縄文時代の旅・「漂泊論B」4

     1・日本列島における山歩きの伝統
縄文時代のことを少し書いておこうと思う。
縄文時代について考えることは、人間はなぜ旅をするかというテーマと向き合うことでもある。
考古学の資料によれば、縄文人の男の多くは足の骨が変形してしまっていたのだとか。それはきっと、日常的に山道を歩きまわっていたからだろう。
日本的な「漂泊」は、ここから始まっている。
東北の山伏が数日で奈良県吉野の山奥の地にたどりつくとか、日本列島には山歩きの伝統がある。
昔の人はわれわれが考えるよりもずっと速く山道を歩くことができた、ということはよく聞く話である。
江戸時代の山伏でも、一日の行程が50〜60キロで、ときには100キロ近く歩くこともあったといわれている。数日で吉野に着いてしまうはずである。
まあ話半分でも、すごいことだ。おそらく現代人の倍くらいの距離を一日で歩き通すことができたのだろう。


     2・縄文文化弥生文化の連続性
縄文時代とは、氷河期が明けて日本列島が大陸から切り離された1万3千年前から弥生時代がはじまる2千5百〜3千年前くらいまでの期間をいう。
日本列島の歴史の1万3千年のうちの1万年は縄文時代なのだ。
日本列島の文化の基礎は、縄文時代につくられた。
弥生時代になって大陸からたくさんの人が流入してきて、その人たちが日本列島の文化の基礎をつくった、ということはないのだ。
ほんの少数が弥生時代の中後期にやってきただけである。
縄文時代弥生時代の文化の連続性は、一般的にいわれているよりもずっとたくさんあるのだ。そういうことに気づいてゆくのがこのところの考古学界の趨勢だともいえる。
そうやって最初は弥生時代のはじまりが2千5百年前だといわれていたのが、このごろでは、3千年前だとも3千500年前までさかのぼることができるともいわれはじめている。
それは、鉄器とか米とか弥生式土器とかが、従来に考えられていたよりもずっと以前からつくられていたことがわかってきたからだ。
それらの文化が大陸から持ってこられたという説が、だんだんあやしくなってきている。
弥生時代のはじまりは、気候変動などで縄文人生活様式が変わってきたというだけのことだ、と僕は考えている。
生活様式が変われば、文化も変わってくる。
たとえば、山歩きに明け暮れていた男たちも定住して暮らすようになってきたとか、そういうことだ。
鉄はすでに縄文時代の中ごろから諏訪地方でつくられていた、という説もある。その説が正しいかどうかということは、ひとまずどうでもいい。とにかく、鉄をつくることもコメや弥生式土器をつくることも、大陸から伝えられたというよりも、縄文人がいつのまにか自然に覚えていったことであるという可能性を、われわれは否定できなくなりつつある。
また、生活様式が変われば、骨格も変わってくる。
とにかく、縄文時代弥生時代の文化の連続性は、どんどんたしかになってきている。
縄文人縄文文化を一挙に凌駕してしまうほどの大陸人や大陸文化が押し寄せてきたということなど、あるはずがないのだ。
遣隋使や遣唐使だって、大陸とのあいだの海を渡ることは命がけだったのである。もしかしたら、途中で海に沈んでいった人の方がずっと多かったのかもしれない。であれば、それより千年も2千年も前の人々がそうかんたんに行き来できるはずがないではないか。行き来しようとするはずがないではないか。
まあ古代から縄文時代は、死ぬことがそれほど怖いことでも不幸なことでもない時代ではあったが。


