祝福論(やまとことばの語源)・ことのは

彼がまるで人間のくずであるかのようにいう、あのぶよぶよのグロテスクな顔つきをした何とかという大臣の発言は、ほんとにくだらない。悪代官そのものの人相をしてやがる。あんたの品性のほうが、よっぽど下劣なんだよ。
「許せない」だなんて、まったく「女の腐ったような」と形容したくなる言い草だ。地デジ波の元締めだかなんだか知らないが、いいとしした大人が、そんな恨みがましいことをいうな。
まじめで清潔な人間として生きることがどんなにストレスフルなことか、いいかげんわかってやろうよ。
それは、彼が選択した生き方であると同時に、この社会やまわりがそんなふうに追いつめた結果でもある。
彼を人間のくずのようにいうくらいなら、「ざまあみやがれ、自業自得なんだよ」といっているほうが、まだ、何ほどか聡明で人間味があると思う。
人生にいくぶんかの毒は必要だ。あんただって、人前でいばりくさったりする毒を食らって生きているんじゃないか。それは、深夜の公園で素っ裸になって咆哮すること以上でも以下でもない。あんたがそれほどに下劣でも許してあげるからさ、彼のことも許してやんなよ。
ちょいと恥ずかしいことをしてしまっただけじゃないの。僕には、そんなことまで「犯罪」にカウントするような趣味はない。
それより、やっぱりあの大臣は、存在そのものが犯罪だ。
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ことばについて考えることは、人と人の関係について考えることだ。
人との関係のわずらわしさやよろこびがこの生を規定している。なんのかのといっても、けっきょくそういうことだ。
そして人間は、人との関係に一喜一憂して生きているから、ことばを生み出した。
僕は、自分のことを知ろうとする意欲も、知ることのできるような知性も持ち合わせていない。
人との関係がどんなになっているかということが気になるばかりだ。
自分のことも人のこともわかっていないのだから、自分のことも人のこともうまく祝福することなんかできない。でも、祝福せずにいられない人との関係は、きっとあると思う。けっきょく人は、そこのところによろこんだりわずらわされたりして生きているのだと思う。
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原初、ことばは、人が集まっている状況から生まれてきた。
群れの個体数が増えすぎれば、ストレスが増大する。
そのストレスを和らげる機能として、ことばが生まれてきた。
一説によれば、人類は、50万年前くらいからすでにことばを話せる喉の構造になっていた、といわれています。
まあ、オウムだって話すくらいはするのだから、50万年前の人類だって、きっと多少の原始的なことばはもっていたことでしょう。
そこで、5万年前のヨーロッパのネアンデルタールとアフリカのホモ・サピエンスと、どちらのことばが発達していたのかといえば、研究者たちはたいていアフリカのホモ・サピエンスのほうだ、といいます。その根拠として、どちらの知能が発達していたとか、そんなことばかりいっているのだが、そんなことを問題にしてもしょうがないし、脳容量においてネアンデルタールが劣っていたわけでもない。
問題は、どちらがことばが生まれてくるような群れの状況を持っていたかということです。
そのころアフリカのホモ・サピエンスは十人前後の家族集団で移動生活をし、ネアンデルタールは百人以上の群れをつくって定住していた。
家族は、群れることのストレスも少ないし、ことばなんかいらない関係の集団です。それにたいして、そのころ百人以上の群れをつくって暮らすことは、人類史上最初の試みだったわけです。
おそらくことばは、そういう試みから、すなわちそうやって密集しすぎた群れをつくって暮らすことのストレスやよろこびから生まれ育ってきたはずです。
知能がどうとかこうとかと問題にすること自体、考えることの程度が低いのですよ。
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みんなで空を見上げれば、みんなで同じ体験をしている、みんなで同じものを見ている、という感慨がうまれてくる。
「あ、鳥が飛んでいる」とか、「今日はいい天気だ」とか「雷が光った」とか。
そうして、みんなで同じ感慨を共有している、という連帯感が生まれてくる。しかしそれは、群れが密集しすぎていることのストレスと背中合わせのよろこびだ。
生きものとしての限度を超えて密集した状態に置かれていることのストレス。
体じゅうの皮膚がざわざわして息苦しい。その息苦しさが、気になって仕方がない。
そういうときに、意識が外の世界に向けば、そんなうっとうしいみずからの身体に対する関心から解放される。「みんなで見ている」という状況が、その気持ちを後押ししてくれる。
スタジアムでサッカーや野球を見て興奮するのは、「みんなで同じものを見ている」という状況に後押しされているからでしょう。
「あ、鳥が飛んでいる」、とみんなで気づく。
誰かが、思わず「とり」という。
そのときまだ「とり」ということばなどなかったのだから、そういった本人もその音声が「あの鳥」のことだという意識などなかったのだが、それを「聞く」ことによって、本人もみんなも、それが「あの鳥」のことだと気づいていった。
