内田樹という迷惑・文学の起源

中沢新一氏は、日本列島の文学の起源は、旅芸人の語る「なぞなぞ」の話にある、というようなことを言っています。
くだらないと思う。学者という人種は、どうしてこんなのうてんきでていどの低い発想しかできないのだろう。
ギリシア悲劇に、スフィンクスのなぞなぞ、という話がある。そのなぞなぞが解けないと、旅人はスフィンクスに食べられてしまう、という話です。そんなようなところから発想したのだろうか。だから、「なぞなぞ」は普遍的な文学の起源である、と言いたいのだろうか。
子供は、「なぞなぞ」が好きだ。古代人の脳みそも子供レベルなのだから、きっとそうだろう、と言いたいのだろうか。
まったく、アイヌの熊祭りは「自然の恵みをいただく」というつつしみぶかい心からなされているとか、中沢氏の思考はいつだって薄っぺらだ。
彼は、自分を捨てて古代人の心に推参する、ということができていない。ある人はそれを、「祭りあう」態度である、と言った。それができないやつには、たとえ東大出のおえらい学者であろうと、古代人の心と出会うことはできない。
文学の起源は、「神」の発見にある。そんなこと、あたりまえだろうが。
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神と出会う体験とは、つまるところ言葉と出会う体験であるのかもしれない。
感動して、いきいきとした言葉がこぼれ出る。そういう体験だろうか。
言葉のはたらきは、ふだんの暮らしの中でしだいに停滞してゆき、たんなる伝達のための道具でしかなくなってくる。しかし、そこから逸脱して非日常的なめまいのような体験をしたとき、言葉が新しい命を吹き込まれてよみがえる。
「あなた」と出会うことでもいい、空を眺めることでもいい、新しい感慨があれば、言葉はよみがえる。歌が生まれる。神と出会う体験とは、まあそんなようなことではないだろうか。
おそらく、人類の文学は、「歌」から始まった。それは、神と出会う体験でもあった。
西洋の文学(=神との出会い)が「スフィンクスのなぞなぞ」から始まったのだとは、われわれは思わない。それは、そのとき西洋の言葉が、すでに、生き延びるための他者を説得する道具になってしまっていたことを意味しているだけのこと。たぶん、それ以前に「神と出会う」体験の文学があったのだ。
2万年前の、ヨーロッパ・クロマニヨンによる、頭がライオンで体が人間であるという半人半獣の彫刻は、彼らがそういうかたちで「神」を発見したことを物語っている。それは、文学の誕生なのだ。そうやってその像を拝みながら、歌とともになんらかの物語が語られていたに違いない。
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縄文時代から「歌垣」の風習があったといわれている。
日本列島の住民は、言葉を詠(うた)い上げることの好きな民族であったらしい。
神に捧げる「祝詞(のりと)」も、和歌も、詠い上げることがそのまま「詠む=読む」ことだった。
「つまどい」の風習も縄文時代からのもので、それは、顔が見えないまま男女が戸をはさんで歌を交換することからはじまる。
それは、「説得する」とか「口説く」という行為とは違う。言葉を表現して相手の前に差し出し、自分は言葉の後ろにそっと隠れている。しかし隠れていることによって、たがいに相手をより強く深く意識してゆく。見えない対象の「気配」ほど、より強く深く意識されるものはない。彼らは、そうやって「神」を意識していたし、それがそのまま恋の流儀でもあった。
「うたう」とは、言葉を表現して言葉のうしろにそっと隠れる行為なのだ。
文学もまた、言葉を表現して言葉のうしろにそっと隠れる行為である。
作品の中に作者は存在しない。これは、現代批評の常識である。しかし、存在しないからこそ、読者はより深く作者を意識してしまう。
作者は「存在しない」のでも「死んだ」のでもない、作品の向こうがわに隠れているのだ。
そういう現代批評の常識というか発見を、すでに縄文人は気づいていたのであり、そういう認識の上に「詠(うた)う」という文学行為を生み出していった。
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「うた」の「う」は、「うっ」と息がつまる発声。「停止」の語意。
「倦(う)む」「憂(う)し」は、停止=停滞のさまを表している。
「産(う)む」という行為は、それによってひとつの場所にとどまることを余儀なくされると同時に、そのひとつの場所を得る行為でもある。女は、子を産むことによってとどまることを余儀なくさせられると同時に、みずからの場所とアイデンティティを獲得する。そうやってその行為は、大地を祝福し、大地から祝福される。「産(う)む」という言葉は、女のそういう実感を表している。
やまとことばは、現象の表面的なさまを説明し伝達しようとする言葉ではない。そこに隠されている本質を表現しようとしている。
