祝福論(やまとことばの語源)・「たび」

休日が続いたら何がしたいか。
われわれはまず「旅がしたい」と思う。
日本列島の住民は旅が好きだ、という。
大昔の人は毎日が休日だったのだから、旅ばかりしていたのだろうか。
たぶん、縄文時代の男たちは、旅が人生だった。
そして女たちは家を建てて小さな集落をつくり、子を産み育てながら、旅する男たちの訪れを待って暮らしていた。
日本列島の歴史は、その起源から旅とともにあった。
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古代の「おと」ということばは、「音」のことではなかった。「音」のことは、「ね(音)」といった。
古代の「おと」は、「訪れる」という意味だったらしい。
「お」は、「おっ」とか「おお」と気づくことの「お」。
「と」は、「止まる」「戸」の「と」。
「おと」の語源は、訪れ人が戸の前に立っているのに気づくことにあった。
すなわち「つまどい」のこと。訪れ人は、戸の前に立って、訪れの歌を歌った。「つまどい」の起源は、旅人の訪れにあった。
見ず知らずの男が戸の前に立っても、招き入れるはずがないではないか、などといってはいけない。現在のフーゾク産業だって、そういう形式で成り立っている。
日本列島の男と女は、見知らぬ二人が裸になって抱き合うことをかんたんにするが、女がいやがることを無理強いするということもしない。裸で抱き合っても、最後の一線は越えさせない……そういう現代のフーゾクシステムを成り立たせている日本独自のちょいと微妙な男と女の関係は、古代における、女が戸を開けてくれなければ中に入ることができなかったということや、男は家を持たない存在だったから女を自分の部屋に引き込むということがなかった、という伝統からきているらしい。
男はつねに「お客」だったのだ。あつかましいお客は嫌われる。
古代の日本列島の男と女の関係は、「客」と「主」の関係だった。それが現在のフーゾク産業のシステムを成り立たせ、またそれは「旅」の文化でもあった。
旅人の訪れは、日本列島の文化の基礎的なかたちのひとつになっている。
「たび」ということばは、おそらく縄文時代からあった。
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中西進氏は、「たび」の語源について、次のように語っています。
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「たび」は、非常に古い言葉ですが、今日にいたるまで「たび」の語源は解明されていません。「たび」ということばやその概念は、記紀・万葉にも頻出し、さまざまな説が提唱されていますが、どれも問題をはらんでいます。
たとえば「食べる」の古語「たぶ(食ぶ)」を語源だとする説がありますが、「たぶ」よりも「たび」のほうが古いことばであることから認められません。「お与えになる」という敬語に「たぶ」があるのですが、神様が旅をお与えになると考えるのは、ちょっと苦しいと思います。また、旅に出ると、他人から火をもらうから「たび(他火)」であるとする説もありますが、それなら「たか」か「ほかび」となるはずで、これもまた認められない。結局、これはという語源はまだ見つかっていないのです。……日本語の「たび」の語源探しは、まだまだこれからの課題です。
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「たび」の語源探しは、そんなやっかいなことだろうか。たった二文字二音の言葉です。三文字四文字の言葉と違って、そうそうまぎれもないにちがいない。
上の説明で気になるのは、彼らは、古代の日本列島の住民の旅に対する感慨のことをまるで考えていない、ということです。ことばはその「感慨」から生まれてきたのだし、そこのところをきっちり説明してくれなければ、こちらだって納得できない。
中西氏にしたって「古代、旅に出るというのは大変な決意をともなうつらい行為で、古代人にとっていちばん幸せを感じるのは、家で妻とともに生活する時間でした」などとそのまま思考停止に陥っているのだから、これじゃあ「旅」の語源がわかるはずがない。
そんなことがいちばんの幸せなら、「つまどい」や「通い婚」などという習俗はいちはやくなくなっているはずです。
「つまどい」や「通い婚」が古代を通じて残っていったのは、日本列島の住民の、一緒にいることの「しあわせ」よりも出会いの「ときめき」を求めるという、旅に対する積極的な感慨があったからでしょう。少なくとも、縄文人は、そういう流儀だった。「たび」ということばは、そうした生活の流儀の、そうした感慨から生まれてきたのだ。
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「たび」の「た」は、「足(た)る」「立(た)つ」の「た」。「充足」「昂揚」の感慨から「た」という音声がこぼれ出る。
「た」と発声するとき、口の中いっぱいに声が響きわたる充実した心地がある。
「たのしい」「ただしい」「たくましい」「たいへん」「たいそうたのしい」の「た」。
「た」という音韻だけで、古代人が旅に対していかに積極的で深い感慨を抱いていたかがわかる。
