内田樹という迷惑・自己意識と自他意識

「人間とは自己意識である」と内田氏はいう。
つまり、自分とは何かということをああだこうだとまさぐるのが人間の本性である、そうやってわれわれは自分にこだわりながら生きている、と言いたいらしい。
こんなもの、たんなる内田氏個人の観念的な傾向であって、べつに人間の心の動きの普遍的なかたちだとは思わない。
内田氏個人の、というより、西洋の近代合理主義はそういう人間認識の上に成り立っている、ということでしょうか。内田氏のように、本の受け売りするしか能がなくて、自分の頭で懸命に考えるという思考力も想像力もない人間は、おおむねこういう結論に他愛なく落ちてゆく。
そうして、自分をまさぐってばかりいる自意識過剰な人間である彼としては、何がなんでもそういうことにしたいのでしょう。そういう強迫観念を、人間の本性であると自己正当化してきていやがる。
しかしねえ、こんなことを安直に差し出してくるあほな知識人がいるから、「自分さがし」の迷路で立ち往生してしまう若者があとを絶たないのでしょう。近代合理主義の病理である、といえば、まあそういうことなのだろうと思うのだけれど。
内田氏にとっての思考とは、本の中で拾った言葉を自分の都合のいいように並べ替えるだけのことで、身を揉んで根源まで問うてゆくというような態度も能力もない。
まったく、このところのブログの記事にしても、薄っぺらなことばかりほざいていやがる。
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人間にとって「自分」とは、どのような対象だろうか。
このことを考えるならいろんなアプローチの仕方があるのだろうが、ひとまず僕自身のやり方で掘り進んでみたいと思います。
誰がどう言っているとか、他人が書いた本なんか当てにしない。
何はともあれ僕の思考の原点は、人間は直立二足歩行する生きものである、ということです。
直立二足歩行は、身体のことを忘れて歩いてゆける姿勢です。ほんの少し体重を前に傾けるだけで、自然に足が前に出ていってくれる。歩きながらわれわれは、いつの間にか足を動かそうとする意識など消えてしまっている。そうして意識は、外の景色の方にばかり向いている。
直立二足歩行をはじめたことによって人類は、意識が身体(=自分)から離れて対象世界にばかり向いているという状態を持った。
四足歩行では、こうはいかない。体重を前にかけていったら、つんのめってしまう。
体をたてにしたまま、意識的に前足を前に出すということをしていかなければならない。だから、歩いているときは、つねに意識が体に向いている。だから動物は、すぐ疲れたり飽きたりして歩くのをやめてしまう。だが人間は、ときに足が棒のようになっているのさえほったらかしにして歩きつづけることができる。
その代わり走るときには、早く走ろうとすればするほど体を意識的にコントロールしてゆかなければならない。だから、全力疾走しているときに、まわりの景色を眺めて楽しむ余裕などない。
いっぽう四足歩行は、走るときこそ体が自動的に動いている。走ることに関しては、四足歩行の方がずっと効率的で早く走れる。
直立二足歩行は、あくまで歩く姿勢なのだ。したがって、原初において、外敵から逃げる必要のある環境であったのなら、直立二足歩行は実現しなかったはずである。
人類の直立二足歩行は、サバンナに出てきて実現したのではない。楽園のようなのどかな森の中で始まったのだ。そのとき人類にとって最大で唯一の敵は、群れが密集しすぎている、ということだけだった。
人間は、二本の足で立って歩く生きものである。
二本の足で立って歩けば、視界は広がり、みずから身体のことは忘れている。
そのとき身体は、すでに「物性」は消えてなくなり、空っぽの無色透明な輪郭として自覚されている。
つまり、これが、人間の自己意識の原型です。自己意識などないのが自己意識です。
意識はあくまで対象世界に向かって開かれている。
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街を歩いていて、誰かとすれ違う。
そのとき自分の身体は空っぽの無色透明な輪郭と自覚されているのに対して、その相手は、色もかたちもある姿として目に飛び込んでくる。
