途方に暮れている・「漂泊論B」3

     1・「わからない」と途方に暮れている
人間の心の中の原初的な混沌、というとき、それは「凶悪でたけだけしい心」ではなく、「びくびくして途方に暮れている心」を指すのであり、すなわち「逃げ隠れする心」こそが人間の自然であり原初的な心のかたちなのだ。
「わかった」つもりになって凶悪でたけだけしくなるのではなく、「わからない」といって途方に暮れている心こそ人間の本性である。そこから人間的な知性や感性が生まれてくる。
相手の心や人格がわかったつもりになって、べたべたなついていったり、殺そうという気になったりもする。
秋葉原通り魔事件の犯人の若者は、「みんなは気楽に生きている」「みんなは俺のことをバカにしている」と思い、その確信が殺意に変わっていったという。
「わからない」と途方に暮れていたら、なついてゆくことも殺そうという気にもなれない。
そしてそれは、他者に対する無関心ではない。「わからない」というかたちで関心を持ち、「わからない」からこそ豊かに反応してゆく。原始人はそのようにして人との関係を結んでいたのであり、それが「原初的な混沌」なのだ。
「わからない」ものどうしがどこからともなく集まってきて、原初の「お祭り広場」が生まれていった。
「わからない」ものどうしだからこそ、豊かに反応し合っていった。
長く連れ添ってわかり合っている夫婦なら、あまり話すこともときめき合うこともないだろう。
「わかる」ということは、そこで関心が消えるということだ。
また、わかったつもりになるから、相手の存在が目ざわりになる。
わかったつもりになって、殺そうとする。現代人は「わからない」という関心と反応が希薄だから、「わからない」という闇を分け入ってゆくようなかたちで思考や感性を深化させてゆくことができずに、表層的なところですぐ「わかった」という気になり、そこで考えることも感じることもやめてしまう。
しかし原始人の「びくびくして途方に暮れる心」は、その「わからない」という闇に分け入っていたのだ。彼らは、人を殺そうとするほど人に馴れ馴れしくなかったし、「わからない」と思うほどにせつなく熱く深く人に関心を持ち反応していった。
この世のもっとも知性豊かな人や、もっともイノセントな子供や弱いものたちは、「わからない」という闇に分け入ってゆく「原初的な混沌」を持っている。
それは、殺人犯が持っているのではない。
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     2・原始人は殺し合いをしなかった
殺し合いをするのが人間の本性なのではない。そんなことは、人類700万年の歴史のあいだの、たった1万年前以降のことにすぎない。
人間が殺し合いをするのは、文明の病であると同時に、猿の時代に先祖がえりすることでもある。チンパンジーは、人間顔負けのすごい殺し合いをする。人間は、そういう存在と分かたれて人間になったのだ。
そうして、6,7千年前ころに共同体(国家)が生まれ農業が本格化してきたところから殺し合いの歴史がはじまった。つまり殺し合いは、そういう制度性の病として起きてきたのだ。
人間は、限度を超えて大きく密集した集団をいとなみながら、その集団をいとなむための「制度性」を発達させてきた。そういう制度性から縛られてあることによる「けがれ=心の停滞」からの解放として、殺し合うということが起きてきた。
現在の地球上のすべての人類が、共同体の制度性に縛られて存在している。どこかの未開社会の人食い人種だって、そうした制度性に縛られた文明人なのである。
人と人が殺し合うなんて、ものすごく馴れ馴れしい関係ではないか。他人に対する馴れ馴れしい感情がサディスティックな殺人の衝動になる。
サディズムとは、人に対する馴れ馴れしさのことだ。
こんなにも限度を超えて密集した集団の中に置かれていれば、どうしても人は人に対して馴れ馴れしくなってしまう。
共同体の制度性は、個人としての身体の孤立性を失わせ、人と人の関係を馴れ馴れしいものにしてしまう。そういうところから、殺し合いが起きてくる。
われわれは、かんたんに「殺してやりたい」とか「おまえなんか死んでしまえ」と思ってしまう。限度を超えて大きく密集した集団の中に置かれて制度性に縛られてあれば、どうしてもそういう感情は起きてくる。
そして、自分で自分に対しても「おまえなんか死んでしまえ」とも思う。
人殺しや自殺の衝動とか「凶悪でたけだけしい心」などというものは、文明の病なのだ。「原初的な混沌」でもなんでもない。
人間はもともと逃げ隠れする猿よりももっと弱い猿だったのであり、そのようにして猿から分かたれたのだ。
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     3・馴れ馴れしい関係の社会
まったく、現代人の、人に対する馴れ馴れしさはなんなのだろう。
人と人の関係がくっつきすぎて、人に反応することができなくなり、人を押しのけて自分を守ろうとすることばかりしている。
それはまあしょうがないことで、限度を超えて大きく密集した集団の中で制度性に縛られてあれば、とうぜんそのようになるしかない。
「殺してやりたい」とも思うし、「死にたい」とも思えてくる。
しかし、それをみずからの「けがれ」として自覚するか、そんな自分を免罪し正当化しながら「けがれ」は他人にあると思うのとでは、いささか違うだろう。
現代人は、自分を免罪し正当化することばかりしている。そうやって「凶悪でたけだけしい心は原始人の心である」ということにしている。
身体の孤立性を確保してゆくのが、人間の生きるいとなみである。このことは何度もいってきた。
