山を下りる「漂泊論B」53



弥生時代になって、日本列島の人口が爆発的に増えた。しかしそれは、農業をして食料を確保できるようになったからではない。人口が増えたから、農業をするようになっていったのだ。
人々の意識が変わったから農業をするようになっていったのではないし、ましてや意識が違う大陸人がやってきたのでもない。
意識が変わったから平地に下りていったのではない。そういう時代の空気や環境があっただけで、人々の世界観や生命観はそれほど変わってはいなかったはずだ。現在でも、無意識のところでは縄文時代とそう大差はない。
縄文人は、集落ごと引っ越してしまうということを、わりと平気でしていた。そのように、環境要因があれば「なりゆき」でそうなってゆくような人々だった。
なりゆきで1万年も縄文時代を続け、なりゆきで山を下りて農業をはじめるようになった。
漂泊は、縄文以来のこの国の伝統である。漂泊していたから、平地に人が集まってくるということが起きてきた。
集まってくれば、そこで祝祭が生まれる。その祝祭の気分がその地に人々を住みつかせ、人口が爆発的に増えていった。
人口爆発は、ひとつの祝祭なのだ。たくさん食料を確保したから人口が増えていったとか、そういうことではない。



縄文時代の晩期から地球はやや寒冷乾燥化の気候になっていった。そのために山の冬はさらに厳しいものになったが、そのかわり湿地帯だった平地はしだいに干上がってゆき、人が住めるようになった。
そのようにして人々は山を下りていった。
日本列島で最初に生まれた大きな都市集落は、どうやら奈良盆地であったらしい。
古事記の高千穂伝説があるせいか、多くの歴史家は、日本列島の最初の都市国家群は九州中国地方にあったといっている。その都市国家群の豪族たちが東進していって奈良盆地大和朝廷をつくったのだとか。
しかしたぶん、そういうことではない。
奈良盆地の方が先に大きな都市国家を生み出したのだ。
縄文時代は東日本に人が集まり、九州中国地方は人口の少ない地域だった。だったら、人口が増えて大きな集落になってゆくには、それなりに時間がかかったはずである。
縄文時代に旅をする習慣は、中国・九州よりも東日本の方が盛んだった。その証拠として、富山県でとれるヒスイは、東日本全域の遺跡で見つかっているが、中国・九州まで持ち込まれることはほとんどなかったらしい。
中国・九州は、あちこちから人が集まってきて都市集落になってゆくという傾向は遅れていた。縄文時代においては、中国・九州は暖かかったから人の動きも活発だったとはいえない。暖かかったからこそ、動きは鈍かったのだ。
山を下りるという動きは寒い東日本からはじまっていたはずだし、平地の湿原が干上がるのも東日本の方が早かったにちがいない。



おそらく、最初に奈良盆地に集まってきたのは、北陸・中部あたりの人々だったのだろう。その地域は最初から大和朝廷に親密で、九州はいつまでも反抗的だった。天草四郎島原の乱西郷隆盛西南戦争も、まあ、そういう伝統かもしれない。
奈良盆地の最初の天皇がほんとに九州の高千穂からやってきたのなら、九州と朝廷は最初から親密だったはずである。
そしてよそ者の天皇は、奈良盆地の民衆にそれほど親しまれることもなかったにちがいない。
そのとき天皇は、強権を持った支配者として君臨していたのか。そんなことはあるまい。
天皇は、あくまで奈良盆地の民衆のあいだから生まれてきたカリスマだったのだ。
また、九州の稲作文化が東進していって奈良盆地でも稲作がはじまった、という現在の古代史の通説も、おそらく嘘にちがいない。それはきっと、吉野や北陸・中部地方あたりの山からやってきた人々が縄文以来の語り伝えをもとにはじめたのだろう。
彼らはまず、三輪の山すそに住み着いた。奈良盆地の南部である。飛鳥時代においても、南部に朝廷が置かれていた。南部の方が先進地域だった。北陸中部地方からやってきた人々は、三重県を迂廻して伊勢中川から長谷あたりの山すそ伝いに移住してきたのだろう。
九州・中国地方からやってきたのなら、まず北部に住み着くはずである。
弥生時代から飛鳥時代にかけての奈良盆地では、北部は後進地域だった。
まあ、いちばん最初に奈良盆地に住み着いたのは、吉野の山で暮らしていた人々だったのかもしれない。「吉野(よしの)」という言葉には「聖地」というようなニュアンスの意味がある。桜は日本人にいちばん愛されている花であるし、もしかしたら日本列島の住民の歴史的な無意識においては、弥生時代から現在まで、つねに吉野が聖地であったのかもしれない。そういう意味で、南北朝時代南朝が吉野に置かれたのも、なんとなくうなずける。
もちろん縄文時代にもごく少数だが奈良盆地に住み着いている人々もいたが、やっぱり南部がほとんどだった。
とにかく奈良盆地が南部から発展していったということは、九州・中国地方の人々が移住してきて大和朝廷をつくったのではない、ということを意味している。
神武天皇の高千穂伝説がほんとうなら、南朝も九州に置けばよかっただけである。しかしそのころの九州は、朝廷に親密な地域ではなかった。
それに対して吉野は、日本列島の歴史を通じてつねに大和朝廷に親密な地域だった。