自分と誰か、意識のはたらきにおける自己と他者の現れ方の落差、この世界における自己と他者の存在の仕方の落差。対象世界は、そのようなかたちで意識の前に現れる。
自己意識、というより、自他意識。そういうかたちが意識が発生し、人間性の基礎をかたちづくっている。
人間とは、自他意識なのだ。
空っぽの無色透明な輪郭である自分に対して、他者は、色もかたちもある姿として現れる。
対象世界は、存在することそれじたいが不思議なのだ。それは、人間の意識が、自己を「非存在」として認識しているからにほかならない。
直立二足歩行する生き物である人間は、自己をそのように認識し、それゆえ対象世界の存在感に驚きときめいてしまう。
これがたぶん、「かみ」という概念が生まれてくる根源的な契機であろうと思えます。
人間は弱く不完全な生き物である、だから強く完全な存在のあこがれるとか、神の発生の契機をよくそのように説明されるが、たぶんそんなことじゃない。弱かろうと強かろうと、そんなことはどうでもいいのです。強ければえらいというものでもない。
強くて完全であることがえらいと、いったい誰が決めたのだ。それは、西洋の歴史が勝手に決めただけのことじゃないか。人間がそんなものに憧れると決まっているわけじゃない。
この国においては、強くて完全なものが「神」であるのではない。
ただもう、対象世界の、「自分ではない」ということそれじたいが「神」であることの証しなのだ。だから「いわしの頭も信心から」というのだし、「やおよろずの神」ともいう。
原初の人類は、強いと弱いとか、完全と不完全とか、そういう対照として「神」を意識したのではない。
「存在」と「非存在」、「存在と無」、この対比において「神」が意識されたのだ。
自分の体が消えてしまう、という認識。直立二足歩行は、そういう体験を人類にもたらした。歩いていると自分の体が消えてしまう、という体験。
腹が減ったとか痛いとか苦しいとか暑いとか寒いとか、さらには人と体がぶつかって鬱陶しいとか、それらは、身体が「存在」として意識される体験です。とすれば、それらの不快感が解消される体験とは、身体が消えてゆく体験であるはずです。
原初の人類は、密集しすぎた群れの中で、体がぶつかり合うなどして、自他の体の物性を意識させられるという体験をいやというほど味わった。だからこそ、そこから二本の足で立って歩いてゆくときの、体のことなんかさっぱりと忘れている爽快感(カタルシス)がうまれてきた。
このカタルシスを深く体験してしまうことがたぶん、人間性の基礎なのだ。
われわれの意識は、消えてしまおうとする衝動を持っている。
意識はまず不快感(嘆き)として発生するがゆえに、その反作用として消えてしまおうとする。
あなたは、空腹の鬱陶しさをまさぐりつづけていたいですか。
自分をまさぐりつづける自己意識など、ただの病気です。
不快を感じれば、意識は、消えてしまおうとする。二本の足で立ち上がったことも、消えてしまおうとする衝動による。
密集した群れの中にいて鬱陶しさを感じたとしても、逃げてゆくスペースがない。逃げようとすることは、消えてしまおうとする衝動です。だからそのとき人類は、上の方に向かって逃げた。それが、二本の足で立ち上がるという行為です。
原初の人類は、消えてしまおうとする衝動によって、二本の足で立ち上がった。
そうして歩き出すことによって、ほんとうに身体が消えてゆく体験をした。
人類は、ほかの動物よりも、よりヴィヴィッドでダイナミックなみずからの身体の消失感覚を持っている。その消失感覚の上に、対象世界が現れる。
そうやって驚きときめくのが人間です。
自分の身体をたんなる無色透明な輪郭として歩いているとき、その対象世界は、色やかたちを持って現れる。
だったら、そこにはいったい何がつまっているのだろうと思う。
しかし、つまっているものなんか見えない。人間の体に骨や肉や内臓が詰まっていると思うのは、現代人の感覚です。古代人にとっては、見えないものは、あくまで「ない=わからない」のです。「ない=わからない」けど、しかしたしかに何かがつまっている。
それは、「物」ではない。「物」なんか、見えないのだから想像できない。
鳥を見れば、空を飛べることの不思議に驚かされる。だったら、空を飛ぶということの「本質=神」がつまっているに違いない、と思う。
