祝福論(やまとことばの語源)・「ことだま」 7

[[]]あるブログで、こんな句を見つけました。
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雫見づ をときく鹿の まふことは
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これは、ものすごく高度で複雑な句であるらしい。
この句の意味は、二重の構造が仕掛けられている。
雫見づの「見づ」は、「見ず」であると同時に「水」でもある。
そして「雫」は、文字のことを「筆しずく」とか「墨しずく」とか「インクのしずく」などというから「文字」という意味でもある。この「雫見づ」には、「雫水」と「文字を見ない(読まない)」というふたつの意味が掛けられている。
「をと」は「音」。
「鹿」は、文字通りの鹿と、「俗界を離れて山奥にすむ仙人のような人」の比喩でもある。
「まふ」は、下の「ことは」を「ことば」ととれば「語る」という意味になり、「……することは」の「ことは」であれば、「舞うことは=鹿が身ををひるがえすことは」となる。
で、この句の最初の意味は、「かすかな雫水の音に思わず驚いて鹿が身をひるがえすこと」の山の静けさや一瞬の緊張感をあらわしていることになる。
そしてもうひとつの意味は、「小ざかしく文字と関わってばかりして生きている俗人と違って、自然の音の中で暮らしている仙人のような人の語ることばはひと味違うものだ」となる。
これはもう、おそろしく頭がよくてことばに対する教養が深い人の句なのだろうと思う。
この句は、現代詩のようにモダンであると同時に、「新古今和歌集」の世界とも似ている。
つまり、やまとことばによる表現のひとつの「達成」がここにある。
こんな能力は、僕にはない。
やまとことばは意味作用が希薄で、どうとでも取れる。しかしだからこそ、そこにたくさんの複雑な意味作用を仕掛けてゆくことが出来る。
やまとことばを、ただ非論理的で単純な感情表現の言葉だと決め付けることはできない。だからこそ、ときに、驚くほど深くて豊かな論理や意味が表現されることにもなる。
なのに「語源」を語る研究者たちは、英語のような単純な意味作用に還元してしまえばそれですべて解き明かしたことになると思っている。そこが、気に入らないところです。
それは、やまとことばの性質を誤解し甘く見ていると同時に、ことばの起源に対する思考がいいかげんだからだ。
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人類の歴史において、「たいまつ」は、いつごろから使われていたのだろうか。
人間が火を使い始めたのは200万年前ころからだろうといわれている。
つまり、火を使うことを覚えたから、森からサバンナに出てくることができた。あるいは、サバンナに出てきたから、火を使うことを覚え、それによって外敵から身を守りながら生き延びてくることができた。
であれば、「たいまつ」をかざして夜に移動することも、すぐに覚えたにちがいない。何しろ夜のほうが、外敵が少ないし、サバンナの強い日差しも避けられる。
原始人の暮らしは、「たいまつ」とともにあったのかもしれない。
もしも「たいまつ」がなければ、人類は生き延びてくることができなかっただろう。
直立二足歩行して速く走れるようになったから生き延びることができたとか、手に棒を持って外敵と戦うことを覚えたからとか、そんなくだらないことばかりいっている研究者は多い。直立二足歩行くらいで豹より速く走れるのか。手に棒を持ったくらいでライオンと戦えるのか。あほじゃないかと思う。
それは、火を使うことを覚えてはじめて可能になることだったのだ。
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たいまつに松やにを塗ることを覚えたのがいつのころからかは知らないが、はじめはただ「たひ」といっていたらしい。そんなことを覚える前からあったことばなのだ。
おそらく縄文時代からあったことばであり、古事記の中にすでに出てきて、「手火(たひ)」と書かれている。
というわけで、「手に持った火」だから「手火(たひ)」、それが「たいまつ」の語源である、というのが定説になっている。もうこれで決まりだ、疑う余地はないと、どの語源辞典も声をそろえて決め付けている。
そうだろうか。
この、いかにも予定調和的で説明的なニュアンスがどうもあやしい。
やまとことばは意味作用が希薄なことばである。古いことばであればあるほど、そんな説明的な意味作用とは無縁のところで成り立っている。
文字を覚えたときにそういう漢字を当てた、というだけではないのか。
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古いやまとことばは、「意味」ではなく、「ことだま=感慨」の上に成り立っている。
「山(やま)」の「や」は、「やれやれ」の「や」、「深い安堵」の感慨が「や」の「ことだま」であり、そこから「遠い」という意味が生まれてきた。山の稜線は、見渡す景色のいちばん遠いところにある。ともあれ「や」の語源は「深い安堵」からこぼれてきた音声である、ということにある。「やっと」たどり着くことの「安堵」。だから、こだまを呼ぶときは「ヤッホー」という。
「ま」は、「まったり」の「ま」。「ま」の「ことだま」は、「深い充足」にある。
海に囲まれた島国で暮らす日本列島の住民は、囲まれて限定されたスペースにこそ深く充足してゆく傾向がある。だから、そういうスペースのことを、深い充足の感慨をこめて「間(ま)」という。
山に囲まれたこの地が「世界のすべてだ」、その向こうにはもう何もない、と充足してゆく。山を眺めれば、そういう深い充足がわいてくる。それが、「やま」の「ま」の「ことだま」である。