先験的に身体の孤立性を持っている人は、それが崩れそうになったとき「けがれ=心の停滞」を自覚する。
しかし、共同体の制度性に洗脳されてすでに身体の孤立性を失っている多くの現代人は、そのことを「けがれ」として自覚することができない。それが人間の生きてある正常なかたちだと思っている。
彼らの思考は、そこから出発する。当然かもしれない。彼らにとっては共同体の制度性に洗脳されてすでに身体の孤立性を失っていることこそ人間であることの前提であり、その身体は、孤立性を失っていることがアイデンティティになっている。
他者の承認を得ることによって自己が確認される、などという。つまり、他人にちやほやされないと自分であることができないんだってさ。
冗談じゃない。ほったらかしにされようと、自分は自分さ。むしろそういうときこそより確かに自己が確認されている。
なのに現代人は、ちやほやしたりされたり人を押しのけたり自分を見せびらかしたりというような馴れ馴れしい関係こそが人間ほんらいの関係だと思って、そこに「けがれ」を感じることはない。
戦後の日本列島の住民は、そういう馴れ馴れしい関係に「けがれ」を感じなくなった。
しかしわれわれは、もともとそういうことに「けがれ」を覚える民族なのである。
つまりそれは、身体の孤立性から生きはじめる、ということだ。
しかしそれゆえにこそわれわれは共同体の制度性に対してナイーブな民族で、かんたんにそこから追いつめられたり絡め取られてしまったりもする。
現代のこの国では、共同体の制度性にかんたんに絡め取られてしまっている人間がたくさんいるし、追いつめられている人間も同じように少なくない。
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     4・「けがれ」の自覚
まあみんな、観念的にはかんたんに制度性に絡め取られてちやほやしたりされたりする関係を生きることに躍起になっているが、そういう関係を生きることができなくなれば、たちち心の底の身体の孤立性が疼いている部分がふくらんできて、そうやって生きねばならないという社会システムから追いつめられてゆくことになる。
追いつめられたあげくに、その喪失感から、鬱病になったり認知症になったりする。
誰もがそうなるというつもりはさらさらないが、そういう馴れ馴れしい関係は人間の自然ではないし、この国の伝統的な人と人の関係でもないだろう。
われわれは、世界の一部としてではなく、世界の中の孤立した「観察者」として存在している。
鬱病認知症の患者がなぜ「世の中から置き去りにされている」と思うかといえば、もともと人は身体の孤立性において存在しているからだろう。人にちやほやされる(承認される)ことをアイデンティティにして生きてきても、最後にはそういう自分の中の「人間の自然」に裏切られる。
自分が社会(世界)の一部だと思うのが人間の自然であるのなら、「置き去りにされている」などとは思わないし、自分が社会(世界)の一部だと思っているから「置き去りにされている」ことが耐えられなくなってしまう。
人間なんか、みんな社会(世界)から置き去りにされている存在なのだ。社会(世界)から置き去りにされているところから生きはじめ、社会(世界)の一部になってしまったときに「けがれ」を自覚するのが人間の自然であり、この国の伝統文化でもあるのだ。
身体の孤立性とともに社会(世界)から置き去りにされて途方に暮れている心こそ「原初的な混沌」である
その途方に暮れている心の混沌こそが人間の自然においては生きてあることのカタルシスなのに、そこにおいて苦痛ばかりがふくらんでゆくところに現代社会の病巣がある。
現代人は、途方に暮れることのカタルシスを知らない。それは、快楽を知らない、ということだ。
馴れ馴れしくすることが人と人の関係の自然であるのではない。たがいの身体のあいだの「空間=すきま」をはさんで向き合い、「わからない」と途方に暮れながらけんめいに反応してゆくのが人間の自然なのだ。そういう「反応」の機能として言葉が生まれてきた。人と人が「語り合う」とは、そういうことなのだ。
現代人の馴れ馴れしい人と人の関係は、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を喪失している。
で、「二本の足で立つ」という自然が壊れかけている。そういう身体性の問題でもある。
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     5・「わからない」という闇
二本の足で立つという姿勢は、「途方に暮れている」姿勢である。
原初の人類は、二本の足で立てばいいことがあると「わかった」から立ち上がったのではなく、「わからない」という闇に分け入ってゆくようにして立ち上がっていったのだ。
それは、自然界の生き物として生き延びることが困難になる姿勢だった。それでも、立ち上がっていった。わかっていたら、立ち上がらなかった。
彼らは、二本の足で立ち上がることによって、猿よりももっと弱い猿として助け合い介護し合う存在になった。そうしておどおどびくびくしながら地球の隅々まで逃げていった。
人間は、集団の安定の中に置かれると、「けがれ」を感じて逃げ出したくなる。
集団の安定を維持するためには、「わからない」という混沌の「祭り」が必要である。
「わからない」という混沌の「祭り」として二本の足で立ち上がっていったのだ。
