祝福論(やまとことばの語源)・「ことだま」 8

もう一度、ことばの発生段階について考えてみます。
原初、ことばは、相手に何かを伝えるためのものでも、自分を表現するために発せられたのでもなかった。
吉本隆明氏は、ことばの機能として、このふたつを「指示表出」と「自己表出」という概念で説明してくれているが、原初の人類がことばに託した機能は、じつはそのどちらでもなかった。
相手に何かを伝えたかったのでも、自分の感慨を表現したかったのでもない。
原初のことばが発生した現場においては、ことばを発しようという衝動はなかった。それは、「音声」として発せられたのであって、「ことば」として発せられたのではない。「音声」であるということに意義があり、カタルシスがあった。「あなた」と「私」の前の空間に「音声」があり、私たちはその音声を共有しているということのカタルシスがあった。
原初のことばに、どんな目的もなかった。ことばはただ発せられたのであり、気がついたら発せられていただけだ。
そしてことばを持ったことによって、ことばを発しようとする衝動が生まれてきた。
「指示表出」も「自己表出」も、それからの話だ。
ことばがそうした機能を持つ前段階として、まず彼らは、自分が発したその音声を聞いて、その音声にある感慨が宿っていることに気づいた。そしてそれは、あくまでことばに宿っている感慨であって、自分の感慨であるという自覚はなかった。だから、ことばには「ことだま」が宿っていると思ったのであり、その「ことだま」が共有されてゆくことを「語らふ」といった。
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それはともかくとして、原初の言葉が発生した現場においては、ただもう音声がこぼれ出てしまっただけだ。彼らは、ことばに何かの機能を託していたのではない。
はじめにことばがあったのではない。音声があっただけだ。その音声のことをあとから「ことば」として自覚していっただけのこと。
いったいなぜ音声がこぼれ出たのか。
吉本氏は、はじめて海を見た原始人が「う」といった、これがことばの起源だ、という。つまり、はじめに「感動(自己表出)」ありき、というわけで、なるほど偉大なナルシストらしい世界観だ。吉本氏だけではない、この世の文学者という人種は、人間の歴史をそういうこととして解釈したい欲望があるらしい。そういうことにしておけば、自分が誰よりも人間的な生き方をしているという満足が得られる。
しかし、そういうことじゃないんだなあ。
人が何かに感動するということは、心の底に「なげき」を抱えているからだ。その「なげき」は、人との関係から生まれてくる。原初、その「なげき」から「ことばという音声」がこぼれ出た。そしてその「ことばという音声」から、ときめきという感動が生まれてきた。
はじめに「感動」があったのではない。「なげき」があったのだ。「なげき」によって「ことば」が生まれ、「ことば」によって「感動」が生まれてきた。
人間は感動する生きものだから「ことば」を持ったのではなく、「ことば」を持ったから感動する生きものになったのだ。
そこに「ことば」があるということの感動。感動とは、そんなようなことだ。
そしてなにより、「ことば」は人と人の関係から生まれてきたのであって、漠然とした「世界」との関係からではない、ということをわれわれは銘記しておく必要がある。
海を見て「う」ということなど、ことばを覚えてからの話なのだ。
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原初、群れが密集してきて人びとはうっとうしさを覚えるようになっていった。
たとえば、人と一緒にいるときにおたがい黙っているのは気まずい。われわれでも体験する、あんがいそんなことが契機だったのかもしれない。
われわれなら、とりあえずなんでもいいからしゃべろうと思うが、彼らの場合は、その気まずさゆえに気がついたら勝手に音声がこぼれ出ていた、ということかもしれない。
気まずいということは、相手の存在がとても気になる、ということだ。相手の存在が自分に張り付いているような心地がする。
そのとき、たがいの身体のあいだに横たわる「空間」を、心理的に喪失している。
そうなればもう、「あー」とか「えー」とか、なんでもいい、とにかく何か声を出せば、その「空間」を感じることができる。
そのときその音声は、何かを伝えようとする意図もなく、自分を表現するのでもなく、ただもうたがいのあいだの「空間」に漂っているだけだ。
しかしそれが、まさにそのことが、ふたりをほっとさせる。
いまわれわれは、たがいに相手の存在を侵害しないしされもしないたしかな「空間」を共有している……という安堵、よろこび。
人類の歴史において、群れが密集してくれば、人のことが気になって心理的に身体のまわりの「空間」を喪失してゆく。他者の存在が自分にまとわりついてくる。
そのうっとうしさから押し出されるようにして、ことばという音声がこぼれ出てきた。
それは、何かを伝えるためのものでも、自分の感慨を表現するためのものでもなかった。あくまで、たがいのあいだに横たわる「空間」を祝福する機能として生まれてきた。
原初、ことばは、ただもう「空間」に漂うだけのものだった。彼らは、その「空間」にときめいたのだ。
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他者とのあいだに横たわる「空間」を祝福してゆくこと、これが「ことば」の起源であり、人間は根源的にそうした衝動を抱えている。
けっきょく「ことば」の問題もまた、人間が直立二足歩行する生きものだということからはじまっている。
直立二足歩行する人間は、体の正面をさらして他者と向き合う。
猿やライオンなら、そういうことのほとんどは戦闘状態に入っている体勢であり、生き物にとってそれは、とても緊張する非常事態なのだ。
しかも人間の場合は、胸・腹・性器等の急所を相手にさらしてしまっているのだから、なおさら危険な非常事態のはずである。
攻撃されたらひとたまりもない。
しかしだからこそ、その状態での安全が確認されなければその姿勢を続けることはできないし、また確認されれば、そのよろこびもたがいの親密度もいっそう深くなる。
二本の足で立ち上がって正面から向き合うことは、ほかの動物以上に緊張する関係であると同時に、ほかの動物以上に親密になれる事態でもある。
そうやって人と人は抱きしめあっている。
また、将棋やトランプやキャッチボールやメンコやお手玉やおはじきといった人間を夢中にさせる遊びにしても、さらには村と村の境界に「市」を設けて交易することにしても、その交易のために「貨幣」を生み出していったことも、つまりは人間ならではの、向き合った「空間」を祝福してゆこうとする行為にほかならない。
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原初の人類は、密集しすぎた群れの中で、他者とのあいだに「空間」を確保しようとして直立二足歩行をはじめた。人間は、その「空間」にときめき祝福してゆく生きものであり、そういう祝福の行為として「ことば」が生まれてきた。
それはもう、さらに密集しすぎて切羽詰ったあげくのことだったのかもしれないが、その「ことば」によってひとまずうっとうしさは収束し、なおも密集していって、あげくに密集してあることそれ自体を祝福できるようになっていった。
人間の群れは、どんなに密集しても、「ことば」によって他者とのあいだの「空間」が確保され祝福されている。
しかしそれは、「ことば」を失えば「空間」も失う。「空間」を失えば「ことば」も失う、ということでもある。そうやって精神が病んでゆく。
海を見て「う」といった、などと悦にいっている場合ではないのだ。「ことば」は、人と人の関係から生まれてきたのであり、そこにおいて生成している。
原初、「ことば」は、何を表現するものでもなかった。ただ「音声」としてその「空間」に投げ入れられただけだ。