閑話休題・耳障りな家族論

内田樹先生が、またまた「家族」について、ものすごく欺瞞的なことをおっしゃっておられた。
先生いわく、家族は人間の歴史のはじめから存在したもっとも本質的根源的な単位で、もともと誰でもいとなむことができるように「制度設計」されている、家族をいとなむことこそ人間性の基礎である、と。選ばれた人だけがちゃんといとなむことができるというのは誤った考えであり、家族の本質がわかっていないからだとか。
そうだろうか。
家族をいとなむことは、そんな簡単なことだろうか。自分だってみごとに失敗して女房に逃げられた経験があるくせに、よくもまあぬけぬけとそんなことがいえるものだ。
僕は、女房に逃げられた経験をけなしているのではない。地獄のような関係や、嘘だらけのしらけた関係で一生連れ添うのがいいことでもないだろう。気に入らないのは、気楽にやっていれば誰にでもつとまる、などという欺瞞のかたまりみたいな言い草にある。
長く家族生活をやっていれば、おまえなんか死んでしまえ、と思うこともあるし、逃げ出したいと思うことも数限りなく起きてくる。
お気楽に家族生活をいとなんでいけないものたちは、全員人間失格なのか。
女房や父親母親を殺そうとする感情にだって、人間性の本質は潜んでいる。
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百の家族があれば、百の流儀がある。おまえが勝手に決めるな。
お気楽にやっていればうまくいくなんて、そんなステレオタイプで漫画みたいなことをいうな。
家族生活なんか、人によっては、ときに生死をかけた戦場でもあるのだ。
生活保護家庭で、年老いた親の介護をして疲れ果てている当事者に対して、おまえは、家族生活なんてお気楽にやっていけるものだよ、というのか。
その当事者が、自分が死ぬか親を殺すか、という気持ちになったらいけないのか。
家族生活は、どんなに苦しくとも続けていかなければならないときもあれば、どんなに幸せで楽しくても飽き飽きしてしまうこともある。
この世の中に家族生活がしんどくてしょうがない人がたくさんいるのは、内田先生がいうように、その人たちの考えが間違っているからではなく、家族というものがもともと人間にとって本質的なものではないからだ。
本質的でないものを、みんな、懸命に支えているのだ。それは、家族をいとなんでいないと何かと生きにくくなってしまう社会構造があるからだ。
毎日ただでセックスするためには、結婚するのがいちばんだろう。
世の中も会社もうっとうしいものであるのなら、せめて家族という拠点を持ちたいとも思うだろう。
家族という拠点をつくって耐えるしかない、という立場の人々がたくさんいる。
この大きくなりすぎたわれわれの共同体は、それぞれが家族という単位を持っていてくれないと混乱して崩壊してしまう、という側面もある。
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原始時代の集落なら、家族なんかなくてもすんだ。そりゃあ母子関係は最初からあっただろうが、男なんか生涯ただの風来坊だった時代もある。そしてその母子関係だって、ネアンデルタールように、授乳期だけであとは集落全体で面倒をみて育てる、という社会もあった。そういう伝統があるから、西洋の母親は、子供が駄々をこねても知らん振りしていられるのだ。
ことに一夫一婦制の家族なんか、人類七百万年の歴史のうちの、せいぜい五千年くらいの歴史しかない。
家族を何の苦労もなくお気楽にいとなんでいけるのはごく一部の限られた人たちだけであって、われわれ凡人がそれなりにしんどい思いをさせられるのはもう避けられないことだ。
家族は、誰もがうまくやっていけるような単位ではない。なぜならそれは、人間生活に必須の本質的なものでもなんでもないからだ。
家族をいとなむことができるのが「人間性の基礎」であるのなら、じゃあ、家族にうまくフィットできない人間はみな人間失格なのか。
家族なんて、ただの制度だ。人間性の基礎でもなんでもない。
みんな四苦八苦して家族をいとなんでいるのだ。それのどこがわるい。
家族は、ことばと同じだけ歴史を持っているんだってさ。冗談じゃない。
家族なんて、つい最近生まれてきたものだ。はじめに家族があって、そのあとから共同体が生まれてきたのではない。少なくとも現在の一夫一婦制の家族は、大きくなりすぎた共同体の混乱を収拾するための装置としてそこに挿入されただけのこと。これは大事なことだ。われわれの多くは、共同体の監視や制度の呪縛から逃げ込む避難場所として家族を持っているのだ。現在の家族制度は、そのように機能しているのだ。
われわれは、本質的ではない家族を、四苦八苦して維持しているのだ。
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内田先生の家族礼賛の思考は、まったく底が浅く、ほんとにいやになってしまう。七十年代のニューファミリーブームのおちゃらけた幻想をそのままむし返しているだけだ。
