日本的な文化風土の基礎・「漂泊論B」54


日本的な心の動きの基礎は、縄文人の、山という自然に対する親密さにある。
縄文時代を、われわれの国民性とか文化風土とは無縁の時代としてやり過ごして考えるわけにはいかない。やり過ごすには、1万年は長すぎる。弥生時代以降の2000(あるいは2500)年だけで説明がつくはずがない。
大和朝廷があらわれ仏教が輸入されて以降の歴史にいたっては、たかだか1500年にすぎない。
そして、どのように大和朝廷が出現してきたかという歴史家の分析も、なんだか的外れなものばかりだし、それは、どのように天皇制が生まれてきたかという問題でもある。
天皇制は、とても原始的な制度である。それはたぶん、原始時代や縄文時代から考えてゆく必要がある。
天皇制は、日本列島の住民の、山という自然に対する親密さの上に成り立っている。



日本列島の最初の都市集落は、奈良盆地で生まれた。古事記魏志倭人伝がどうの、九州王朝だの出雲王朝だの吉備王朝だのといっても、現在までの考古学の発掘証拠がそうなっている。
弥生時代後期の纏向遺跡はひとまずそこに都市集落が存在していたことを証明する現物のデータであるが、これに匹敵する規模の遺跡は、いまのところ九州中国地方からはあらわれていない。
魏志倭人伝はとても重要な資料だと多くの歴史家がいうが、ほんとに信じていいのだろうか。もしも2000年前の中国の役人が勝手な思いつきで書いたことが現在の歴史解釈の主流になってしまっているとしたら、まさに歴史のいたずらである。
魏志倭人伝の研究者にとっては飯の食い上げだから、何がなんでも真実が書いてあるということにしたいのだろうが、真実かどうかなんかわからない。書くくらい、いくらでも勝手なことが書ける。ろくな航海術もなかった2000年前に日本列島と中国が頻繁に交流していたはずがない。魏志倭人伝は、そのころの中国の、たんなる伝聞情報をもとにして書かれただけかもしれない。
中国人は、もともと海があまり好きではない民族なのである。
遣隋使がはじまったのが1300年前、それは命がけの渡航で、途中で海に沈んでしまうことも珍しくなかった。その700年前の人々があたりまえのように往還していたということなど、あるはずがないではないか。
たぶん2000年前の中国の役人も日本列島の役人も、誰も相手の国に行ったことなどなかったし、行こうとも思わなかったのだ。
ただもう中国の役人としては、ここは世界に冠たる中華の国である、ということの表現としてそういう文書を残したのだ。どうせ誰も行ったことがないのだ。嘘八百も平気だったのではないだろうか。
そこに書かれてある、邪馬台国にたどり着くための行程として海を何日航海して陸を何日歩いてとか、そんな記述はもっともらしく見せるためのただのレトリックだったのではないだろうか。
日本列島最初の都市国家について考えるのなら、そんなことよりもまず、そのころの人々はどのよう集まってきて大きな集団になっていったのかということから考えてみる必要がある。



