祝福論(やまとことばの語原)・「もの」と「こと」18戦争の起源

人類の歴史において、いつから人殺しや戦争がはじまったのか。
人間だって生きものなのだから、はじめからそんなことをしていたわけでもあるまい。
そういう習性を持ってしまう何か具体的な契機があったにちがいない。
しかし根源的な契機とは何かといえば、やっぱり直立二足歩行からはじまっているのだろう。
四足歩行の猿が二本の足で立ち上がることは、胸・腹・性器等の急所を外にさらすことである。つまりそれは、かんたんに殺されてしまう姿勢であり、殺されても仕方ない姿勢である、ということだ。
原初の人類は、「殺されても仕方ない」という存在の仕方を共有しながら、二本の足で立ち上がっていった。
直立二足歩行は、ひとつの社会性の上に成り立っている姿勢であり、みんなでいっせいに立ち上がったのだ。外敵と戦う男たちが先に手に棒を持って立ち上がったとか、そういうことではない。それだったら、女子供が立ち上がる契機は、永久にやってこない。
「殺されても仕方がない」とは、みずからのこの生に対する悪意であり、密集状態に置かれてあることのそういううんざりする気持ちを共有しながら立ち上がっていったのだ。
その瞬間から人間は、殺されても仕方ない存在になった。そうして、死を意識する存在になった。いや、最初の段階から現代人ほどあからさまに死を意識していたはずもないが、そのときからそういう無意識を宿しながらやがて死を思う存在になることを宿命づけられていた、ということはいえるかもしれない。
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殺されても仕方ない存在だから、殺したくなるのだろう。殺される可能性は、殺してしまえる可能性でもある。
さらにいえば、人間にとって二本の足で立っていることは、すでに殺されてしまった存在になることでもある。
すでに殺されてしまった存在は、殺してしまう権利を持っている。なぜなら彼にとって殺してしまうことは、相手と同じ存在になることであり、それは「愛」だからだ。
ここでも、「キリストの受難と復活」の観念が作用している。
人は、ことばで「意味」を伝達しようとする。説得しようとする。すなわちそれ自体が、人殺しの衝動ではないだろうか。
説得するとは、他者もまた神に殺されてしまった存在にすることだ。他者を殺すことは、他者に「復活」の契機を与えることだ。
他者を殺すことは、自分が神になること、もしくは神の代理になることだ。キリストになることだ。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、ひとつの「受難」であった。
人間は、観念的には、すでに殺されてしまっている。
殺してしまうことは、他者に「復活」の契機を与えるひとつの「愛」である。
たとえば、長く介護をしている年老いた親を殺してしまうとき、天国での「復活」を願う気持ちがはたらいていたりするのかもしれない。
自殺だって、多くは「復活」に向けて決行されるのだろう。
人間はすでに殺されてしまっている存在であり、生きてあること自体がひとつの「復活」であるのかもしれない。
人を殺すことは、自分が神(もしくは神の代理)になることであり、人間が二本の足で立っていることは、そういう観念劇が生まれてくる契機をはらんでいる。
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何はともあれ、人を殺すことは、自分が神になって人を「説得する」という行為にほかならない。
説得しようとすることは、ひとつの殺意である。
死んでいない人間は、人間ではない。人間は、いったん死んでそこから「復活」してきた存在でなければならない。
死んでいない人間は許せない。
許せない人間は、まだ死んでいない人間だ。
まだ死んでいないことが、許せない……そういう殺意が、他者に向かうこともあれば、自分に向かうこともある。
人がなぜ他者を説得しようとするかといえば、まだわかっていないことは、まだ死んでいないことだからだ。
人間にとって二本の足で立ち上がることは、ひとつの「悟り」であり、「死」である。「涅槃」である。
マリファナを吸うことは、ひとつの死であり、涅槃である。それは、原初の人類が二本の足で立ち上がった体験を反芻する行為である。
涅槃とは、この生から逸脱すること。
原初の人類は、この生から逸脱する行為として、二本の足で立ち上がった。
だから人は、この生をむさぼっている人間が許せない。この生をむさぼっている自分も他人も許せなくなる。
人間は、人間がまだ生きているということが許せない。
だから、この生から逸脱してゆこうとする。
二本の足で立ち上がって、すでにこの生から逸脱してしまっている。
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「キリストの復活」は、この生からの逸脱を象徴している。「涅槃」といっても「キリストの復活」といっても同じことだ。
大陸の人々は、この生をむさぼる。だから、この生からの逸脱としての「涅槃」や「キリストの復活」という概念が必要になる。