     3・男たちは、旅に疲れ果てていた
縄文時代の男たちは、なぜ山歩きばかりしていたのか。
氷河期が明けた直後の日本列島では、海岸近くの平地はほとんど湿地になってしまい、ゾウなどの大型草食獣も絶滅し、人間が住める環境ではなくなっていた。
多くの人々は山間地に移住していった。
縄文時代の道は、山間地につくられていた。これは、奈良時代になってもまだそうで、海岸近くの平野は湿地が多いということもあるが、下流は川幅が広くて、そこに橋をかけることがこんなんだったということもある。
日本列島は川が多い地形で、しかもその川はすぐ氾濫した。
海岸近くの平地に道路が整備されていったのは中世以降のことだった。
縄文時代の旅する道は、山間地にしかなかった。
氷河期には草食獣を追って集団で平地の移動生活をしていたのだが、山間地での山歩きは女子供にはできないから、女子供だけは定住するようになっていった。
また、気候が温暖化して、木の実や山菜などの食糧になる植物が増え、狩の獲物だけにたよらなくても生きてゆけるようになったということもある。
しかし男たちは、狩をしながら移動生活をする習性を捨てられなかった。
ただ、氷河期のように大型草食獣の群れと出会うことのない山間地の狩の収穫は少なかっただろうし、氷河期のような大きな集団で狩りをするというかたちではなかった。
少人数の集団で、シカやクマやイノシシなどを追いかけていった。
縄文時代の集落が小さかったのは、男たちの狩の集団が小さくなったということと連動しているのだろう。
そして、山に入っていった男たちは毎日必ず自分の集落に戻ってきたかといえば、しだいにそうはいかなくなっていったはずである。獲物が得られる日もあれば得られない日もある。得られなければ、さらに山を分け入ってゆく。
そうして何日もさまよったあげくに見知らぬ集落を見つければ、立ち寄ってみたくもなるだろう。しかもその集落でも男たちが帰ってこなくて留守であれば、旅人を泊めてやるということにもなる。
男たちはもう、集落の一員ではなくなっていった。しかしそれは、どこの集落に行っても泊めてもらえる、ということでもある。
山の中を何日も歩きまわって疲れ果てているのなら、女たちだって泊めてやりたくなるだろう。


     4・縄文時代の男と女
縄文時代の集落のほとんどは、女子供だけで構成されていた。そこに、山歩きしている男たちの小集団が訪ねてくる。だから、それを迎える集落も、10戸から20戸のこじんまりとしたものばかりだった。
男たちは、旅人としてそこに逗留した。それはたぶん、ひとつの決まった集団だけではなかったにちがいない。いくつかの集団がその集落を訪ねた。そうして、雪に閉じ込められる冬場は、そこにずっと逗留して、それぞれが家族のように過ごした。
土器をはじめとする縄文集落の生活具は、ほとんどが女の手だけでつくられている。
土偶縄文土器などは、完全に女の感性による作品である。男が参加していたら、たぶん、弥生式土器はもっと早くから生まれてきただろう。
それは、縄文精神であると同時に女の感性の表現でもあったのだ。
狩りができない女たちは、なんでも食べた。
ふだんの集落の食料は、植物質のものがほとんどで、しかしなんでも食べた。彼らは、食べられる野草やキノコに対する知識は驚くほど豊富で、ドングリの実を粉にしてクッキーをつくるとか、そういう工夫もしていた。
クマやシカやイノシシなどの狩の獲物を食べるのは、男たちが長逗留する秋から冬にかけてだけだった。まあこのことを、一般的には、縄文人は美食家だったから獲物の肉に脂がが乗ってくるそういう時期にしか狩をしなかった、などといわれているのだが、おそらくそういうことではあるまい。
集落の暮らしに男の手が加わったのは、家づくりやその周辺の土木工事だけだろう。
秋から冬にかけては、男たちも長逗留をする。そのときだけは、決まった男たちの集団だったのかもしれない。
男たちは、春に旅立ち、秋に戻ってくる。
男たちが訪ねてこなくなった集落は、集落ごと移動した。
山間地の集落は、山歩きする男たちの通り道の近くにつくられていた。だから、今でも、どうしてこんな山奥に人の住む里があるのか、と思わせられる例が残っていたりする。
そこが住みよかったからではない。そこが通り道だったからだ。
縄文人は山の中を歩き回っていた。日本人が胴長短足の体型になっていったのも、そういうことにも由来しているのかもしれない。
そうして、「ナンバ歩き」などという日本独特の歩き方も、この山歩きの習俗から生まれてきたのかもしれない。
男たちは、狩のためだけに山を歩き回っていたのではない。そういう見知らぬ集落を訪ねるたのしみがあったし、そうやって漂泊することそれ自体にカタルシスがあった。
疲れ果てることのカタルシスというものがある。
人間は、生きてあることのいたたまれなさを深く負っているから、疲れ果てることにカタルシスを覚える。そしてそれは、死に対する親密さでもある。
死に対する親密さが人間の心の動きをダイナミックにし、文化や文明を発達させた。
男たちを迎え入れる女たちも、男たちの疲れ果てている姿にセックスアピールを感じていった。
縄文文化の基底には、「死に対する親密さ」が横たわっている。
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