祝福論(やまとことばの語源)・閑話休題

内田樹先生、そんなに「家族」とか「コミュニケーション」というものが大事だと思うのなら、その前に「恋愛論・性愛論」を書きなさいよ。それこそが、「家族」とか「コミュニケーション」とかいうものの原点でしょう?そういう原点を持たない「家族論」も「コミュニケーション論」も、むなしいばかりです。
そこでボロをさらけ出さずに書いて見せなきゃあ。
「結婚とは人生の大切な修行である」「幸せになるための修行である」「家族を持つことこそ人間であることの証しである」等々、家族の存在こそ人間であることの根源のかたちである、とあなたはさかんに主張しておられる。
冗談じゃない。
男と女がセックスをすれば子供が生まれる……それだけのことさ。そのあとひとりで育てようと、夫婦で育てようと、男が育てようと女が育てようと、あかの他人が育てようと、集団で育てようと、人それぞれでいいんじゃないの。
結婚しない、子供も生まない、そういう人もいていいんじゃないの。
「家族」なんて、そんなご立派なものでも、ありがたいものでも、ましてや根源的なものではさらにない。
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家族の根源性と大切さをああだこうだと吹聴しまくることによって、逃げていった奥さんや娘さんの、それに気づかない愚かさを言外に匂わせ、逃げられた自分の正当性を確認してゆく。内田先生のそんな愚劣でエゴイスティックなたわごとにころりとたらしこまれてしまう人間が、この社会には大勢いる。
そりゃあ、そうだ。
この世の中には、女に捨てられた男がごまんといる。
僕だって、身に覚えがある。
そうして、そんなとき男たちの多くは、あの女が馬鹿だったからだ、あの女には俺の値打ちがわからなかったのだ、と納得しようとしている。そういう思いを抱えた男たちが、内田先生のご託宣にすがりつく。
それは、自分たちの自己正当化の欲望を満たしてくれる。で、内田先生の書くものが、阿片のように自分の人生にしみてくる。
どこかのおばはんの書く「何とかの品格」という本にしろ、よく売れる本というのは、阿片のような習慣性を持っている。
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何いってやがる。
女に逃げられたのは、おめえらにセックスアピールがなかっただけのことさ。
もちろん僕だってそんなふうだから、何度もそんな目に会っている。
しかし、それ以外のどんな理由があるというのか。僕はあほだから、そのたびに、それ以外のどんな理由も思い浮かばなかった。
僕の年下の友達は、逃げていった彼女に対して、「俺の青春を返してくれ、という思いがある」といっていた。
彼はたぶん、それが自分の心やさしさだと思っている。
内田先生も、逃げていった奥さんに対して、きっとおなじような思いを抱いているのだろう。でなけりゃ、あんな恨みがましい家族論・結婚論にはならない。
そんなことあるものか。
青春というのは、恋をして結婚にゴールインするようにできているのか。結婚というのは、末永く添い遂げるものと決まっているのか。恋が壊れてしまうのも青春だろう。家族が壊れてしまうのも結婚のひとつのかたちだろう。あなたたちが「返してくれ」と思わなきゃならないような失ったものなど何もないではないか。
彼女らが、あなたたちの何を奪ったというのか。あほらしい。
それによってあなたたちが結婚や再婚に臆病になっているとしても、それはあなたたち自身の性根の問題であって、彼女らのせいじゃない。
とにかくわれわれは、いずれ何よりも大切なこの生を失わねばならないのだぞ。それを思えば、それくらいのことはいいトレーニングなったというだけのことじゃないか。
そう思うことができないその恨みがましさは、いったい何なのだ。
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彼らは、不幸を生きることができない。そのことが彼らの生き方や心の動きや思想をどんなにいびつで病理的なものにしてしまっているのかということを、彼らは自覚していない。自分は誰よりも健康な常識人のつもりでいる。
この世の中は、どいつもこいつも、自分は健康な常識人のつもりでいやがる。
そして、幸せであれば、それで人生は調和していると思っている。人生は調和していなければならない、と思っている。
彼らは、不幸を認めない。人間は不幸であってはならないと思っているし、何がなんでも不幸になりたくないと思っている。
