祝福論(やまとことばの語源)・「ことだま」 9

「ことだま」とは、「意味」以前の心の動きのこと。出会った瞬間の無心な状態の「ときめき」のこと。古代人はそういう心の動きを誰もが持っていたし、そういう心の動きがやまとことばに「ことだま」として宿っている。
しかし現代人は、世界の「意味」に幽閉されて、そういう原初的な「ときめき」を喪失してしまっている。
この社会は、「コミュニケーション」によって成り立っている。コミュニケーションを無視して誰もが勝手なことばかりしていたら、この社会はうまく機能しなくなってしまう。
その代わりコミュニケーションをうまくすれば、「幸せ」が得られるようにもできている。
コミュニケーションとは、「意味」をやり取りすること。いちいち「ことだま」に驚いたりときめいたりしていたら、話ははずまない。
「話はもういいからエッチしようよ」ということになる。
そして、そんなことばかりしていると世の中から置いてきぼりになってしまうぞ、とあの内田樹先生が警告している。コミュニケーションを大切にしなさい、と。
そんなこといわれてもねえ、大人なんか醜いばかりだし、「意味」にこだわって社会を眺めてみれば、やっぱりそうとう汚らしくグロテスクだ。
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もううんざりなんだよ……。
「気にするな」といわれても、気にしないでいられるほど鈍感でもない。
あんな教師、あんな上司、あんな男、あんな女、顔を見るだけで気色わるくて、むかむかする。
またへまをしてしまった。なさけない。そういう自分もわずらわしい。
気になることばかりで、もう、よけいなことにわずらわされて生きていたくない、と思う。
そりゃあ、そうだ。でもそれは、わずらわされる自分がわるいのであって、そんなことをわずらわしいことだとは思っていない人間もいくらでもいる。
それは、わずらわしいことではなく、それをわずらわしいと思ってしまう自分がいるというだけのことだ。
何がわずらわしいかといえば、そんなふうに思ってしまう自分の心がいちばんわずらわしい。
われわれの心は、「意味」に閉じ込められてしまっている。
大人たちは、「自分は正しい」「自分は幸せだ」「自分の人生は間違っていなかった」という「意味」に閉じこもり居座っている。
若者は、そんな大人なんか醜いという「意味」にわずらわされて生きている。
大人と若者はもう、「意味以前」の出会いでときめきあうということができない。どちらも、「意味」に閉じ込められてしまっている。
コミュニケーションが解決するなんて、幻想だ。
何が悲しくて、大人たちのその愚鈍な居直りを受け入れなければならないのか。大人が自分に居直るということは、若者を否定しているということだ。そうして「俺みたいな人間になれ」と迫ってくる。
そりゃあ、「うんざりだよ」と思ってしまうさ。
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この社会は、心を「意味」に閉じ込めてしまうことの上に成り立っている。
仕事の意味や勉強の意味に心を閉じ込めてがんばれば、そのうちいい思いができるようになっている。
できない人間はろくな人間にならない、と大人たちがいっている。
われわれはもう、そういう「制度」の中に置かれてしまっている。
どんなに大人なんかくだらないといっても、そう思うこと自体が「意味」に幽閉されてしまっている心の動きなのだ。
自分で自分の心を「意味」の中に閉じ込めて、なかなか抜け出られない。
だったらもう、内田樹先生のように「幸せ」の中に自分を閉じ込めてしまうのがいちばんだ。「幸せ」だけが生きた心地なのだから、もうずっと「幸せ」の中にいて生きていけばいいし、そう思えないことは見て見ぬふりしてしまえばいい。
それができれば、の話ですけどね。それには、内田先生くらいの恵まれた環境とあつかましさを必要とする。
われわれ庶民がそんなふうに生きようとすると、何かのはずみでパニック症候群や鬱病になったりする。なぜならわれわれ庶民は、内田先生ほどの恵まれた環境もあつかましさも持っていないから。
生きていれば、思うようにならないことは、いくらでも起きてくる。
なにより人は、老いて死んでゆかねばならない。それは、不幸なことだ。どんな理屈でごまかしても、それは不幸なことなのだ。