旅の「た」は、「立(た)つ」=「発(た)つ」の「た」。気持ちが昂揚して出発してゆくから、「たび」というのだろう。「た」という発声は、気持ちが昂揚して「立つ=発つ」ことでもある。
「び=ひ」は「秘匿」の「ひ」、隠すこと。
縄文時代以来、日本列島の旅は、あの山の向こうに出かけてゆくことだった。
あの山の向こうに、もうひとつ別の世界が隠されてある。
「たび」とは、昂揚した気持ちであの山の向こうの隠されてあるもうひとつの世界に出かけてゆくこと。隠されてあるものに対する憧れ、ときめき。これが「たび」の語源であり、「たび」という音声には、日本列島の住民のそういう感慨がこめられている。
あの山の向こうでの新しい出会いに憧れて旅に出る。そうして旅に出れば、こんどはあの山の向こうのふるさとが隠されてある対象になり、ふるさとのことをせつなく思うようになる。
旅に出ることは、ふるさとの仲間から隠れてしまうことでもある。「旅の恥はかき捨て」というが、旅とは、そういう匿名性のことでもある。人は旅に出て、孤独をかみしめる。
孤独になるとは、日ごろの人間関係のわずらわしさを忘れて「ひとり」になること。
古代の旅はたしかに「つらい行為」ではあったが、古代人だって「ひとりになりたい」とか「新しい人や景色と出会ってみたい」という願いや憧れがなかったはずがない。いや、彼らはわれわれほど快適な日々を送っていなかったのであれば、その願いや憧れはわれわれよりずっと深く切実だったのかもしれない。
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隠されてあるものとの出会いのときめきを「たび」という。だから「たび」ということばは、「ことが起きる」ことの尺度でもあった。「ひとたび」「ふたたび」「たびたび」「たびかさなる」、というように。
「たび」とは、「ことが起きる」ということである。自分がこの世に生まれてきて存在していることも、ひとつの「たび」という「ことが起きる」現象である……なあんていうと、華厳経の世界の話になってゆくのでしょうか。
いや、それはともかく隠すことは、この国の伝統的な美意識である。
そしてそれは、「非日常」というもうひとつの世界にスライドしてゆくことでもあった。
「ハレ」と「ケ」、といってしまうとありきたりだが、人類が定住することを覚えたということは、定住することの「けがれ」に気づいてゆくことでもあった。
ひとつところにじっとしていれば、気持ちが澱んでくる。「しあわせ」だからといっても、この「けがれ」から逃れることはできない。
だから、ときどき「まつり」という祝祭行事を催して、この「けがれ」をすすいでゆかねばならない。
孤立した島国であった日本列島では、ことのほか「けがれ」の意識が深かった。だから、旅をすることは、「けがれ」をすすぐことでもあった。
隠されたものの中に「非日常」の世界がある。日本列島の住民にとっての「あの山の向こう」に出かけてゆくことは、「いまここ」の裂け目の奥の「非日常」の空間に入ってゆくことだった。それは「けがれ」をすすぐことであり、大陸の人々が地平線の向こうと往還していたこととは少しニュアンスが違ったし、そこにこそことさらの深い思い入れがあった。
「たび」の「び=ひ」は、「非日常」の「ひ」。
日本列島の住民は、隠されてあるものに深くときめいてゆく。
ときめきは隠さなければいけないし、隠されてあるというそのことにときめきがある。
深くお辞儀をして挨拶するのは、ときめきを隠している態度であると同時に、隠しているというそのことがときめいていることの証しでもある。
そのとき人は、相手がときめきを隠しているのがわかる。しかし、どれくらいどのようにときめいているかはわからない。
それを知るためには、自分もときめいてみるしかない。自分がときめいているというそのことが、ときめきを共有していることの証しなのだ。
そうやって隠しあうことによってときめきを共有してゆくのが、日本列島の人との関係の流儀だった。
日本列島の住民は、ときめきを伝えない。隠されてあるというそのことにときめく。それは、やまとことばが「意味」を伝えるための言葉ではないということと同じであり、そこに「ひ」という音声にこめられた感慨があった。
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日本列島には、あの山の向こうから鬼がやってくる、という祭りが、秋田の「なまはげ」をはじめとしてたくさんある。
旅をするとは、「鬼」になることだ。「鬼」の身になって人や景色との出会いにときめいてゆくことが、「けがれ」をすすぐことになる。「鬼」として、人と出会う。「鬼」は、「人」と同じ生きものではない。孤立した存在である「鬼」になったときに、もっとも深く人にときめいている。そして「鬼」はときめきを隠している。ときめきを表現することが不可能なグロテスクな存在である。「鬼」とは、ときめきを表現することを断念している存在である。
そういう「鬼」になって旅をすることを、「たび」という。
古代の旅人はみな、蓑笠姿のしおれた「鬼」や「乞食」の格好をしていた。
「たび」というやまとことばは、古代の旅の感慨とコンセプトをあらわすことばだった。