そしてこのエントリーのタイトルが、「父のかなしみ」だってさ。
父親の役割は、子供に乗り越えられてやることにあるのだとか。先生は、そうやって娘に逃げられたことを自己正当化している。まるで、自分がそう仕向けたかのような言い草である。だから、自分こそもっとも理想的な父親である、といわんばかりだ。それが「父のかなしみ」なんだってさ。
内田先生がさんざんほめちぎっている小津安二郎の「晩春」という映画の、娘に慕われすぎて娘が婚期を逃しそうになる父親なんか、むしろよくない父親の見本なんだってさ。あの父親より、娘に幻滅されたあげくに逃げられてしまった内田先生のほうが、理想的なんだってさ。
何が何でも自分を正当化しようとする、そんなことばかりやっていやがる。
べつに内田先生のような父子関係もあってもいいとは思うが、それが普遍的な父子関係だということもなかろう。
世の中の多くのお父さんだって、娘からごみのように嫌われてしまっていたりする。それは、普遍的な父子関係なのか。それでOKなのか。そういう現象に対して、困ったものだと反応するマスコミの論調は、間違っているのか。先生は、間違っている、という。
そりゃあ、そういうしかないよなあ。
この先生は、自分さえ正当化できれば、他人がどんな立場になろうと知ったこっちゃないらしい。
何が「父のかなしみ」か。「父のかなしみ」というのは、そんなに程度の低いものなのか。
「晩春」の父親のように、娘に愛されることのかなしみの深さやせつなさもあるだろう。
子供をつくってしまったという親のかなしみだって、あってもいいだろう。
だいたい、子供が父親を乗り越えるとか乗り越えないとか、そういう俗っぽい発想はもううんざりだ。
子供は、父親を乗り越えないといけないのか。
「私は永久に父を乗り越えることはできません」といっている人はいくらでもいるし、そういう感慨も、それはそれで普遍的な人情でもある。いつだって、死者は、完璧なかたちをしてる。
父親に幻滅して出て行った先生の娘にしろ、父親をごみのように嫌っている世の娘たちにしろ、彼女らにとっては、父親など乗り越えるべきハードルでもなんでもないのである。
「晩春」の娘のような立場になって、はじめて父親が乗り越えるべき存在として意識される。そういう人の心のあやというものもあってもいいだろう。べつに、娘に幻滅されて逃げられたお父さんだけがかなしいんじゃないし、父親を幻滅しなければならないということもないだろう。
内田先生、あなたがいうように、娘はあなたの良さがわからなかったからあなたに幻滅したのではない。あなたがみっともない父親だったから幻滅しただけのこと。そして世の中の父親なんて、一緒に暮らす女の眼から見ればほとんどがみっともない存在なのだ。もちろん僕だって例外ではない。僕なんか、ひといちばい女房子供から幻滅されている。
「かなしみ」などということばでごまかすなよ。少しは自分のみっともなさを恥じろよ。
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まあいい、僕にとっては、どちらでもいいことだ。
僕にも息子と娘がいるけど、僕自身「父親」という意識がほとんどないから、「父のかなしみ」というやつも持ち合わせていない。
僕にとって子供なんか、友達か兄弟くらいの感覚しかない。まあ、一緒に暮らしてきた相手だから、「きょうだい」の感覚に近いのかもしれない。
悪いけど、彼らと今ここから永久に会えない関係になったとしても、しょうがないかな、と思うだけだ。目の前にいて向き合っているときだけは、僕だってそう悪いお父さんでもないが、目の前にいなければ、そのことのかなしみなんか、正直いってよくわからない。
歴史的に見て、父親という存在は、大きくなりすぎた共同体の制度を補完し、そのしんどさを和らげるために、もともとあった母子関係のところにあとから挿入されただけである。
「父のかなしみ」というなら、それがもともと普遍的な存在ではないことにある。父親なんて、歴史の途中で、一時しのぎの間に合わせとしてとりあえず挿入されただけの存在なのだ。
チンパンジーの群れのオス猿に父親という意識などまったくないし、彼らが子育てに参加することもない。チンパンジーのような猿から進化した人間の群れだって、つい数千年前までは、「父親」など存在しなかったのだ。
そして、日本列島における「父親」が挿入された家族の歴史はもっと浅く、本格的なかたちになってきたのは中世以降のことである。たかだか千年の歴史しかない。それまでは、ツマドイ婚の母系家族で、たいていの男はただの風来坊だった。
僕は原始人だから、「父親」という意識なんかない。ましてや「父のかなしみ」なんかさらさらない。
内田先生のいう「父のかなしみ」なんて、現代社会のひとつの制度的な感情にすぎない。共同体の制度にどっぷりと居座っている人間が自分を正当化して抱くナルシズムなのだ。そんなもの、普遍的な人間のかなしみでもなんでもない。何をかっこつけたことをほざいていやがる。そんな手品みたいな言い方をして自己正当化し、詐欺師みたいに他人をたらしこんで、何がうれしいのか。