日本列島の歴史は、山の民であったところからはじまっている。
山という自然に対する親密さが、日本列島の歴史の基礎になっている。
弥生時代に最初にたくさん人が集まってきた地域は奈良盆地だったが、彼らは九州・中国地方からやってきたのではない。
そこは、たおやかな姿をした山に囲まれた土地だった。なんといっても、そのころの日本列島の住民は山の民だったのだ。そうしてこの景観を前にして、「ここで世界は完結している」「ここでもう死んでもいい」という感慨がわいてきた。
おそらく彼らにとっては、奈良盆地ほど美しい景観を持った土地はなかった。
弥生時代から奈良時代にかけての古代においては、奈良盆地が第二の聖地だった。山を下りた人々の多くがこの地に集まってきた。九州・中国にはそこまで魅力的な景観の場所はなかったし、そういうムーブメントが起きる状況が遅れていた。
最近の発掘調査によって、弥生時代末期の奈良盆地纏向遺跡はかなり大規模な都市集落であったことがわかってきている。
一部の歴史家がいくら大和朝廷以前に「九州王朝」だの「出雲王朝」だの「吉備王朝」だのがあったと主張しても、纏向遺跡に匹敵する遺跡があらわれてこないことにはその証拠になはならない。
弥生時代奈良盆地は、まだまだ湿原だらけの土地だった。それでも、一部ではそこが「邪馬台国」だったといわれるくらいの大規模な都市集落がつくられていたのだ。
人々は、湿原のあいだの浮島のようになった干上がった土地に争うように住み着いていった。それほどに奈良盆地のたおやかな山なみの景観は、人々を魅了していた。
べつに食料豊富な土地でもなかった。
農業ができる土地も限られていた。それでも人々は、けんめいにそこを干拓して農地を確保していった。
まあ、もともと湿原だったから、水田をつくってゆく条件にはなっていた。
日本列島の古代人は、土木工事が好きだった。縄文時代には、山の斜面や台地を切り開いて水路を引いたりして集落をつくっていた。そういう伝統があった。
そこからやがて、奈良盆地に巨大な前方後円墳が次々にあらわれてくることになる。これも、干拓のための土木工事の一環だった。



何はともあれ、縄文以来の伝統である山に対する親密な思いが奈良盆地に大きな都市集落を出現させたのだ。
最初は、けっして農業に適した土地でもなんでもなかった。人々は、ひたすら山に対する親密な感慨だけでそこに住み着いていった。
つまり、縄文以来の山に対する親しみと祝祭性によって住み着いていったのだ。
縄文人は、経済のことを優先させて生きる人々ではなかった。だから、奈良盆地に住み着いてゆくことができた。最初そこは、むしろ住みにくい土地だったのだ。
もともと人間にとって住みにくさは、住み着くための決定的な障害ではなかった。
なにしろネアンデルタールは、地球上でもっとも住みにくい氷河期の極北の地に住み着いていたのだ。
人間がそこに住み着くかどうかは、経済の問題ではなく、祝祭のカタルシスの問題なのだ。
住みやすいかどうかなど問題ではない。そこに人が集まってくれば祝祭が生まれ、そこに住み着いてゆくのだ。
奈良盆地には、人が集まってくる、という祝祭があった。これが、奈良盆地にいち早く都市国家が出現した要因である。
大和朝廷だって、縄文以来の伝統から生まれてきたのだ。どうして、九州中国地方の豪族たちが連合して大和朝廷をつくった、などというのだろう。そんなことはあり得ないのだ。奈良盆地には、弥生時代からすでに都市国家が出現していたのである。
そして、弥生時代になって農業をはじめたからといって、人々の世界観や生命観が変わっていったわけではない。縄文時代1万年の伝統が、そうかんたんに日本列島から消えるはずがない。
ただ、本格的に農業をはじめれば、集団の運営という問題は当然生じてくる。それに、定住して男と女が一緒に暮らすことの鬱陶しさやトラブルをどう処理してゆくかという問題もある。
彼らは、それらの諸問題を、縄文以来の祝祭性でどう克服していったのか。
もしかしたら、縄文時代以上に祝祭性が大事になっていったのかもしれない。彼らはたぶん、そこから新しい時代をはじめた。
意識が変わったから新しい時代になったのではない。縄文以来の山という自然に対する親密さの世界観や生命観で、定住し農業をはじめていったのだ。
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