なぜむさぼるかといえば、他者から殺されそうな事態にさらされているからだ。他者はつねに、説得する「神」として自分の前に立ち現われる。彼らは、そういうことばの世界で生きている。
レヴィナス先生が「他者は神としてたち現われる」といったって、そんないいざまがえらいともなんとも思わない。謙虚だとも思わない。それが彼らのことばの制度性であり、被害妄想的ユダヤ根性であり、そうやっておまえらはこの生をむさぼっているんだぞ、と思うばかりだ。
西洋人のユダヤ人に対する殺意は、ユダヤ人のこの生をむさぼりつくそうとする態度に向けられてある。ユダヤ人によって、みずからのこの生をむさぼりつくそうとする態度に気づかされ、ユダヤ人を殺すことによって「みそぎ」を果たそうとする。
そのとき彼らはこういっている。「おまえらは神の子ではない。なぜならまだ死んでいないからだ」と。
彼らは、他者に対してつねにそういう態度をとる。
「キリストの復活」は、彼らのこの生をむさぼりつくそうとする態度の「アリバイ=免罪符」になっている。
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人は、他人のこの生をむさぼっている態度が許せない。それは、自分がこの生をむさぼっているからであり、そのことを他人から気づかされるからだ。
人間は、人がまだ生きているということが許せない。だから、「キリストの復活」という観念劇の手続きが必要になる。それが、人殺しの免罪符になる。
西洋人は、その衝動を他者に向ける。
日本列島の住民は、その衝動を自分に向ける。それが、「けがれ」の自覚である。
けっきょく、人類の歴史においてなぜ人殺しが起きてきたかといえば、異質な他者(異民族)との出会いが契機になっているのだろう。そのとき、殺そうと思ったのではない。殺されるかもしれない、と思ったのだ。急所をさらして二本の足で立っている人間は、「殺されるかもしれない」という不安を潜在的に抱えている。その不安が、異質な他者との出会いによって、一挙に吹き上がった。
たぶん、「殺されるかもしれない」と思ったのが「契機」だったのだ。人間は、そういう思いが起きてくるような存在の仕方をしている。
人類学者は、「土地争い」とか「女の奪い合い」とかそんなところから人類の殺し合いが始まっているというようなことばかりいっているが、そんなのは全部嘘だ。
原初、土地なんか有り余っていたのだ。自分のところの女なんか、どこの集落でも、欲しけりゃくれてやる、その代わりおまえところの女をくれ、と思っていたのだ。したがって、近在の集落どうしで殺し合いがはじまることは、論理的にありえない。
ことばの通じない異民族と出会ったことがきっかけだったのだ。
人殺しの起源は、経済の問題ではなく、実存の問題なのだ。今どきの古人類学者は、そういう視線がなさ過ぎる。経済だけで人間の歴史を語るなよ。
ヨーロッパや西アジアでは九千年くらい前から戦争の歴史がはじまっているといわれているが、この日本列島では、弥生時代以降のおよそ二千年の歴史しかない。それまで、異民族との出会いがなかったから、人殺しの観念劇を持っていなかった。
それは、人間が神になってしまった瞬間なのだ。
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原初の人類の群れに、「異質な他者=異民族」との出会いなどなかった。まわり集落と女や物を交換するといういくぶんかの交流があっただけである。
ことばが違う異民族との出会いが起きてきたのは、1万3千年前に氷河期が明けてから以降のことだ。そこで、いろんな気持ちの行き違いが生じて「殺されるかもしれない」と思った。
何かを奪おうとしたのではない。「殺されるかもしれない」と思ったから殺し合いになったのだ。「殺されても仕方がない」というかたちの存在の仕方を共有できない相手だと思ったのだ。まわりの集落とは、そういう存在の仕方を共有して交流してきたのに、その相手は、そういう存在の仕方を示してこない。
彼らにとってことばがちがうことは、そういうことを意味した。どうしても、そういう存在の仕方を共有している相手だとは思えなかった。おたがい、そう思った。こいつらはこの生をむさぼっていやがる、と。
人は、この生をむさぼっている人間とは共存することができない。共存することができないと絶望したから、殺し合いになったのだ。
「おまえとは共存することができない」と思うから、人は人を殺すのだ。それは、原始人だろうと、秋葉原事件の若者だろうと同じである。あの若者は、「自分は殺されても仕方ない存在です」というメッセージを懸命に送り続けたが、ついに誰ともそれを共有できなかった。
二本の足で立っている存在である人と人は、「殺されても仕方ない」という存在の仕方を共有しながら共存している。
たがいに「殺されても仕方ない」存在にならなければ、共存できない。
僕は、内田樹先生のように、自己愛にしがみつき、人格者ぶってせっせと他人をたらしこみながら「この生をむさぼっている」人間とは共存できない。