集団の安定から逃げ出してきたものたちがどこからともなく一か所に集まってくる……そういう場のお祭り騒ぎが契機になって、人類は地球の隅々まで拡散していった。それは「わからない」という闇に分け入ってゆこうとする衝動だった。だから、まだ住んだことのない北へ北へと拡散していった。北の地は寒くて住みにくいということがわかっていたら、そんなところへは行かない。ただもう「わからない」という闇に分け入っていったのであり、そういうかたちで人間の心はダイナミックに躍動する。
したがって原始時代は、北の地ほどダイナミックな心の躍動があり、知性も感性も発達していた。
埋葬という祭礼の習俗は北の地から広がっていったのであり、北の地の人々ほどセックスに熱中してたくさん子を産んでいた。
人間の心のダイナミズムは、「わからない」という闇に分け入ってゆくことにある。
「わからない」という闇が、人間を生かしている。
「わからない」と途方に暮れることは、そのまま「ときめき」でもある。そのようにして人類の知能(文化・文明)は発達してきた。
すなわちそれは、われわれ老人のこれからの問題でもある。
「わからない」という闇に分け入ってゆく心(知性・感性)を持たなければ、老後は過ごせない。
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     6・「せずにいられないこと」があるか
僕の知り合いの70を過ぎた老人が「このごろ何をやっても無意味に思えてむなしい」といっていた。
そりゃあ、そうだろう。
そんなことは、世の中を動かしたり金を稼いだりしている人間が、自分のスケベ根性を正当化するために勝手にそう思いたがって勝手にそう思っているだけのこと。
もともとこの世に意味のあることなんか何もないのだ。
ただ、生きていれば息をせずにいられなくなるように、飯を食わずにいられなくなるように、避けがたく「せずにいられないこと」はついてまわる、それだけのこと。
それは、「したいこと」でも「しなければならないこと」でもない。
「したいこと」や「しなければならないこと」は、未来を目指している。
しかし「せずにいられないこと」には未来などない。ただもう、生きてあることのいたたまれなさにせき立てられて「せずにいられないこと」がある。それは、「わからない」という闇に分け入ってゆくことである。
そういう「せずにいられないこと」に身をまかせる態度を生きる作法として持ってこなかったら、「したいこと」や「しなければならないこと」がなくなってしまった老後になれば、もう何をしていいかわからなくなる。
人間は、「したいこと」や「しなければならないこと」がなくなっても、それでも「せずにいられないこと」がある。人間は、「わからない」という闇に分け入ってゆく生き物である。
「したいこと」や「しなければならないこと」など何もなくてもいいのだ。歳をとってもまだそんなことを探しているから、何もできなくなってしまう。
世の中の心理学者やカウンセラーは、「したいこと」や「しなければならないこと」を見つけなさい、という。
そんなことをいっても、歳をとればそんなことがすべて無意味に思えてくるし、する能力もなくなってゆく。年寄りにはもう、未来はないのだ。未来を思うことなんかできない。
すべては、どうでもいい。
それでも人間は、生きてあれば「いまここ」の「せずにいられないこと」がある。そうして最後は、「せずにいられないこと」が息をすることだけになってゆき、その息とともに「いまここ」に消えてゆく。
そういう消えてゆくカタルシスが人を生かしている。
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     7・もう「戦後精神」では生きられない
これはたぶん、われわれの時代の問題でもある。
バブル景気のあとに「失われた10年」を通過し、われわれの時代はすでに「老後」にさしかかっている。
もう、あの繁栄はやってこない。
それでも「したいこと」や「しなければならないこと」を探せというのか。
そんなことはもう、どうでもいい。
未来のビジョンなんか、どうでもいい。
「いまここ」の「せずにいられないこと」が残されているだけだ。そういう「祭り」に身を浸しながら、戦後という時代の「けがれ」をそそいでゆくしかない。
たぶんこの国はもう、未来を追いかける「戦後精神」では生きられない。
もしかしたら、あの東日本大震災は、その「祭り」になるチャンスだったのかもしれない。
そのとき、人々はときめき合わずにいわれなかったし、ボランティアに駆けつけずにいられなかった。そうやってときめきながら「いまここ」に消えてゆく「原初の混沌」のカタルシスが体験されていた。
だが、原発事故があって、「したいこと」や「しなければならないこと」を叫ぶ戦後精神が一挙に盛り返してきて、誰もがときめき合っている空気に水を差してしまった。
なんだかわれわれは、ますます人間不信になりつつある。
原発はなくさねばならない、と叫ぶ一群があらわれて、世間の空気はまた、「したいこと」を追いかけまわすバブル的欲望と「しなければならない」ことに縛られる強迫観念ばかりが目立つようになってきた。
しかし人間を根源において生かしているのは、生き延びるための未来の安全でも繁栄でもなく、「いまここ」においてときめき「いまここ」に消えてゆくカタルシスなのだ。
現在のこの社会に、そういう原初的な「祭り」のムーブメントはあるだろうか。
人と人がときめき合うことのできる社会であればいいのにと思うのだけれど、われわれは、そういう「根源=人間の自然」に遡行するチャンスを逃してしまったのかもしれない。
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