やまとことばという日本語・万葉の恋「6」

そのことばの中にどんな感慨が隠されてあるのか、その感慨を共有してゆくことが古代人の「語らふ」という行為だった。
「ことだまの咲きあふ国」とは、そういうことだ。ことばの表面にある「意味」を共有するのではない。その「意味」の裂け目の奥に隠されてある「感慨」を共有してゆくことが「ことだまの咲きあふ国」の住民にとっての「語らふ」という行為だった。
もともと「ことば」は、そのようにして生まれてきた。「意味」を共有する行為としてではない。
古代のことばは、「暗喩」に満ちている。
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たとえば「黒い」というとき、「黒い」という「意味」を共有するために発せられたのではない。「くろい」という音声を発する「感慨」がある。その感慨が共有されていったのだ。
古代においては、語らいの場において、「黒い」という「意味」よりも、「くろい」という音声がこぼれ出る「感慨」のほうが大事なときがあった。万葉の歌人たちが「まくらことば」をあんなにも多用したのは、それが「意味」の奥に隠されている「感慨」を表現することばであるという合意があったからだ。
たとえば「ぬばたま」といえば「黒髪」とか「夜」にかかるまくらことばであるが、それが、黒い実をつける「ヒオウギ」という植物のことであるというのでは、まだ解釈が足りない。
そういう表面的な意味の奥に、「ぬばたま」という音声を発する「感慨」がある。その「感慨」を表現するというか、隠し持っているのが「まくらことば」の姿であり、存在理由なのだ。
「ぬば=ぬは」。
「ぬ」は、「わからない」こと。「あらぬ」の「ぬ」は、「否定」の語義。「塗(ぬ)る」は、もとの表面をわからなくしてしまうこと。「抜(ぬ)く」もまた、それによってそこにあったものをないもののしてしまうこと。「縫(ぬ)う」は、わからないものを追跡すること。「盗(ぬす)む」の「ぬ」は、悟られないこと。
「沼(ぬま)と池の違いは、河童がいるかいないかだ」というTVコマーシャルがあったが、それははんぶん当たっている。半湿地であったり水深が浅いために葦などが群生していたり、藻ががははびこっていたりして、水面がクリアでない水場を「ぬま」という。そこでは、水が隠れている。河童だって隠れている、かもしれない。
「は」は、「空間」「非存在」の語義。「はかない」とは、存在感が希薄なこと。
「ぬば=ぬは」とは、「わけのわからない闇」のこと。
フランス語で、黒のことを「ノアール」という。やまとことばの「ぬは」と、語感が似ている。フランス映画の「フィルム・ノアール」は、「暗黒(やくざ・犯罪)映画」と訳されている。フランス人にも「黒い」ということばには、「わけがわからない」という感慨がともなっているらしい。
ノアの箱舟」の「ノア」も、「混沌」とか「絶望」というような意味だったにちがいない。
「たま」は、「玉=珠」であると同時に「魂」でもある。
「ぬばたま」ということばには、「黒い玉」という「意味」の奥に、「わけがわからない」という絶望やら途方に暮れたようなやりきれなさやら狂おしい恋心などが隠されている。
そしてそれらの感慨は、隠されることによって、より深く聞くものに迫ってくる。「まくらことば」は、古代人の心の動きを隠している暗喩である。
そしてそれが共有されていたということは、古代の人と人の関係が近いものだった、ということではない。離れていたからこそ、共有してゆくことで関係をつくっていたのだ。
離れていたからこそ、「逢いたい」という願いを募らせる恋が生まれてきた。
人と人の関係も人と自然の関係も「疎外感」という嘆きとともにあったからこそ、深い「暗喩」が共有されるほどことばはことばとして自立し、せつない恋心が生まれてきたのだ。
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居明かして君をば待たむ ぬばたまのわが黒髪に霜は降るとも(万葉集・巻2、89)
訳「ずっと寝ないであなたを待っていることにしましょう、ぬばたまのわたしの黒髪が朝になって白くなってしまっていても」
で、現代万葉学の権威である中西進氏は、「ぬばたま」を次のように解説してくれる。