われわれは、その不幸と向き合わねばならない。
あなたは、内田先生の教えにしたがって、それは不幸なことではないと自分にいい聞かせるのか。
まあ、それもいいだろう。そういうことにしてしまうことは、内田先生ほどの恵まれた環境とあつかましさがあれば、不可能なことではない。
人間の観念や思想など、どのようにでもつくれる。
それが真実であろうとあるまいと、真実であると思い込むことはできる。
しかし、それによって失うものもある。
あなたはもう、不幸を生きることはできない。不幸を不幸と認めないあつかましさをもたねばならない。そうして不幸の味を噛みしめる体験は、もう最後までできない。自分が老人になっても、自分が老人だと認めることはできない。死を前にしても、これは何かの間違いだと、大騒ぎして錯乱してしまうかもしれない。
あなたが誰かにお金を貸して、その相手が返せなくなったら、今すぐ死んで生命保険で返してくれ、と平然というかもしれない。あなたが冷酷だからではない。そうしてもらわないと、あなたじしんが錯乱して自殺してしまうかもしれないからだ。
それくらいあなたは、不幸に耐えられない。受け入れられない。
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たとえ女房子供や恋人や友達が逃げていっても、自分が愚かで醜かったからだとは認めない。内田先生の教えに従って、家族や友情を捨てるものは人間として未熟で愚かだからだ、という思想で自分を納得させようとする。
内田先生くらいの恵まれた環境とあつかましさがあればできる。
しかし庶民であるあなたがそのような思想で生きてゆくためには、死ぬまで精神の病と背中合わせでいなければならないし、たぶん人からときめかれるということもほとんどないだろう。で、そのみじめさを背負いながら、人を軽蔑することで埋め合わせをしてゆくんだよね。
内田教の信者は、そういう強迫観念を募らせた人がじつに多い。そして僕なんか、彼らの軽蔑の絶好のターゲットかもしれない。
だけど、わるいけど、僕はあなたたちほど人に嫌われもしないし、あなたたちよりも考えつづけることもできる。なぜなら僕は、あなたたちよりは自分の愚かさも不幸も受け入れ嘆くことができるから、自分を否定しなければならないような問題に出会っても、あなたたちみたいに適当なところで適当な結論をでっち上げて考えることをやめてしまう、というような小ずるさは持ち合わせていない。
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内田氏は、けっきょく自分を否定することを回避し、逃げた奥さんや娘さんを否定することで自分を納得させようとしている。彼女らには「家族」というものに対する信頼が欠落していた、と。
つまり、そこで考えることをやめてしまったのだ。ふられた男は、たいていそういう結論で自分をなだめようとする。
だけど、信頼を持たせてやれなかったあなたの不用意さというものもあるだろう。もしも彼女らのその行為があやまちだというのなら、それこそがいちばんの罪ではないのか。
そうして内田氏は、熟年離婚する夫婦について、こんなことをいっている。
「彼らは相手のことがわかったつもりになって、わからないということにときめくことができないから、別れたくなるのだ」と。
低俗なへりくつだ。このていどの俗論に感心している人の気が知れない。
ようするに「俺には、逃げた女房子供の気がつかなかった魅力がいっぱいあるんだぞ」、といいたいのでしょう。
自分に執着する人たちは、自分にはいろんな面がある、と思っている。
いろんな面などあるものか。誰だって「いまここ」の自分ひとつしか持ち合わせていないのだ。
あなたには女房子供が逃げ出したくなるような何かがあった、というだけのことだ。
彼女らがどんな思いで逃げ出したくなったかということなど、誰にもわからない。あなたがそういう気にさせてしまった、という事実があるだけだ。
それに女は、男が思う以上に男のことを見透かしているものだ。
不幸を味わうことができる人間は、それを認めることができる。
内田さん、あなたにはできない。
人がどんな思いで逃げ出したくなるかということは、あなたていどの脳みそではわからない。わかるためには「神」にならなければならない。あなたはなれるのか。
