔からある道」と訳すのだろうが、まあ「正真正銘の」とか「まことにありがたき」というような感慨・感動をあらわすときの慣用句だったのだろう。「かむながらの森」「かむながらの日和」「かむながらの水」、まくらことばみたいなものだ。古代人はそういう言い回しが好きだった。
べつに神を意識しているわけではなく、純粋に森羅万象それ自体に対する「ありがたさ」の感慨・感動があった。だから、何にでも「かむながら」といった。
神という存在のことをいいたければ、「かむ」などといいよどまずに、普通に「かみ」というべきである。なぜいえないのか。
現代人だって、セリフがうまくいえないときに「かむ」といったりする。それはもう「神(かみ)」といえなかった時代以来の伝統かもしれない。そしてそのようにへまをしたことにも「かむ」だの「かみ」だのという言葉を使うのは、神に対する冒瀆だろう。だが、それでいいのだ。どうせ神を知らない民族である。
日本列島の古代人には、「神(かみ)」といってしまうことの迷いとかはにかみがあった。
それは、ただの借り物で、自分たちがつくり上げた概念ではなかった。
古代人は、「神」のことをどうしても「かむ」といいたくなってしまった。彼らは「神がこの世界をつくった」ということを信じていなかった。
世界は「なりゆき」で動いているとしか思えなかった。
しかし、だからこそ世界や他者との「出会いのときめき」が豊かに体験されていた。
そういう原始的でイノセントな心の動きで成り立った社会だったのであり、そこから天皇が祀り上げられていった。ここではいま、そのことの基礎について考えている。
弥生時代の日本列島が「なりゆき」まかせの社会だったということは、原始時代そのままに神という概念が機能していない社会だったことを意味する。
なりゆきまかせで規範=制度をつくって集団をいとなむということをしていなかったから、神という概念も文字も生まれてこなかったし、共同体(国家)の発生が大陸よりも大きく遅れてしまった。
しかしどんな社会になろうと、「なりゆき」こそ人間集団の推進力だという部分はあるにちがいない。そういう「すきま」というか「ゆらぎ」の部分を持っていない集団は、やがて停滞し腐敗してゆく。



もともと人間なんて、なりゆきまかせで歴史を生きてきた存在なのだ。
そして、なりゆきまかせで生きてきたということは、神を知らなかった、ということだ。
「やおよろずの神」といっても、単純に一神教に対する多神教というくくりで考えてすむ問題ではない。われわれは、よそから借りてきたその概念をそのようにしてもてあそんできただけなのだ。弥生時代までは、「やおよろずの神」さえいなかった。その証拠に、それらの神の話には、ことごとく大陸から入ってきた説話が混淆している。もともとの話に大陸の説話が混じったのではなく、大陸の説話をアレンジしていっただけだろう。
古代人がなぜ「かむ」という動詞にこだわったのか。それは、「神」のことではなく、ただたんに深く納得してゆく心の動きを表出する言葉だった。彼らにとって確かなことは、その感慨があるということであって、神が存在するということではなかった。
われわれは、この生やこの世界の存在を確かなものとして認識してしまう心の動きを避けがたく負っている。よく考えたら確かかどうかなどわからないことなのに、それでもどこかしらで確信してしまっている。
それは、くるおしくなやましいことだ。そういういたたまれない思いに、神という言葉はある安心を与えてくれる。神がこの世界をつくり、この世界の存在も確かなものだという安心。そのようにして神の存在を信じることはわれわれに安心を与えてくれるが、それでも一方では、この生もこの世界の存在も確かなものとは思えない心がはたらいていて、そこからも逃れられない。
ほんとに神を信じてしまえば楽なのだが、そうもできなくてつい「かむ」といってしまう。
なぜそういってしまうかといえば、「なりゆき」まかせで生きてあることの感動があるからだ。そこでこそ人と人の関係にときめきが生まれ、連携が生まれ、そうしてこの世界の美しさに微笑むことができる。
この世界は、すでに神によってつくられているものではなく、一瞬一瞬の「なりゆき」で新しく立ち現れるものだ……という思いが日本列島の住民にはある。その「新しさ」に対する感慨は、神の存在もこの世界の存在も信じていないところでより深く切実になる。
古代人は、そういう「出会いのときめき」を深く体験する人々だったから、つい「かむ」といいよどんでしまった。
そのいいよどむ心の動きに、日本列島の美意識がある。
まあ世界中のどの民族においても、そういう心の位相で美意識がはたらいている。
因果なことにわれわれ日本列島の住民は、神を知らないことのアドバンテージとハンディキャップの両方を背負わされている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。
人気ブログランキングへ