「た」は、「立つ」の「た」。立つことは、これから歩き出そうとしている姿勢である。つまり「た」という音韻は、そうやって心が外に向かって開かれている状態であることを意味している。だから「たのむ」とか「たすける」という。
「うた」とは、立ち止まること。立ち止まって言葉の陰に身をひそめつつ、心を外に向かって開いてゆく行為。おそらく、「つまどい」のときに戸の前に立って歌うことからきているのだろう。であればもう、「うた」としかいいようがない。
「うた」というやまとことばは、行為を説明していない。行為の本質を表現している。
熊は、毛むくらじゃの動物である。西洋では体毛のことを「ヘア」といい、熊のことを「ベア」という。ちゃんと熊の姿かたちを説明し伝達するための言葉になっている。
しかしやまとことばの「くま」とは、「怖い」という意味である。熊の姿かたちなど説明していない。熊の本質、あるいは熊と出会ったときの感慨を表現しているだけだ。
西洋の文学や哲学の起源は「対話(ダイアローグ)」にある、と多くの識者たちがいっている。それは、言葉がすでに、説明し伝達するという「労働」の道具になってしまっているからだ。
しかしやまとことばは、「説明・伝達」の機能を振り捨てて、ひたすら本質を「表現する」という場に立とうとしている。それは、「うたう」という「遊び」とともに育ってきた言葉だからだ。
「うた」は、「あなた」と「大地」を祝福する。それが「うた」の本質であり、だから「うた」という。声を張り上げるとか、そんな行為のさまを説明・伝達しているのではない。
古代人にとって「うたう」ことは、「神」と出会い「あなた」と出会う行為だった。
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「うたう」という行為は、腹式呼吸の上に成り立っている。
日本列島の古代人はたぶん、呼吸は腹でするものだと思っていた。
「はら」とは、空っぽのところ、という意味。だから、家も畑もない場所を「原(はら)」という。
体のなかの空気が詰まっている空っぽの場所だから、「はら」という。
胃なんか、食い物が通り抜けてゆくところだから、ふだんは空っぽなのだ。すくなくとも古代人は、そう思っていた。
彼らは、「呼吸=生きること」は腹でするものだと思っていた。
やまとことばの「ハート」は、心臓ではない。「腹(はら)」である。
「腹がきれいだ」とか「腹黒い」とか、「腹に一物」とか「腹の底から笑う」とか「腹を決める」とか「腹に据えかねる」とか、彼らは「腹(はら)」で生きていた。
西洋人は、腕力で荷物を持つ。しかし日本列島の住民は、腹に力を入れて持ち上げる。だから、「思(おも)い」と「重(おも)い」が同じ音韻になった。腹に力が入ること、すなわち腹に意識が集中することを、「おも」という。
「うたう」ことで文学を出発させた民族は、「腹(はら)」で生きていた。
腹は、空っぽの、空気がつまっているところだと思っていた。
「穢れを祓(はら)う」という。それは、腹の中を空っぽにしてきれいにする、ということだ。空っぽにすることを、「はらう」という。財布の中を空っぽにするのが、金を「払(はら)う」という行為だ。
日本列島の住民には、生きることは空っぽになることだ、という意識がある。それが、「うたう」ことで文学を出発させた民族の生命観である。
「うたう」ことで言葉の影に隠れて消えていってしまうことのカタルシス、それが、縄文人の「つまどい」であれ万葉の「歌詠み」であれ、古代人の文学行為だった。
自分が消えてゆくとき、すなわち体のなかが空っぽになってゆくとき、より確かに「神と出会っている」と感じられる。それが、言葉の影に隠れて消えていってしまうことのカタルシスを知っている民族の「神と出会う」という体験だった。
体の中を空っぽにしたければ、泣くのがいちばんだ。泣きながら歌えば、「私」は言葉の陰に隠れて消えてゆく。
「なげく」とは、「泣く」ことだ。「長く息をする」ことではない。大きなため息をついてぶつぶつひとり言を呟いていたら、鬱病になっちまう。
「泣く」ことは「うたう」ことであり、「うたう」ことは「なげく」ことだ。
「うたう」ことは、言葉の陰に隠れて「あなた」や「神」や「世界」のことをせつなく思うことだ。
紀貫之は、女のふりをして「土佐日記」を書いた。歌舞伎も、男が女のふりをして歌い踊る。そして現代の宝塚歌劇では、女が男のふりをして歌い踊っている。それらは、言葉の陰に隠れて自分を消してしまう、というこの国の「うた」の伝統であろう。
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「歌う」ことは、自分の体が空っぽになってしまう行為である。
身体とは、息をするための空っぽの輪郭である。息をすることが「生きる」という行為だ。飯を食うという「労働」なんか、ついでにしているだけの行為にすぎない。
やまとことばで呼吸のことを「いき」というのは、深い意味がある。深い感慨がある。息をすることは心が生まれてくることであり、言葉が生まれてくることだ、という感慨がある。そういう「遊び」のことは、「人間の本性は労働することにある」などとほざいている鈍感で傲慢な朴念仁にはわかるまい。