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自分にはコミュニケーションの能力がある……これが内田氏の伝家の宝刀らしい。
しかしねえ、相手がわからないことにときめきなさいという人が、そんなものを振りかざしていいのですか。
というか、「コミュニケーション」ということばが、僕にはどうもよくわからない。
そんなものは、「仕事のコミュニケーション」だけでたくさんだ、という思いもある。
そんなものは、他人をたらしこむことに躍起になっている人間のためにあるものだ、とも思う。コミュニケーションの名のもとに、そういうことが正当化される。
コミュニケーションが成立するとは、「意味」によって人と人の関係が成立する、ということでしょう。
内田氏はたぶん、奥さんや娘さんとじゅうぶんなコミュニケーションをとっていたのでしょう。
なのに、家族をいとなむということには、それは無力だった。
家族なんかどうでもいいけど、ひとまずそれは、人と人の関係を根源的に成り立たせている要素ではなかった、ということを意味している。
ときめきあう、ということがあれば、ことばもコミュニケーションもいらない。
逆にいえば、ことばの根源的な機能は、コミュニケーションにあるのではなく、ときめきあうことすなわち感慨を共有してゆくことにある、ということだ。
相手が自分にとって大切な存在であるとか美しいとか、そんな「意味」を伝え合うことではなく、ただもうたがいの存在そのものにときめきあうことができたらそれにまさるカタルシスはない。
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内田氏は、コミュニケーションによって、相手が自分に悪意を抱いていないという前提が成立する場をつくろうとする。
しかし、そんなことは、相手の勝手なのです。それはもう、断念するしかない。断念して、ただもう相手の存在そのものにときめいてゆくしかない。
他者が目の前に存在するということは、いまここの同じ場所に向き合って存在しているという「歴史」の一瞬を体験することでしょう。
そういう切羽詰った感慨は、コミュニケーションを断念しているところからしか生まれてこない。
コミュニケーションなどというものを振りかざして悪意のない場を作ってきたつもりだから、自分が女房子供に嫌われたということが認められない。
しかし、相手がなんと思おうと、相手の勝手なのだ。
悪意を抱かせないですむコミュニケーションなどというものはないのだ。そう思わないふりをしているだけかもしれない。そんなにかんたんに人を説得できると思うべきではない。そういうことは、われわれよりも、じっさいに女房子供に逃げられた内田氏のほうがずっとよく知っているはずなのに。
相手が目の前に存在するということそれ自体に気づきときめく感慨は、相手が自分に悪意を抱かないことを画策し説得してゆくところからは生まれてこない。
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コミュニケーションとは、「意味」を伝え合うことであり、それによってわれわれの社会は仲の良い予定調和的な関係をつくっている。
それに対して相手の存在そのものに気づきときめくことは、「意味以前」の心のはたらきだ。
その原初的なときめきのことを、やまとことばでは「いろ」という。
意味以前の存在そのものの「いろ」に気づく体験、それはたぶんとてもセクシャルな体験であり、人はそういうところで恋をしたり欲情したりしている。そういう体験として、肉欲におぼれようとプラトニックであろうと、それはもう人さまざまだろう。
語源としてのやまとことばの「いろ」は、色彩のことではない。「意味以前」のところで気づきときめくことをいう。それが、「いろ」ということばの「ことだま」だ。
出会いがしらに、ただもう反射的にふと微笑んだ表情は、どんなブスでもばあさんでもほんとにかわいい。それは、たがいに意味以前ところで出会い、ときめいているからだ。
人と人の関係の基礎は、「意味」のやり取りをするコミュニケーションによってではなく、じつはそうした原初的な「意味以前」の体験の上に成り立っている。そういうタッチを置き去りにしていい気になっていると、どんなにコミュニケーションの能力のある人間でも、ある日突然妻や恋人に逃げられるという目に会ったりする。