虫を見れば、あんな小さいものが動いていることの不思議に驚く。そうして、それを動かしている「本質=神」がつまっているに違いない、と思う。
古代人は、つねに、そこに「本質=神」がつまっていることを見ようとしていた。
それは、「気配」のようなものです。気配として、何かがつまっている、と思った。
すべての存在は、「気配」を持っている。その「気配」のことを、「かみ」と呼んだ。
他者の身体に、骨や肉や内臓がつまっているのは、確かなことでしょうか。見えないのだもの、本当にそうかどうかはわからない。それは、切り刻んでみてはじめてわかることだ。
それよりも「気配」は、そこに確かにあるものだ。たしかに感じているものであるし、見えているものだ。
「あなた」が存在していることの「気配」、われわれはそれを感じて、見て、ときめいている。
対象世界が持っている色やかたち、それじたいが、「本質=神」の気配なのだ。
人間がただの「自己意識」だけの存在なら、「神」という概念はけっして生まれてこなかった。
自分が消えてしまっている存在だから、対象世界の色やかたちに驚きときめき、「神」という概念が生まれてきたのだ。
対象世界は、色やかたちを持って存在しているということそれじたいが不思議なのだ。
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「酒(さけ)」というやまとことばは、気分(人格)が裂ける、という意味です。
「さ」は、「裂(さ)く」の「さ」。「け」は「気分(人格)」の「け」。
「植物の実を発酵させてつくった飲み物」という酒の「物性」なんか、なんにも説明していない。あくまで、酒の本質、あるいは酒を飲むことの感慨を表現している。
そのように古代人は、つねに対象世界の「本質=神」を見ていた。感慨は、そこから生まれてくる。酒の神は、気分(人格)を裂いてしまう徳を持っている。言葉が生まれるとは、神と出会うことだ。つまり、「さけ」という言葉は、酒そのものではなく、酒の神を表現をしているのだ。
対象世界に驚きときめくこと、それが、神と出会う体験だ。
人間は、自分が消えてしまう意識を持っているから、驚きときめくという感慨を抱く。
自己意識をまさぐっているだけの存在なら、驚きときめくという感慨など生まれてこない。
自分は愛に溢れた感受性豊かな人間だという自己意識によって感動するのではない。そんなうぬぼれだけでできるのなら、感動なんか誰でもいつでもできる。
その体験は、自分が消えてしまう意識の上にしかやってこない。
自己意識は、愛でも感受性でもない。たんなる、自分は愛や感受性を持っているといううぬぼれにすぎない。内田氏が備えている能力とは、ようするにそれだけのものだ。「人間とは自己意識である」という言いざまは、ようするにそういう能力しか持っていないことを告白しているだけなのだ。そうして、ようするに「労働」とは自分をまさぐる行為なのだな、ということがよくわかる。
内田氏には、「すでに愛している」という「結果」があるだけで、「愛する」という「契機」を持っていない。
「契機」としての愛や感受性は、「自己意識」ではない。自分が消えてしまったところではたらいている「自他意識」である。そして、それこそが「遊び」の本質にほかならない。「遊び」とは、「契機」を生きることだ。
神という概念が生まれてくる「契機」は、古代人だけのものではない。われわれの中にもある。「遊び」として、われわれだってそういう体験をしている。
神が存在するのかどうかということなど、よくわからない。しかし、誰もが、神という概念が生まれてくる「契機」を生きている。
神を信じることが「労働」だとすれば、「遊び」は、神という言葉が生まれてくる「契機」を生きることにほかならない。いったいどちらが人間性の基礎になっているのか。もういうまでもないことだろう。
神とともに生きる「成熟」を拒否して、神が生まれてくる「契機」を生きる。たぶん若者はそうやって生きているのだろうし、われわれ大人だって、ときにそういう生のかたちに立ち帰らなければ生きてゆけるものではない。立ち帰らなければ、誰も愛せないし、ちんちんだって勃起しない。
内田氏のように、「すでに愛している」という「結果」を生きているお方は、いまさら勃起する体験も必要ないんだってさ。
つまり、「結果」を生きるか、「契機」を生きるか。そういう問題なのでしょうかね。