祝福論(やまとことばの語源)・女の旅と山姥伝説

古代では、女は旅をしなかった。
女が旅をするようになったのは、いつごろからだろうか。
縄文人の女と子供だけの集落は、ときどき集落ごと移動するということをしていた。
それは、集落の土が穢れてきたからということと、集落の位置が旅する男たちの通り道ではなくなってしまったからという理由による。つまり、男たちの訪れが減れば、もっといい場所を捜して移動していった。
だから、ひとつの集落が長い年月をかけてやがて大きな都市集落になってゆく、ということがなかった。
青森の三内丸山遺跡は数少ない例外だが、それだってせいぜい二、三百人ていどの集落だったはずだ。
いや、もしかしたら、そのはんぶんくらいの規模であったかもしれない。
縄文人は家を建て替えるときにはかならず穢れていない新しい土を求めて家の場所をずらすということをしていたから、遺跡になればなんだかずいぶんたくさんの家があったように見えるが、たぶんそういうことではない。そしてこの場所も、縄文中期には完全に放棄されてしまうことになる。
縄文の男たちは、家をもたず、狩などをして山の中の旅を続けながら、女たちの集落を訪ね歩いていた。
だから女たちは、男たちの往来の頻繁な場所を選んで集落を構えていた。たとえそこが住むには不便な場所でも、そんなことは厭わなかった。
山間地の集落はほとんどが十戸前後の規模だったから、まあそういうことも可能だったのかもしれない。というか、そういうわけで彼女たちは、集落を大きくしたくなかったのだ。
男たちの通らない平地に大きな集落を構えてもなんの意味もなかったし、縄文時代の平地は、ほとんどが人が往来することも住むこともできないない湿地帯だった。そういうわけで女たちは、縄文時代の八千年間をを通じて旅する男たちのグループの規模に見合う戸数で暮らしていた。
その八千年間、日本列島の女たちは、見知らぬ旅人である男たちを集落に迎え入れてセックスするという暮らしを続けていた。
旅する男たちにとってそこは、「遊里」のような存在だった。
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縄文人のほとんどは中部地方以北に集まっていたが、縄文時代晩期になると日本列島の気候が寒冷化してきて、男たちの行動エリアが西に移っていった。
そうなれば、女たちも西に移動してゆく。
そうして、畿内地方で、爆発的に人口が増えていった。
これが、弥生時代の始まりである。
とくに奈良盆地は、圧倒的に人口密度が高かった。
四方をたおやかな姿の山なみに囲まれた奈良盆地は、古代人のいわば聖地だった。
人びとが本格的に平地で暮らすようになったのは、気候が乾燥寒冷化して平地が干上がり始めた弥生時代以降のことだった。
奈良盆地でさえも最初は湿地帯で、すっかり干上がったのは、古墳時代の終わりころだった。
弥生時代にもっとも稲作農耕が発達していたのは奈良盆地で、研究者たちはそれを、北九州から移住してきた人たちによるものだ、といっている。つまり、それで「神武東征」と一致する、というわけだ。
神武東征なんて、古代人のただの作り話だ。
奈良盆地の周辺にいた人たちが奈良盆地に集まってきて米作りをはじめただけのことだろう。
奈良盆地は、そのころもっとも稲作に適した湿地帯だったし、古代人にとってもっとも魅力的な景観を持った場所でもあった。理由は、それだけだ。
日本列島の稲作は、北九州人が広めたのでもないし、大陸から伝わってきたのでもない。
稲作など縄文時代からやっていたし、そのきっかけにしても、大陸から渡り鳥か海流に運ばれてきたかして日本列島に自生していたからだろう。
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人びとが平地で暮らすようになって、山が、暮らしの場所ではなく、信仰の対象になっていった。
弥生時代、霊力は女のものだった。霊力を持った女たちは、山の中で神とともに暮らした。
山に、そういう女たちの里ができていった。
平地の男たちは山の中に入っていって、女たちの加持祈祷や占いを乞うた。
そうして、女たちとセックスした。
そこは、遊里であると同時に宗教施設でもあった。
女たちに役割分担があったのかどうかはわからない。リーダー格の老女以外は、たいていの女がセックスしただろうし、セックスするだけが役割の女もいたのかもしれない。
とにかく山の中の遊里は、縄文以来の伝統だったのだ。