そうしてみんなも「とり」といい、やがてそれが「ことば」として群れに定着してゆく。
ことばは、「聞く」ことによって、意味が生じる。
ことばは、意味を伝えようとして生まれてきたのではない。ことばが生まれ、言葉と出会った(聞いた)ことによって、意味に気づいていったのだ。
「話す」ことは、本質的には、意味を伝えることではなく、ある感慨がこぼれ出ることです。
つまりそれは、身体にまとわりついた意識が外にこぼれ出る体験であり、そういううっとうしさを持ったから人類は「ことば」を生み出したのだ。
それは、ことばを発そうとする衝動というより、ことばを聞こうとする衝動であり、そのときみんなと(あるいは相手と)そのことばという音声を共有しようとしたのだ。
共有することによって、つまり外にこぼれ出ていったそのことばに意識が向いてゆくことによって、自分(=身体)にまとわりついている意識から解放されることができる。
密集しすぎた群れのうっとうしさを抱えていたから、人の口からことばがこぼれ出てきたのだ。
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群れが限度を超えて密集してくると、体の中にうっとうしい空気が充満してくるようなうっとうしさを覚える。それで、つまらないいさかいが起きてきたりする。ことばという音声は、そういう体の中のうっとうしい空気を吐き出すようにして口の端からこぼれ出る。
ことばは、「伝達」の機能として生まれてきたのではない。
最初に「とり」ということばを発した者は、「とり」という「意味」を携えていたのでも、「とり」といおうとしたのですらない。だって「とり」ということばなどなかったのだもの。「とり」といおうとするはずがないではないか。
ただ、「とり」といってしまったのだ。いってしまってから、「とり」とは「あの鳥」のことだ、と悟った。
そのときなぜ「とり」という音声がこぼれ出てきたのかは、「知能」の問題ではない。存在することの居心地の悪さ、すなわち「実存」の問題なのだ。
古人類学者は、そのとき人類はことばをイメージする能力をもったからことばを生み出したのだというが、めちゃくちゃな話です。ことばを話したことがないものが、ことばをイメージすることができるはずがないではないか。ことばが生まれてきたから、ことばをイメージできるようになっていったのだ。
原初の人類の歴史において、「知能」の発達したものがことばを生み出したのではない。密集しすぎた群れの中に置かれてあることのうっとうしさを深く体験している者の、その「なげき」からことばという音声がこぼれ出たのであり、それは、「存在の不安」というか「実存」の問題なのだ。
つまりことばは、頭のいい「知識人」が生み出したのではなく、そういう「嘆き」を深く体験している「民衆」のあいだから生まれてきたということです。
知能指数の高さが自慢のあの連中は、そういうことがぜんぜんわかっていない。
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日本列島の古代人は、ことばのことを「ことのは」といった。
はじめに心にまとわりついてくるうっとうしい「もの」があり、そこから口をついて「ことのは」がこぼれ出てきた。
「ことのは」の「こと」は、「こぼれ出る」こと。
「は」は、「空間」の語義。
「ことのは」とは、「音声がこぼれ出る空間」のこと。
ことばの意味は、その「空間」において生成しているのであって、話す者が所有しているのではない。
その「空間」を共有してゆくことが、「語らふ(語り合う)」という行為である。
われわれの心は、「密集しすぎた群れの中の置かれてある」という前提の上にはたらいている。
田舎で暮らしても都会にいても、それは同じだ。
それが、人間であることの与件なのだ。
ひたすら自分自身をまさぐりつづけても、それ自体密集しすぎた群れの中に置かれてあることのうっとうしさから逃れようとする心の動きにほかならない。
人間が自己意識をつよく持つのは、密集しすぎた群れの中に置かれてあることのうっとうしさから逃れようとしているからであり、そんなものはひとつの強迫観念だろう。
われわれの「幸せ」も「自己意識」も「知能」も、この前提の上に成り立っている。
人との関係が、この生を規定している。
人との関係がうまくいかないと生きてゆけない。
草薙君のように、うまく行き過ぎて、かえってはしごを外されたような不安を持ってしまう場合もある。自分にこだわりすぎると、そういうことになる。
誰もが、そのつどそのつどのちょうどいい関係を模索して生きている。
自己意識がつよいということは、それだけ人との関係に苦労して生きてきた、ということだ。
「こんなはずじゃない」と、いつも思いながら生きてきた。
そのルサンチマンが、自己意識を育てる。
人との関係のことなんか「うわのそら」で生きていられたら、それがいちばんいい。ちょうどいい関係でなければ「うわのそら」にはなれない。
むやみな自己意識にわずらわされたくはない。
自己意識が希薄であるということは、心が、この世界に、「あなた」が存在するということに対するときめきで満ちあふれている、ということだ。
ことばのほんらいの機能は、自分の心にまとわりついてくるうっとうしい「もの」をひきはがし、心を「あなた」や「世界」に向かって解放してゆく「こと」にある。
「ことのは」の「は」は、「解き放つ」という意味でもある。