祝福論(やまとことばの語源)・「むすぶ」

「いまここが世界(宇宙)のすべてだ」という感慨で、「むすぶ」という。
それは、ひとつの由々しき決意であり、この生のこの上ないエクスタシーでもある。
「むすぶ=むすふ」の語源は何かといえば、ただたんに紐を結んだところからきているのではないらしい。
紐を結ぶことは、「結(ゆ)う」といった。「ゆ」とは「過程」の語義。だから、温まってやがては水蒸気として消えてゆく過程の水のことを「湯(ゆ)」という。紐を結ぶことも、それで終わりということはない。それによって何かをはじめるための行為である。縄文人が家を建てるために木と木を結びつける。それは、骨組みをつくっただけの、過程の作業であり、そこからしだいに家になってゆく。つまり、「なってゆく」の「ゆ」。
「ゆう」=「紐を結ぶ」とは、ようするに途中の「駅」をつくるようなことだ。そこが終点ではない。
それに対して、「むすぶ」は、「これで世界は完結した」という、最終的な感慨をもたらす行為を意味した。だから、結婚することことを「縁をむすぶ」というし、お産をすることは「産(む)す」といった。それらは、ひとまず世界が完結する行為であると同時に、世界の始まりでもある。
そうして、世界(宇宙)の起源の神のことを「むすひ(産霊)の神」と呼んだ。
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いまをときめく脳科学者の茂木健一郎氏などは、<古事記における最初に「むすひの神」が出現したことの記述は、驚くべきことに宇宙の始まりである「ビッグ・バン」の現象と一致する>、などともったいをつけて説明しておられるが、たぶんそういうことじゃないのですよ。
あくまで「むすぶ」ということばにともなう感慨があった、というだけのことでしょう。
セックスの行為のことを「むすぶ」ともいう。この生はそれが始まりでそれがすべてだ、という感慨があったから、そこから「むすひの神」ということばが生まれてきただけのことかもしれない。なんだか「ビッグ・バン」のことを表現しているようにうかがえるその記述は、じつはただセックスのエクスタシーから生まれてきただけのイメージであるのかもしれない。
べつにセックスのことでなくてもいいが、世界(宇宙)の始まりはともかく「混沌がむすばれてゆく現象」だと古代人は思っていた、というだけのことでしょう。
「ビッグ・バン」がどうとかこうとか、やめてくれよという話です。宇宙の始まりがほんとにそうだったと、いったい何をもって証明するのか。そんなことは、その宇宙の始まりを体験した当事者にしかわからないことだ。
僕は、地球の始まりは大きなウサギが泥団子をこねてつくった、ということでもぜんぜんかまわないと思っている。
わからないことは、わからないのだ。だから、ウサギがつくった、といわれれば、ああそうか、と思うしかない。
「ああそうか」と思えなければならない、と思っている。なぜなら、死んでゆくということは、「ああそうか」と思うしかないことだから。
「ああそうか」と思うことを、「むすぶ」という。
女が「ああそうか」と思うことは、ひとつの「由々しき決意」なのだ。すなわち「由々しき決意」を「むすぶ」こと。われわれ男には、そういう決意というか覚悟がなさ過ぎる。そしてここでいう「女」と「男」ということばを「古代人」と「現代人」に置き換えても同じことだ。
「ゆゆしき」の「ゆ」は、「だんだんそうなってゆく」の「ゆ」。それを「ゆゆ」と繰り返すのだから、「もうあとに引けない」とか「取り返しがつかない」という意味になる。
「ゆゆしき」とは「あとに引けない決意」のこと。
「むすぶ」ということばは、「いまここで世界は完結している」という感慨からこぼれ出てきた。
何が「ビッグ・バン」か。そんなところに古代人の心の動きがあったのではない。そんな中学生の雑談みたいなことばかりいうな。
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では、万葉学の権威である中西進氏は「むすぶ」ということばをどう説明してくれているかといえば、こうです。
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「苔(こけ)むす」などと使われる「むす」ということばがありますが、これは、発生する、生える、などの意味を表わし、「生す」「産す」などの漢字があてられます。また湿度が高くて暑い状態を「むす(蒸す)」といいますが、そうした温暖多湿の気候風土の中から生命が生まれてくる、そういった意味をあわせもつのが「むす」ではないかと思います。
「むすひ」とは「産霊」とも書き、万物を生み出す霊力のことで、タカムスヒの神、カミムスヒの神と呼ばれる神様がいます。これらの「むす」「むすひ」は、「むすぶ」と根が同じです。というのは、「むすぶ」もやはり、生命の誕生と関わることばだからです。
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「温暖多湿の気候風土の中から生命が生まれてくる」だなんて、つまらないこじつけです。古代人がシベリアや砂漠やアフリカを知っていたわけでもあるまいし、自分たちがよその国に比べてどんな気候風土の中で暮らしているかという意識などなかったに決まっている。それに、夏に咲く花もあれば冬に芽を出す草もあるわけで、そんなことは「生命が生まれてくる」ことと直接関係あることではない。
「蒸(む)す」とは、温かい蒸気に閉じ込められること。
「む」とは、「閉じこもる」「閉じ込められる」こと。