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古代人にとっては「黒」という抽象概念、色名としての「黒」は、きわめて未熟なものであった。むしろ具体的なものがあって、そのあとに色が自立してくるというのがふつうであろう。……だから、黒を抽出させて、これをもってヒオウギと黒髪とを媒介させることはできないのである。そうなるともう、ヒオウギと黒髪とを直接むすびつけるしかあるまい。現代人には唐突でもヒオウギ=黒髪なのである。……こうした連合表現を一例としても、自然物と人間とが生命の交換の中にいきていたことがしられるであろう。
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べつに「ぬばたまの黒髪」といっても、「唐突」でもなんでもないでしょう。古代人を甘く見ているからそういうこじつけめいた言い方をしてしまうのだ。
俊足のイチローのことを、「スーパーカーイチロー」といっても、ぜんぜんオーケーでしょう。
こういう「連合表現」をもって「まくらことば」の機能を語り、それを称賛しているつもりなのだから、笑ってしまいます。
中西先生、「まくらことば」は、あなたが考えているよりももっと高度で深く豊かな表現技法なのですよ。
「古代人にとっては黒という抽象概念、色名としての黒は、きわめて未熟なものであった」というが、ちゃんと「黒髪」といっているのだから、黒の何たるかなど、古代人だってわかっていたはずです。
つまりちゃんと「黒髪」といっているのだから、ここで「ぬばたま」ということばに託して表現したいことは黒という色のことではない、ということです。
「ぬばたまの黒髪」ということでやっと「黒という抽象概念や色名」を納得するだなんて、人を甘く見るのもいいかげんにしろ、という話です。
「黒という抽象概念や色名」を納得していない人間が、「黒髪」といいますか。まったく、あほじゃないかと思う。
そのとき古代人は、「ぬばたま」ということばの意味ではなく、意味の奥にある「ぬばたま」という音声にこめられた感慨を、隠しつつ表現している。
その感慨をきわだたせるためには、隠すべきであり、隠されても、すでに誰の胸の奥にも共有されている感慨だったのだ。
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「ぬばたま=ヒオウギ」というその植物は、てっぺんに黒い玉をつける。それによって「ぬばたま」と名づけられた。その黒い玉は、その植物の「存在証明」である。
同様に女もまた、てっぺんがまるくなっているその黒髪こそ存在証明だった。
「ぬばたまの黒髪」というときの「ぬばたま」は、「存在証明=命」の暗喩になっている。
そして、その「存在証明=女の命」の黒髪が白くなるのもいとわないという恋心。
そんな絶望と背中合わせでひたすら「あなたに逢いたい」と願う狂おしい恋心は、まさに「ぬばたま」の恋心であり、「ぬばたま」はそんな狂おしさの暗喩でもある。
「ぬばたまの黒髪」といっても、いろんなニュアンスがあるでしょう。しかしこの歌の作者は、そんなくるおしさという「ことだま」をこの言葉に吹き込んでみせた。
この歌は、仁徳天皇の后である磐姫(いわのひめ)がつくったことになっている。ほんとうかどうかはわからないが、岩のように強く激しい気性の女性であったという伝説そのままの姿が表現されている。
ここでの「ぬばたま」は、ただの「黒髪」を補足説明しているだけのことばではない。そういう女性がつくった歌だとことわっているからには、何か鬼気迫る女の一念が隠されうたわれているはずだ。
それにしても古代人は、ひたすら「あなたに逢いたい」という願いばかりうたっていた。
この世界にひとりぼっちで置き去りにされているような心細さ(疎外感)を噛みしめることができる人間でなければ、せつなく胸を焦がす恋はできない。
そういう心細さ(疎外感)こそ、古代人の存在のかたちであったのであって、のどかに「自然物と人間とが生命の交換の中に生きていた」わけではない。
古代人がどれほど「ことば」を自立的に扱い、どれほど自然=世界に対する疎外感の中で生きていたか、中西先生、あなたにはわかるまい。「ぬばたま」とは、そんな古代人が共有していた心の闇から浮かび上がってきたことばなのだ。