2千数百年前の日本列島の住民は、山を下りて平地で暮らしはじめた。これが弥生時代のはじまりである。
そこには、山の斜面や台地にへばりつくように住み着いていた縄文時代と違って、より大きな集落をつくることができるスペースがあった。
平地は広いが、場所が限られている。だから、必然的に一か所にたくさんの人が集まってくることになる。
山間地では大きな集落はつくれないが、小さな集落なら無限定にどこにでもつくることができる。それが縄文時代で、山を下りれば逆に、限られた平地にたくさんの人が集まってくることになる。
そして、山で暮らしていた人たちの好みの平地というのがあった。彼らは、山の稜線が近くに見えるところでないと落ち着かなかった。日本列島における最初の都市集落の多くは山に抱かれた盆地で発生した。まあ、山から下りてきたのだから、過渡期においてはそのようになるのが物理的必然かもしれない。彼らはそこに住んだことはなかったが、未知の場所ではなかった。山を歩きながら、いつもそこを見ていた。そして縄文時代のそこは湿地帯であったが、晩期の気候の寒冷乾燥化によって、しだいに干上がって人が住める場所になってきた。
とくに奈良盆地は、そんな場所だった。
縄文時代は1万年続いた。男たちの小集団は旅をして、山間地の女子供だけの小さな孤立した集落を訪ね歩いていた。そうやって彼らは、つねに出会いと別れを繰り返していた。そこは、男たちが住み着ける余剰のスペースがなかったし、男たちは住み着きたいとも思わなかった。
男と女が出会えば、出会いの高揚感が豊かに起こって祭りも盛り上がる。しかし、祭りは、必ず終わる。出会いの高揚感が豊かに起こる場所だったからこそ、男たちもそこに住み着いてゆくということにはならなかった。
男も女もふだんはさびしい欲求不満の暮らしをしていたからこそ、出会いのときめきが豊かに起こった。そして豊かに起こったからこそ、その祭りは必ず終わった。
そこが山の中の孤立した場所だったからこそ、出会いのときめきの祭りも豊かに盛り上がった。そういう高揚感とともに縄文時代が1万年も続いた。
しかし、広いスペースの平地に下りてくれば、そこに複数の集落が生まれる。そうなると男たちも、その複数の集落を回るだけで、その平地から出てゆかなくなる。しかも男たちの小集団も複数だから、女たちにとっても、男たちが訪ねてくる機会が増える。そのようにして平地に大きな集落=共同体ができていった。



日本列島の婚姻形式はツマドイ婚からはじまっている、といわれている。弥生時代になれば男たちはもう個人で行動して、複数の女の家を訪ね歩くようになっていった。一夫多妻といっても、ひとりが占有していたのではなかった。そして女たちの小さな集落も、そこだけで結束するという意識が薄れていった。
男たちが個人で行動するようになったということは、かつての旅をする小集団の枠を超えた男たち全体の情報網というかコミュニティが生まれていったということだ。そうやって、平地の集落群全体がひとつの集落になっていった。
で、人口爆発が起こり、そこから農業がはじまっていった。
男も女も複数の相手と関係を結んでいた。これは、縄文時代と同じである。縄文時代の延長の男女関係だった。しかし、男たちがひとつの地域(共同体)を周回し続けるようになれば、それだけセックスをする機会も女が妊娠する確率も増える。そして子育てに男たちの協力も得やすくなる。もう縄文時代のように、女だけの小さな集落だけの単位で生活してゆくということもなくなっていった。盆地全体の複数の集落が生活圏になってゆく。
つまり、最初の小集落どうしのネットワークが生まれ、そのネットワークによって盆地全体が共同体になっていった。
何はともあれ弥生時代になってはじめて、男女が頻繁にセックスをし、協力して子育てをするシステムになってきた。そうして、人口爆発が起きてきた。
食料を確保したから人口爆発が起きたのではない。人口爆発が起きたから、食糧確保のための農業が盛んになってきたのだ。
そして弥生時代は男女が複数の相手を共有するという乱交関係だったから、一夫一婦制の「家」という意識はなく、したがって階層(階級)というのも存在しなかった。
日本列島で階層(階級)が生まれてきたのは、世の歴史家が考えるよりもずっとあとのことであろう。
その階層(階級)のない共同体はどのようにいとなまれていたのか……それが弥生時代を考えることであり、「なりゆき」や「無常」の日本文化や天皇制の基底を考えることなのだ。
弥生時代に上意下達の権力者などいなかった。その共同体の運営のたいていのことは、みんなでああでもないこうでもないと語り合いながらなんとなくの「なりゆき」で決まっていった。
だから古代の「しきしまのやまとのくに」は、「ことだまのさきはふ(=おしゃべりの花が咲く)くに」になっていったのだ。
歴史家の多くは、階級が生まれてくることが原始・古代社会の成熟であるかのような固定観念を持っているが、そうではない。この国の古代・原始時代(縄文・弥生時代)は、できるかぎり階級がないかたちで社会を成熟させていったのであり、そこから天皇という世界でも特異な存在のカリスマが生まれてきたのだ。
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