日照りの夏はオロオロ歩き・「漂泊論B」52



古代の日本列島には「霊」に相当する言葉がなかった。だからわれわれは、その輸入漢語を日本語(やまとことば)に置き替えることがついにできなかった。
「魂(こん)」は、「たましい」ともよむ。しかしそれは、平安時代ころに生まれてきた言葉らしい。
もともとあった「たま」という言葉を「霊魂」という概念に当てはめるのは無理があったのだろう。「たましい」という言葉があったのではなく、「霊魂」という概念が輸入されてそれに当てはめようとして「しい」という言葉をくっつけ、なんとかつじつまを合わせていった。
「しい」は、「労働を強(し)いる」の「しい」、「強(し)いて挙げれば……」などともいう。
「し」は、「しずか」の「し」、「静寂」「孤独」「固有・独立」の語義。人差指を口に当てて「しいーっ」などといったりする。「い」は、その強調。
「しい」とは、「強調された固有性」というような意味だろうか。
霊魂は身体に宿っているところの身体ではない固有のもので、死んでもそれだけが永遠に生き続ける……そのようなイメージを表現するために「しい」という言葉が付け加えられた。
心(=たま)は身体とセットのものだが、それを支配している霊魂は独立した存在である、ということだろうか。
「しいて」いえば「たましい」ということになる、ということ。それは、あとからむりやりこじつけられたやまとことばなのだ。
「霊魂=たましい」は、日本列島の伝統としての「たま」と同義ではない。「しい」という言葉=音声を付け加えないと、どうしてもしっくりこなかったのだ。
そしてわれわれは霊魂という意味がよくわからないから「たましい」という言葉をじつにいいかげんに使っている。「ハート」だろうと「ソウル」だろうと「スピリット」だろうと、なんでも「たましい」だ。「霊魂」という概念を持ってしまったこの世の中では便利だからすっかり定着してしまっているが、日本列島土着の言葉ではない。
縄文時代弥生時代「たま」という言葉はあったはずだが、「たましい」という言葉はおそらくなかった。
われわれ現代人がこの「たましい」という言葉をあたりまえのように使っているのは、外来の「霊魂」という概念が存在するものとして合意されている世の中だからだ。
今や、誰もが「霊魂=たましい」の存在を信じる世の中になってしまっている。
しかし「たましい」という言葉を生み出した当の古代の庶民は、それはただの言葉だとしか思っていなかった。
まあ支配者階級は、すでに霊魂の存在を信じはじめていたのだが。
古代史を考えるとき、そういう支配者階級と庶民との意識の落差というものはちゃんと考慮しておく必要がある。支配者階級がそうだったからといって列島中がそうだったような歴史解釈をするべきではない。
たぶん現在だって、お育ちのいい人や心がやさしい人はみな「霊魂=たましい」の存在を信じているのだろう。
でも僕なんか育ちが悪い上に心もねじくれているから、「霊魂=たましい」なんてただの言葉だとしか思えない。「霊魂=たましい」のおかげをこうむったような能力も幸運も持ち合わせていない。
つまり僕は、あなたたちみたいに「霊魂=たましい」などというものを持っているようなご立派な存在ではないのですよ。虫けらにも魂があるというのなら、僕なんか虫けら以下だ。



たとえば、古代人が「ことだま」というとき、その「たま」は、「霊魂」という意味ではない。
古代史家はみな「古代人は言葉には霊力が宿っていると信じていたからこの言葉が生まれてきた」と、口をそろえて合唱している。
何いってるんだか。くだらない。
「しきしまのやまとのくには<ことだま>のさきはふくに」などという。
「ことだまが咲きそろっている」とは、言葉の霊力で人々が支配し合っている、ということか。言葉の霊力を信じていたら、そういうことも可能になる。
霊力のことなら、「さきはふ」とはいわない。「たま」とは花のようなキラキラしたものだから「さきはふ」というのだろう。
一方、「葦原の瑞穂の国は神ながらに<言上(ことあ)げ>せぬ国」というような柿本人麻呂の歌の一節もある。それは、奈良から遠く離れた地に旅立っていった友に対して「それでも君の無事を祈って言上げせずにいられない」という歌だ。
「言上げ」とは、「願い事」というような意味。言葉に霊力が宿っていると信じているのなら、大いに言上げするだろう。しかし古代人が「言上げしない」というとき、言葉に霊力が宿っていると信じるのはつつしもう、信じてもせんないことだ、という心がはたらいている。われわれは「霊魂」という言葉を持ってしまったが、この国の伝統である霊魂を信じない心も大切にしよう、という意味だ。
「ことだま」とは、言葉に宿っているキラキラした感慨、というような意味、それが「さきはふ」のだ。
何が「言葉には霊力が宿っている」か。そんなふうに言葉を扱っていい気になっているおまえらのその傲慢さには、しんそこうんざりする。
言葉に宿っているのはその人の心であって、霊魂でも霊力でもない。古代人自身が、そう思っていた。



