やまとことばという日本語・「ときめく」ということ

「あきらめる」のほんらいの語義は、「明らめる」、すなわち「納得する」ことにあるのだとか。
古代の日本列島においては、「諦める」ことは、「納得する」ことでもあった。
「あき」とは、終わりに気づくこと。「あ」は、「あ、と気づく」の「あ」。「き」は「昔、男ありき」の「き」、完了の語義。石器しか持たなかった縄文人が家の柱に使う木を「切る」ことは、どんな大仕事であったことか。そういうことを想像すれば、「切る」も「完了」の語義であることがわかる。服を「着る」ことも、外出の準備が「完了」することだろう。
「秋(あき)」は、夏の終わりの感慨が風の気配などでひとしお身にしみる季節のこと。終わりに気づくかたちで心が動いてゆくことを、「あきらめる」という。
「終わり」に気づくことが「納得する=明らめる」ことだ。だからそれは、「諦める」ことでもある。
縄文人は、水平線の向こうには何もないと「諦め」、「納得」していった。
死んだらわけのわからない黄泉(よみ)の国にいくだけだと「諦め」、「納得」していった。
あなたの心なんかわからない、と諦めたら、ただもう「逢いたい」とせつに願う。わかるのなら、そんなに切羽詰って「逢いたい」と想う必要もない。
泣いている「あなた」の悲しみがわかる人は、やさしく慰めてあげることができるだろう。しかし、わからないと諦めているものは、自分も悲しくなって泣いてみるしかない。あなたの悲しみに届くことはできないと諦めているところから、「もらい泣き」が生まれてくる。他人の心がわからない赤ん坊は、「もらい泣き」の達人だ。
やさしく慰めることともらい泣きすることとどっちがなれなれしい態度かというと、前者なのだ。日本列島の住民がすぐもらい泣きするから、人と人の関係がなれなれしい民族だと決め付けるのは早計です。日本列島の住民こそ、人に対する「疎外感」を深く抱いているのです。だから、「諦める」ことは「納得する=明らめる」ことだという。
つまり古代人は、人の気持ちがわかることによって人と人の関係をつくっていたのではなく、人に「ときめく」ことによってつくっていた、ということです。
「あきらめる」とは、「ときめく」こと。そして「ときめく」ことは、「あなた」の心がまだわからない「出会い」の場においてしか生まれない。
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人はほんらい、人と「仲良くしたい」と願っているのではなく、人に「ときめきたい」と願っているのだ。
万葉の恋は、そういうことを教えてくれる。
だから古代人は、男と女が「一緒に暮らす」のではなく、男と女が「出会う」社会をつくっていた。その「出会いのときめき」こそ、「通い婚」や「つまどい」という習俗のコンセプトだった。
しかしそのあと共同体の発展とともに、男と女が一緒に暮らして「仲良く」してゆくことを目指す一夫一婦制の社会に変わっていった。
万葉集は、その端境期の時代に生まれ、まだまだ人は、「出会いのときめき」を願う心で暮らしていた。
日本列島では、そうした安定した家族制度の定着が、大陸よりも五千年くらい遅れた。いいかえれば、その5千年のあいだ、なおも不安定な関係の中での「出会いのときめき」を大切にする社会を守っていた、ということです。
本格的な一夫一婦制の家族形態になってきたのは、万葉の時代よりずっとあとのここ千年くらいのことです。
したがって日本列島には、「出会いのときめき」を願う心の動きが、今なお歴史の水脈として人びとの胸の奥に流れている。
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現代のこの社会は人と人が仲良くすることによって動いており、仲良くする能力を持っていればうまく生きてゆけるようにできているが、仲良くするほど関係が接近してしまえばもう、「ときめく」という心の動きは起きてこない。
仲の良い夫婦や恋人どうしがときめきあっているかといえば、あんがいそうでもなく、セックスレスの関係になってしまっていることのほうが多い。
人と仲良くする能力のある人がいつも人にときめいているかといえば、そういうものじゃない。その能力は、「出会い」という体験にともなうおそれや不安や戸惑いを省略して、すぐにいつも一緒にいるような仲になってしまうことができる。しかしそれは、人にときめいていないのと同義なのだ。
「出会いのときめき」といっても、知らないものどうしが出会っている場においては、おそれやおどろきや不安や戸惑いも起きてくる。そういう心の動きも含めて「出会いのときめき」という。人に対してそういう心の動きをもっている人こそ、「ときめく」ことのできる人だ。
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そういう心の動きを体験する感受性が欠落しているから、あなたはすぐに人と仲良くできるのですよ。
内田樹という人は、人と仲良くできる能力こそ人間の本来的な資質のようにいうが、人に対する感受性が欠落した単細胞が、何をレベルの低いことをほざいていやがる。
それは、たしかにこの社会を生き延びる上での有効な資質ではあるが、人に「ときめく」ということをすでに失ってしまっている資質でもあるのだ。
人と仲良くすることのできる能力とは、いつも人と接近した関係の中に身を置いていないと不安で、「見知らぬものどうしが出会う」という場に立つことができないという強迫観念でもある。そういう人は、立場によってはみんなが自分のことを好いているとうぬぼれることもできるが、別のネガティブな立場に置かれたら、みんなが自分のことをバカにしているのではないかというよけいな苦悩にさいなまれることにもなる。
内田さん、あなたには、人に対して「出会いのときめき」というタッチが欠落している。だから、女房子供に逃げられるのだ。
一緒に暮らす関係において必要なのは、「仲良くする能力」ではないのですよ。一緒に暮らす関係においては仲良くすることなんかあたりまえの前提なのだから、いまさらそんな能力を必要とすることもない。必要なのは、関係のよどみを揺らす「出会いのときめき」のタッチなのだ。「仲良くする能力」にしがみついているあなたのような人間と一緒に暮らしていると、関係は、接近しすぎたままどんどんよどんでゆく。
あなたが仲良くする能力に長けていることは、それじたい人間としての基礎的な感受性が欠落しているということなのですよ。
あなたには、人に「ときめく」という資質がない。だから女房子供に……。
それに対して、人に対するおそれやおどろきや不安や戸惑いをいっぱいに抱えて稚拙な人間関係を生きている人は、同時に「ときめく」という体験も持っている。
そういう人は、インポにも不感症にもならない。セックスのカタルシスは、そういう「ときめき」を水源としている。
この国のAVが外国のそれに比べてエロチックなレベルが高いといわれているのは、歴史の水脈として人に「ときめく」というタッチを持っているということなのですよ。その水脈によって、女優の表情からしてすでにちがうものになっているということ、内田さん、あなた知らないでしょう。