現代人の多くがそう思っているらしい。だから、そう思ってそういう生き方をすることを正当化してくれる内田先生の人生論にすがり付いてゆく。
不幸といっても、ただ貧しいとか頭が悪いとか顔がぶさいくだとか、それだけじゃないですよ。
人生には、思うようにならないことはいくらでもある。お金を落とすとか、電車に乗り遅れるとか、じゃんけんで負けるとか、自分が好きになっても向こうは好きになってくれないとか、内田先生のように誰からも尊敬されていても僕みたいな天邪鬼にはごみみたいに軽蔑される、ということだってある。そういうことだって、人生の不幸にちがいない。
誰も、不幸を避けて生きることはできない。
彼らは、可能なかぎりそういう不幸を避けて生きてゆこうとしている。不幸であっても、不幸とは認めない。
彼らは、できるかぎり人生を自分の思い描いた通りに進めてゆこうとする。だから内田先生は、人生を思い描きなさい、とさかんに扇動している。
僕はそれを、ものすごくいびつで病的な思想だと思うのだけれど、それこそがもっとも健全なことだと思っている人が大勢いて、内田氏に賛同してゆく。
どうしてなんだろう。
不幸を生きることができない人は、自分の思い描いたとおりに生きてゆくしかない。そうやって彼らは、明日になって明日という時間と出会うときめきも、人と出会うことのときめきも、しだいに失ってゆく。彼らにとってそれらは、予定されていたことであらねばならない。わかっていたことなんだもの、ときめくはずがない。
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彼らの人生に不幸はあってはならない。
しかし、人が死んでゆかねばならないことは、どう考えても不幸なことであり、悲劇であるはずです。
どんな理屈をこじつけても、それが不幸であり悲劇であるという感慨からは逃れられない。
死が目前に迫ったら、誰もが必ずその感慨を通過しなければならない。通過できないで混乱したまま死んでゆかねばならないとしたら、悲惨すぎる。その混乱に耐えきれずに自殺してしまう人も多い。そういうことがきっかけで、鬱病認知症になる人だっている。
死が目前に迫るという事態は、ときに生きている途中にだって体験するのだ。
僕の若い友人がパニック症候群になったのも、つまりはその感慨を通過することに失敗したかららしい。
熱中症になって体が動かなくなってしまうことの恐怖、不幸を生きることができない彼はそのショックで精神の安定を失い、体のバランスまで狂いつづけることになった。
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彼は、テニスを趣味にしている。一時は、仕事も捨てて趣味以上の熱中の仕方だった。日々の暮らしを設計図どおりに生きている彼のゲームメイクは天才的にうまい。しかし体の動きは、そのキャリアのわりには、どことなくぎこちない。内田先生を信奉してやまない彼は、やっぱり内田先生とおなじ人種なのだろうかと、ときどき僕は思った。そうは思いたくなかったが、けっきょくはそういうことであったらしい。
人生がうまくいっているかぎりは、それでもかまわない。しかし、パニック症候群になってしまったからには、不幸を生きるトレーニングもしていったほうがいいんじゃないの、と僕はいってみたが、聞いてもらえなかった。
そういうことはおまえだからできるのであって俺にはできない、と彼はいった。そうして、ますます内田先生の思想にしがみついていった。
パニック症候群の治癒は、遅々として進まなかった。
だから、それじゃあだめなんだよ、といおうとしたが、僕のいい方は腰が引けていた。その代わり、このページの内田批判がどんどんエスカレートしていった。内田氏の離婚のことを突付くのはフェアじゃないと思いつつも、もうそんなことにかまっていられなかった。
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彼とは、会うたびにかならず四、五時間喫茶店などで話しつづけたが、けっきょくのところいつもかみ合わなかった。
仲良く話しながら、じつはおたがい傷つけあっていたのかもしれない。
べつに彼を説得しようというつもりはなかった。こんなふうに生きなよ、というようなことは、僕のほうがいわれることはあっても、僕はほとんどいわなかった。僕はただ、話すことを通じて、人間とは何かということを確かめ合いたかっただけだ。そういうレベルの話ができる相手は、僕のまわりには彼しかいなかったから。
しかし生意気なようだけど、僕は彼を置き去りにしてしまったのかもしれない。