縄文時代に「霊魂」という概念などなかった。
原始神道は、柳田国男のいうような「祖霊信仰」でも「アニミズム」でもなかったし、折口信夫のいうような海の彼方からやってくる「まれびと神」に対する信仰でもなかった。
ぜんぶ、嘘だ。
原始神道は、「宗教」ではない、「祝祭」なのだ。
原始人は「祝祭」は持っていたが、「宗教」などというものは持っていなかった。そんなものは、共同体の発生とともに生まれてきたにすぎない。
そして原始神道の基礎をつくった縄文人は、海を眺めながら暮らしていたのではなく、山の民だったのだ。
もともと霊魂という概念など持たなかった原始神道があたりまえのように霊魂や祭神を祀るようになってくるまでには、それなりに徐々の変化があったのだろう。いきなり変わったはずがない。
その過渡期として、弥生時代から古墳時代があるのかもしれない。
弥生時代は、縄文の山の民が平地に下りてゆき、集団で農業をはじめていった時代だった。
そのころ、地球の気候がやや乾燥寒冷化し、平原の湿地がしだいに干上がってきて、そこにも人が住めるようになってきた。
気候が乾燥寒冷化したということは、山の幸が少なくなり、北国では冬場の雪に閉じ込められる期間が長くなったということだ。山間地はとくに雪が深い。
まあ、寒くなれば、人々の寄り集まって暮らそうという気持ちも高まってくる。
縄文時代は東北地方がもっとも人口密度が高く、比較的大きな集落は、寒い青森地方に集まっていた。それにそこが旅の行き止まりの地域だったということもある。
また、縄文後期には、建築土木の技術が発達し、男たちにそういう作業に対する意欲も高まってきていた。とくに水路をつくるということは初期の集落づくりのときからさかんにしていた。環濠集落の伝統、それが、稲作農業にこだわってゆく契機の一つにもなったのだろう。
そういういろんな条件が重なって、平地に下りて集団で農業をするという暮らしが起きてきた。
べつに、縄文人とは別の人たちが大陸からやって農業をはじめてみせたのではない。縄文人縄文時代の延長として農業をはじめただけのこと。それを、弥生時代という。
彼らはまだ「霊魂」という概念は持っていなかった。その「霊魂」という概念を持たない心で、彼らはどのように農業の集団をいとなんでいったのか。
つまり「言上げしない」で「なりゆき」にまかせる心で人々が集まり語り合っていったのが弥生時代の村の「寄り合い」だった。
「言上げしない」という古代の心性がどういうものだったのか、その「神」も「霊魂」も信じていない人々の心を、おまえらは本気で考えたことがないだろう。
縄文時代弥生時代には、安産祈願も豊作祈願もなかったのである。彼らは「言上げ」しなかったのだ。
日照りが続いて雨を降らせる祈祷をするとか、そんな習俗は仏教伝来以後に生まれてきたにすぎない。
宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」という詩にあるように、日照りの夏はただもうオロオロ歩きまわっていただけだ。おまえらみたいに「神」や「霊魂」を信じている連中には、その気持ちはわからないだろう。
何が「スピリチュアル」か。くだらない。僕は、そんなものを信じてお得な人生をかすめ取ろうとしている人間よりも、日照りの夏をオロオロ歩いている人の方が好きだ。
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