「む」は、「むむっ……?」「むっとする」の「む」。「むす」は、「むすっとする」「むずむずする」の「むす」。
「む」と発声するとき、胸がざわざわして、息がつまりそうな心地がする。だから、「閉じ込められる」ことや「立ち止まる」ことを「む」という。
「……にやあらむ(……であるのだろうか)」というときの「む」は、そうした疑問や不安の中に閉じ込められ立ち止まっている感慨を表している。
「苔むす」というのは、苔に覆われ閉じ込められている状態。
お産をすることの「産(む)す」は、古代のお産は、屋敷の隅に「産屋(うぶや)」という新しい小屋を建ててそこに「閉じこもって」なされていたからだろうか。男にはぜったい見せなかった。
あるいは、胎児は腹の中に閉じ込められていて、そこからすべり下りてくるから「産(む)す」といったのかもしれない。「むす」の「す」は、「すべる」「擦(す)る」の「す」。
「蒸す」の「す」も、蒸気で「こする」からでしょう。
「苔むす」ときの苔は、土や岩を「擦(す)る」ように覆っている。
「生まれる」とは、閉じ込められてあるところからすべり出てくること。だから「生(む)す」ともいう。
「温暖多湿の気候風土」がどうとかこうとか、そんなことは関係ない。
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出会った男女がセックスすることを、「縁をむすぶ」という。それはたしかにそうで、そんな大それたことをお金を出しただけでやらせてくれるなんて、ある意味で、ただでやらせてくれる相手よりもずっとありがたい存在です。
それはともかく、「むすぶ(ふ)」の語尾は、なぜ「ふ」であるのか。
ただの動詞のしっぽだというのなら、「むすく」でも「むする」でもいいはずです。きっと「ふ」でなければならないわけがあったはずだ。
この場合の「ふ」は、「振る」「震える」の語義。抱き合ってセックスすれば、心も体もふるえる。あるいは、「伏(ふ)す」、眠りにつく姿勢、それは、セックスすることと同様、人間の最終的な行為のかたちである。
そのように、「ふ」でなければならないわけがあった。
「むすふ」ということばは、ふつうなら「むすう」と変化してゆくはずです。「かふ」が「かう」に、「うたふ」が「うたう」になったように。しかし、そうさせてなるものかといわんばかりに、あえて濁音になってまで「ふ」にとどまってきた。
「むすぶ」の「ふ」は、日本列島の住民にとっては、とても思い入れの深い「ふ」であるらしい。
「縁をむすぶ(セックスする)」ことは、男と女が家の中に閉じこもり、横たわってくっつきあい、震えあうこと。これが、「むすぶ」ということばの語源だ。たぶん、体や心をふるわせるセックスのことを意味したたから、「ふ」でありつづけねばならなかったのだろう。
そして紐を結ぶことも、紐と紐をすり合わせて固定してゆくことだから、同じ意味あいの行為だともいえる。
古代(もしくは近代以前)の日本列島は「伏す」の文化だった、と山姥さんから聞いたことがあります。とすればそれは、セックスの文化であり「出会いのときめき」の文化だった、ということでもあるはずです。
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のし袋には、「水引き」という紅白の紐の結び目がつけられる。
日本列島の住民は、「むすぶ」という感慨をこめて祝福してゆく。
そこで中西氏は、こういう。
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このように「むすぶ」ことは、永遠への祈りを込めた、とくべつな価値をもつ行為でした。新たな生命や力が生まれ、永遠にそのサイクルが循環していく、人と人、あるいは人と自然がひとつになり、つながったところにいのちが生まれる。それらを日本人は「むすぶ」ということばに託してきました。
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「むすぶ」ことによって「新たな生命が生まれる」のではない。「新たな生命が生まれた」ことを、「むすぶ」というのだ。そうやってひとまずこの世界が完結することを、「むすぶ」という。
とすれば、そのとき「永遠」に向かう心の動きは断ち切られている。
「永遠への祈り」などというものは、死が怖い現代人の心の動きにすぎない。古代においても、支配階級や知識人にはすでにそういう自意識が芽生えてきていたのかもしれないが、少なくとも「むすぶ」ということばは、「いまここ」に立ち尽くす感慨から生まれてきたはずです。
永遠に向かうのなら、結び目などつくってそこで立ち止まってしまってはいけない。
「むすぶ」が「永遠への祈り」だなんて、言語矛盾なのだ。そんな解釈は、自分の中のそうしたスケベ根性を正当化するためのつまらないこじつけにすぎない。
「永遠への祈り」を断ち切るために「むすぶ」のだ。
そのことばは、古代人の「いまここ」を祝福してゆく心の動きからこぼれ出てきた。
古代人は、人に対しても自然に対しても、人間存在の、その根源的な「疎外感」を受け入れて生きていた。だからこそ、「むすぶ」という行為がより切実に胸にしみてくるのだ。
「いまここがこの生のすべてだ」と感慨することのエクスタシー、「もう死んでもいい」というカタルシス。中西先生、あなたは古代人のそんな体験をうらやましいとは思わないのですか。古代人を、あなたと同様にスケベ根性たっぷりに生きていたことにしてしまいたいのですか。
「永遠への祈り」など、現代人の制度的な心の動きにすぎない。