いろいろあって、今はもう、会うのをやめている。
たぶんもう、一生会うこともないだろう。
べつに友人を失った悲しみというような感傷もないが、内田氏に対しては、彼が時代のオピニオンリーダーであるだけに、そんなことあるものか、といいたい気持ちがどうしても残ってしまう。
あのころは、友人が内田氏と同じ人種だという前提は持つまいとしていたが、やっぱりそれはごまかしだった。今となってはもう、その必要もないし、とりあえず同じ人種として考えたほうが、問題がクリアになるような気がする。
なんだかこのごろ、彼と内田氏の連帯に敗北した、というような思いばかりが浮かんでくる。
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具体的なことは何も知らないのだが、42歳の彼はインポテンツになることをひどく心配していた。
近ごろは、若者でもそういう心配をしている人がけっこういるらしく、何かのはずみで突然そういう事態に陥ったりするのだとか。
それはたぶん、不幸を生きることができないからだ。
相手が「美しい」とか「魅力的だ」というような「意味」を見失うと、とたんに勃起に支障をきたす。
そして僕は、もしかしたら内田先生も若いころからそのような傾向があったのかもしれないと、つい勘ぐってしまう。
いまやもう、若ければ女の裸を見てさわればちんちんくらいすぐおっ立ってくるだろうというような時代ではない。彼らはそこに、「幸せ」とか「美しい」とか「魅力的だ」というような「意味」を必要としている。
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「結婚は、幸せになるための修行である」と内田先生はいう。
人生に「修行」など必要なものか。明日も生きてあることを誰が保証してくれるというのか。悟りだろうと幸せだろうと、そんなことのための「修行」をしているひまがどこにあるというのか。
内田先生は、人生を設計する。死があと何年後にやってくるかということをちゃんと頭において生きなさい、という。
冗談じゃない。死は、未来にあるものでははなく、この生の背中に張り付いてあるものだ。この生は、死の上に成り立っている。死は、次の瞬間にやってくるかもしれない。命というのは、そういうことが起こりうるようなかたちになっているのだ。
飛んでいる蚊を叩き潰して、その死が自分にも起こりうることだと思わないでいられるなんて、いったいどういう神経をしているのか。
勃起することは、「意味」が満たされる「幸せ」な体験ではない。「意味」が消失する「不幸」であり「悲劇」なのだ。すなわちそれは、「自分」を見失う体験なのだ。それは、自分が勃起させたのではない。ちんちんが「自分」を置き去りにして勝手に勃起してしまう体験なのだ。
それは、観念が「美しい」とか「魅力的だ」という「意味」を認識することによって起きるのではなく、「意味以前」の胸の「たま」が震える体験なのだ。そうやって「ときめく」体験なのだ。
人生の「意味」や「意義」を求めて修行してもしょうがない。人生に「意味」や「意義」があるのではない。「意味」や「意義」を求める病んだ心がある、というだけのことさ。
女は、自分にときめいてくれない男は捨てる。「幸せ」さえ与えておけばすむとたかをくくっているから捨てられるのだ。幸せに浸りながら女は、あなたにどんどん幻滅してゆく。
内田先生、あなたの奥さんは幸せじゃないからあなたを捨てたのではない。あなたが幸せしか与えてやれなかったから逃げ出したのだ。
どんなに愛したって、無駄なことさ。あなたは、ときめいていない。
女は、この世界にときめいている男しか許さない。ときめいているちんちんしか中に入れさせてもらえない。
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「不幸になる」ことと「不幸を生きる」こととは違う。内田先生、あなたは奥さんに逃げられるという「不幸になる」体験をした。しかしそこで「不幸を生きる」という体験ができなかった。できないで、結婚の大切さに気づかずに逃げていったものがわるい、という結論に居座った。
僕の友人もまた、熱中症という「不幸になる」体験をしたとき、「不幸を生きる」ことのできない観念に居座って生きてきたために、パニック症候群に陥ってしまった。
あなたたちのその「不幸を生きる」ことのできない観念の傾向はそっくりだ。今になって、僕の友人がどれほど切実にあなたの思想にすがり付いていたかということが、よくわかるような気がする。そしてそれが、現代社会の核心的な病理であるということも。