語源としての「山(やま)」ということばは、「視線=想い」がたどり着いたことの「安堵」と、そこによってたしかな「間(ま)」がつくられているという「充足」から成り立っている。そういう感慨を抱く体験から生まれてきたのであって、山の形状や意味を説明していることばではなかった。
そしてこれは、「秘すれば花」という日本的美意識の根源的な感慨のかたちでもある。
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では、たいまつの「たひ」には、どんな感慨がこめられているのか。
ただ「手」と「火」を説明しているだけなのか。
何しろ人類200万年の歴史とともにある道具をあらわすことばなのだ。
おそらく、ことばに「意味」を付与することを覚える前からあったことばであり、原始人は、そんな説明的な命名の仕方はしない。
やまとことばは「ことだま」をたずさえて生まれてきたのであり、古いことばであればあるほど、意味や形状を説明するよりも、感慨の表出として成り立っている。
それほどの道具なのだから、深い愛着があったでしょう。その愛着を込めずにいられなかったでしょう。
「手」と「火」、と説明すれば、それでじぶんたちのたいまつに対する愛着は込められていると満足できるのか。
これじゃあまるで、自分の子供の名前を「A」という記号にして満足しているのと一緒じゃないですか。
そんな命名の仕方は、誰もしないでしょう。ペットにだって、そんなことはしない。
文字にするときはそういう字を当てればわかりやすい、というだけのことでしょう。
僕はもう、日本中の学者たちを敵に回しても、そんなことあるものか、といいたい。少なくともこうした語源を考える作業においては、自分だって「雫見づ をときく鹿」でありたい願っている。
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英語で、たいまつのことを「トーチ」という。
このときの「トー」は、もしかしたら「たひ」が変化したのかもしれない。
原初のことばは、地域から地域へと伝わっていったのではなく、それぞれの地域での「共時性」として生まれてきた。
原始時代のイギリス人(ネアンデルタール)だろうと縄文人だろうと、たいまつに対する愛着のかたちにそれほど違いはない。
英語で「手」のことを「た」とはいわない。「火」のことを「ひ」とはいわない。それでも、たいまつのことを「たひ」といった可能性がある。原初、たいまつに対するそういう感慨と愛着があった。少なくとも、やまとことばよりはるかに意味作用が濃厚な英語でさえ、たとえば「ハンディ・ファイア」などという説明的なことばではなく、おそらく遠い昔から使われてきたにちがいない固有の名称をちゃんと持っているのだ。
それなのに、やまとことばの「たいまつ」の語源が、どうして「手火」などというただの説明でしかない姿であらねばならないのか。
トーチのことを「聖火」ともいうくらいで、人間の「たいまつ」に対する愛着は、とても深く根源的なのだ。
「たひ」ということばは、「たひ」という音声の「ことだま」をたずさえて生まれてきたはずで、語源というなら、そこが問われねばならない。
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「たひ」ということばには、おそらく、人がたいまつをかざして夜道を行くときの感慨がこめられている。
そういう感慨の表出こそ、やまとことばのタッチなのだ。
「た」は、「足る」の「た」。「深い充足」が、「た」の「ことだま」だ。
「ま」が「まったりとしてやわらかい充足」であるのなら、「た」は「たつ」の「た」でもあり、もっと意思的で「いきいきとときめく充足」をらわしている。
たいまつがあれば、夜道でも安全に歩ける。そういう「充足=安全」をあらわす「た」であるのだろう。
「ひは、「秘匿する」の「ひ」。大切なものが隠されてあることのカタルシス、それが「ひ」の「ことだま」だ。
たいまつは、夜道の安全を「秘匿=約束」してくれている。
夜道の安全が約束されることのありがたさ(充足)、これが「たひ」ということばにこめられた「ことだま」であり、語源の姿なのではないだろうか。
「トーチ」にしろ「たひ」にしろ、そういう愛着をこめずにいられない古代人の感慨から生まれてきたことばではないだろうか。
「たひ」という音声には、不安がいやされてゆくときのカタルシス(浄化作用)が宿っている。その「ことだま」。「たひ」と声に出して、その音の響きに耳を傾けてみればいい。そこには、たんなる「手火」などという説明ではすまない古代人の深い感慨がこめられている。
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「旅(たび)」ということばも、おなじ音韻なのだから「たひ」と無縁ではないはずだ。
それは、日々の暮らしの「けがれ」がそそがれるカタルシス(=みそぎ)を「ことだま」としているのであり、もしかしたらたいまつの「たひ」から派生したことばであるのかもしれない。
「た」は、「けがれ」がそそがれることの「充足」。「ひ」は、そうした「みそぎ=カタルシス」が「約束=秘匿」されていること。
野宿をつねとしていた古代の旅においては、たいまつは欠かせないものだった。そして、旅をすることの不安と背中合わせのときめき(充足)は、まさにたいまつをかざして夜道を歩いているときの感慨とおなじであったことだろう。たいまつには「約束の地(目的地)」にたどり着くことのよろこび(充足)が秘匿されている。そしてそれが、旅における「みそぎ」の感慨でもある。
やまとことばだけでなく、原初のことばは、「意味」をたずさえて生まれてきたのではない。その音声を聞くことの感慨を共有するいとなみとして「ことば=語らふ」という行為が生まれてきたのだ。
「たひ」ということばこそ、まさにそうした「語らふ現場」から生まれてきたもっとも原初的なことばのひとつであったはずだ。
「手火(たひ)」が語源のかたちだなんて、そんなことあるものか。