古代の山の中に遊女がいたことはよくいわれるところだが、それは、宗教者集団でもあったはずだ。
つまり山姥伝説の原型として、山の女は霊力を持った怖い生きものだ、とそのころから平地の里の女たちで噂しあうようになっていったのではないだろうか。
子を産み育てて地道に暮らしている平地の女たちにとって、山の女は、自分たちの男を奪う敵だった。
あの女たちは、働きもせずに男とセックスして遊んでばかりいる……。
そしてそれは、山には平地の里から追い払われた女もたくさんいた、ということを意味する。山で男の相手をするしか生きてゆくすべがなかったのだ。
とにかく古代の山には、そういう場所があったらしい。
それが弥生時代中ごろまでのことで、後期になると、山すその平地に神社などの宗教施設がつくられるようになっていった。
男たちはもう、山に入ってゆくおおっぴらな理由がなくなってしまう。
そうして山の中の遊里も、以前ほどの華やぎを失い、さらに山姥伝説が生まれてきそうな秘密めいた気配を帯びてくる。
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「山姥」は、古代には「やまふば」と書いたらしい。
「ふば」=「ふは」。
「ふ」は、「震える」の「ふ」。
「は」は、「空間」「場所」の語義。
「震える空間」、すなわち「異変」「怪異」。
「やまふば」は、もともとはただたんに「山での怪異や災厄」のことを指すだけのことばだったらしい。
それがやがて、山の中で何か災厄に会うと、それは「山姥」のせいだ、といわれるようになっていった。
「やまふば」の「ば」に「婆」という漢字を当てさせたのは、いったい誰だろう。
それは、「勝ち組」の女たちだ。
あの「負け犬女」たちは、働くことも子を産むことできずに、セックスばかりしてセックスするしか能がない……という恨みのこもった差別意識。それは、男を中心として一夫一婦制の新しい家族制度が定着しつつある時代においては、共同体の正義でもあった。
まあ、現代もたいして違いはない。
そういう過渡期の時代においては、小野小町のように、美貌も知性も身分の高さも備えた女は、多くの男たちにちやほやされながら、生涯独身を通した。それ以前の自由な「つまどい」や「通い婚」の習俗を残した古代においては、庶民の中にもそういう女が少なからずいた。
ひとりの男の籍に入って男の庇護と引き換えに不自由な一生を余儀なくされている「勝ち組」の女たちにとって、そのような女の存在は、まことにめざわりであったにちがいない。そうした一夫一婦制の家族制度の外にある女の象徴として、「山姥」という共同幻想が生まれてきた。
山姥は老女で背が高くて子がいない、などの属性が与えられているのは、そういういきさつからだろうし、魔力・霊力を持っているというのは、原初の「巫女」のイメージの名残にちがいない。
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そして、「山姥」ということばが一般化してきた中世のころには、共同体から離脱して旅をする女があらわれてきた、ということもあるかもしれない。
女旅芸人とか、女乞食とか、また、一遍上人踊念仏の集団に加わってゆくような女も出てきた。
こうした女たちは、村を捨てて旅立っていったと同時に、訪ねていった先の村では、村の男たちのセックスの対象になったわけで、やっぱり制度の中の女たちに敵視されるほかなかった。
現代の「負け犬組みの独身女」たちは、家に入った女より豊かで自由な生活ができるし、共同体からも認知されている。
しかし中世や古代の、一夫一婦制という新しい家族制度からこぼれていった女たちは、物質的にも身分的にも、はるかに苦しい立場に置かれていた。
ただ「鬼になる」という自由があっただけだ。
さんざん男たちの慰み者になったあげくに村の隅に討ち捨てられていた女も、旅に出て「見知らぬ女」になれば、男たちのセックスの対象に戻ることができる。
「出会い」こそ、もっとも人と人がときめきあうことのできる関係である。
彼女らは、「鬼(=山姥)」になって、他者に出会いのときめきを与え、与えられる存在になっていった。
人類の一夫一婦制という家族制度は、共同体の定着発展に大いに寄与したが、しらずしらず人びとから「出会いのときめき」という体験を奪ってきた。
「やまふば」の「ふば」は、「出会いのときめき」でもあった。
女に食い殺されるという体験は、ときにそう悪い体験でもない。そんなふうにセックスしてみたいと、たいていの男が思っている。