祝福論(やまとことばの語源)・闇ゐねぶるやわいはらわた

タイトルを変えます。
内容は同じです。
ほんとは、最初からこのタイトルにしたかったのだけれど、なんとなく照れくさかったのです。
それに、このタイトルを使ってしまったら、自分の書くことはこれで終わりになってしまうかもしれない、というような心配もありました。
僕にとっては、ある意味で最終的なことばです。
なんだか遺言を書いている気分です。
まあ、誰だって毎日が臨終の床のようなものだから、このタイトルを使いたければいま使うべきだ、と思えてきた次第です。
そこで、マムシのように執念深い「あの人」にちょっといっておきたいことがあります。
あなたと僕の違いは、自分を祝福するか他者を祝福するかにある。僕がこの国のオピニオンリーダーを批判するのは、その愚劣な言説からこぼれ出てしまうほかない他者を祝福したいからであって、あなたのように自分を祝福するためではない。僕には、祝福するべき自分なんか持ち合わせていないし、自分を祝福するべき事情もない。あなたの言説を批判することなんかわけないことだけど、それはしない。それをしたらあなたと同じ人種になってしまう。いざとなったらするかもしれないけど、いまのところ、もとよりあなたはただの嫌われ者であってオピニオンリーダーでもなんでもないわけで。
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で、「祝福論」の出発が「はらわた」というのもなんだか場違いのような感じだけれど、はらわたで祝福します、ということで。
「闇ゐねぶるやわいはらわた」
ということばをどこかで読んだことがあるけど、美しい表現だと思う。
女のからだの中にはそんなものが詰まっているらしい。
女が心象風景としてどんなものを見ているのか、われわれ男にはわからない。死ぬまでわからない。死んでもわからない。それくらいわからない。
もやもやしてわけのわからないもの……。
「はらわた」とは、内臓のこと。
僕の親たちは、ただ「わた」といっていた。
たとえば「魚のわた」とか。
父親は、この世に魚のわたの塩辛ほどうまいものはない、といっていた。
それがなぜかはめんどくさいからあえていわないけど、どんな高級な料理も心に響かなけばうまいものにはならない、ということです。
人は自分の中に「闇ゐねぶるやわいはらわた」を持っているから、「あなた」に恋し、「世界」を祝福せずにいられなくなる。
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やまとことばにおいては、「わ」は「は」でもある。「わたしは……」の「は」。
「わ=は」は、「非存在」「空間」の語義。どちらかというと、「わ」が「非存在」で、「は」が「空間」、ということだろうか。
日本列島の住民にとっての「我・吾(わ)」は、「非存在」と感じられるくらいあやふやな対象だったらしい。とくにことばを発することは、感慨が口からこぼれ出てからだの中が空っぽになるような体験だから、自分を表現することばはもう「非存在」である「わ」というしかなかった。
「た」は「立つ」の「た」。「立つ」は、「立ち上がる」ことだけでなく「かたちになる」こともいう。「満足」「充足」の感慨からこぼれ出る音声。「足(た)る」は「満足」の語義。「たたく」は、「(満足して)手をたたく」からきているのだろう。「縦(たて)」は、「立つ」姿勢。「たたむ」は、安定した「かたちになる」こと。「自分をたのむ」というときの「たのむ(た・のむ)」は、満足を飲み込んだ状態。
「わた」とは、「かたちになっているやわらかいもの」のこと。水も同じようにやわらかいが、かたちがない。
やわらかいものは、存在と非存在の中間のものです。だからやわらかい「はらわた」は、何もない「非存在」の「空間」にかたちが与えられたもの、ということになる。
「わたつみ」とは「海の神」のこと、すなわち「神というかたちを得た海の水」、あるいは「海の水のかたちである神」。
女のはらわたは、女の心象風景のかたちである。すなわち「闇ゐねぶるやわいはらわた」。
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女は、心の中に闇を持っている。
男は、心の中が空っぽである。
だから男は、心の中が空っぽになる「ダイナミズム=カタルシス」を体験できないし、だからこそ心の中が闇にひたされもする。
たぶん、そんなかたちで男と女が違う人種としてわかれ、同じになってしまったりしているのだろうと思う。
つまり男にとって心の中が空っぽになったり闇にひたされたりすることは小さなバイブレーションのようなものだが、女はその振幅がもっと大きくて深くゆるやかであるらしい。
まあ世の中には、闇を抱えていることを自覚できない女も、内田樹氏や「あの人」のように空っぽになることのできない男もたくさんいるのであるが。
いずれにせよ、人の体の中には、暗くてわけのわからないもやもやしたものがうごめいている。
そういうつきまとう「もの」を感じる体験として、「もの」という言葉が生まれてきた。そしてそういう「もの」がことば=音声として体からこぼれ出る体験から、「こと」ということばが生まれてきた。
目をつぶれば、「身体」を感じる。
目を開ければ、「世界」が見える。
世界を感じれば、身体のことを忘れていられる。
目をつぶっていても目の中に何かが見えるのは、「世界」を感じて身体のことを忘れていたいからだ。
人は、心にまとわりつく「身体」から逃れようとする。
「闇ゐねぶるやわいはらわた」は、世界の輝きを夢見ている。