祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」33・追いつめられる

現在のこの国は、先進国の中でもことに自殺率が高いのだとか。
内田樹先生は、この問題に関して、こんなことをいっておられる。
食うものも着るものも住むところもないというような「絶対的貧困」には手を差し伸べる必要があるが、ただほかの人よりは貧しいというだけの「相対的貧困」の不満の問題にはかかわる必要がない、と。
そんなことをいったって先生、そういう「相対的貧困」の自覚によってこの国の自殺率が高くなっているのですよ。
人間を追いつめているのは、「絶対的貧困」ではない、「相対的貧困」なのだ。飢餓などの「絶対的貧困」にあえぐアジアやアフリカの一部の地域に比べて、「相対的貧困」の状況がほとんどのこの国の自殺率のほうがずっと高いのはなぜか。それは、人を追いつめるのは「状況」ではなく、「人そのもの」なのだということだ。われわれの心は、状況からではなく、人から追いつめられるのだ。そういう心の問題を考えることができないで、「相対的貧困」など問題にならないだなんて、思考停止以外の何ものでもない。
こんな脳みその薄っぺらな人間が現代社会のオピニオンリーダーの座におさまって浮かれまくっているなんて、ほんとに頭にくる。
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戦争中は、多くの人が餓死寸前の状況になっても、自殺率は低かった。みんながそうであれば、そんな状況でも耐えられる。
しかし豊かな暮らしに浮かれまくっている人間がたくさんいる世の中で食うのがやっとだという人は、どんどん追いつめられてゆく。自分が死ねば家族に生命保険の大金が入るというのなら、そうしたくもなるだろう。
どんなに貧しくても戦争中の人々よりはましだというのなら耐えられそうなものだが、そうはいかない。豊かな暮らしをしてそれこそが人間ほんらいの暮らしであり喜びだと浮かれまくっている人たちがいれば、貧しいものたちは、自分はもう人間の範疇に入らないのではないかと追いつめられてゆく。
人間はほんらいそうやって「追いつめられている」存在であるのだが、そういう存在は生きている甲斐も資格もないというような社会的合意が成立している。しかし人間とはほんらいそういう存在だから、「追いつめられている」という心の動きはなかなか払拭できない。そうやって、ますます追いつめられてゆく。
「生きている甲斐も資格もないのか」と問うて生きていたらいけないのか。そういう問いを持つ勇気も感受性もない連中が、弱いもの貧しいものは生きている甲斐も資格もないと決め付けてくるから、彼らはもう、「生きていてはいけない」という結論にたどり着いてしまう。
人間だったら人間であることに追いつめられてしまうし、この世にたくさんの人間がいるという状況からも、根源的な存在論として追いつめられてしまうようにできているのだけれど、そういう根源に触れることのできる勇気も感受背もない連中の社会的合意が、そうやって追いつめられてしまう人間は「生きてある資格も甲斐もない」と決め付け追いつめてくるから、生きていられなくなる。
「生きてある資格も甲斐もない」というかたちで生きてあるのが人間なのに、そういう人間は生きていてはいけないかのような社会的合意をあの浮かれまくった連中がつくって、貧しいものや弱いものを追いつめてくる。
やつらは、助けてやる、と人格者づらして手を差し伸べてくるのだが、しかしそれは、「きみたちは生きている資格も甲斐もない存在である」、つまり「生きていてはいけない存在である」と宣告している態度なのだ。
だから「生きていてもいい存在」にしてやろう、というわけだ。それによって、自分たちが「生きていてもいい存在」であることを確認しようとしている。
それは、他者を否定する一種のサディズムにほかならない。
人間は、「生きていてはいけないのではないか」と問いながら生きてゆく存在であって、「生きていてはいけない」と納得してしまう存在であるのではない。なのに、現代社会の相対的に弱いもの貧しいものたちは、あの連中から、「生きていてはいけない」と納得させられてしまう。
人間は、ほんらい、自分は生きてある資格や甲斐を持っていると勝手に納得してしまえるような存在ではない。にもかかわらずそう納得してしまえる無知で恥知らずな連中が大勢いる世の中だから、彼らが追いつめられねばならない。
相対的貧困」とは、そういうことなのだ。
内田先生、これは、あなたていどの薄っぺらな思考ではとうていわかりえない人間の根源の問題なのです。
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そういう「相対的貧困」を自覚している人は、追いつめられればもう、この世の中で自分ひとりだけが貧困にあえいでいる気分になり、道ゆく人の誰もが豊かにのんきに暮らしているかのように見えてくる。
テレビは、ひとまずそういう前提で、車や家のコマーシャルを流し、美味いものを食うことがまるで人間の最高のよろこびであるかのようなタレントのあほづらをこれでもかこれでもかと映し出している。
そして、自分のセレブな日々の暮らしの自慢を臆面もなくブログに垂れ流し続けている、どこかの脳みその薄っぺらな大学教授もいる。
そういう世の中の状況から追いつめられて、彼はもう、自分ひとりだけが貧しさにあえいでいるような気分になってしまうのだ。
内田先生、あなたは、そういう人の心の動きに対する想像力がなさ過ぎるのですよ。だから、「相対的貧困」は問題にならない、という。
人間の心の根源にある疎外感、誰もがどこかに「自分ひとりだけが」という心の動きを持っている。「自分」という存在のあいまいさに比べて、自分以外のすべての人々は、どうしてあんなにも確かな存在感を持っているのだろう……「実存」の問題として、人間の意識は、そんなふうに世界が見えてしまうようにできている。
失敗すれば、自分が世界中でいちばんだめな人間であるかのような気分になってしまうのが、人の心の動きなのだ。
アインシュタインだって、天皇陛下だって、皇后陛下だって、皇太子妃殿下だって、ときにそういう気分になってしまうのだ。
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現在のこの国は、金のことだけでなくいろんな意味で人間関係のそうした「相対的劣等性」の中にあるものがそうした疎外感や孤立感をいっそう深めてしまう世の中で、その疎外感や孤立感に耐える能力が希薄なってしまう世の中でもあるのだろう。おそらくそういうことが、自殺率の高さになっているし、若いギャルがむやみに「かわいい」とときめいてゆく風潮にもなっている。
彼女らだって、そうやって大人たちから追いつめられている。
内田さん、あなたは、そういう「追いつめられている」という疎外感や孤立感を味わったことがないのか。そういう心の動きは誰の中にもあるはずだが、そんなことは見て見ぬふりして上手に生きてゆくことのできる人間がいるらしい。それが、あなただ。
自分は貧乏なときでもそんな惨めな思いをしたことなどない、とあなたはつねずねいっておられるが、それこそがあなたのいやらしい欺瞞性を物語っている。
貧乏になれば、自分が世界中でいちばんだめな人間になったようなみじめさに浸されてしまう、病気になれば、自分がこの世でいちばん弱い生きものになったような心細さに浸されてしまう。それが人間の心というものであり、それは、心の弱さとか貧しさとかそういう問題ではなく、人間であることの「実存」の問題なのだ。貧乏や病気になれば、そういう「実存」の問題に敏感になってしまうのだ。
豊かで伸びやかな心を持っているから、そうした惨めさを感じないのではない、鈍感で欺瞞のかたまりのようないやらしスケベ根性で生きているから感じないでもすむだけの話なのだ。
貧乏に負けなかったとか、病気に負けなかったとか、あんまりそういうみすぼらしい自慢はしないほうがいい。それは、人間として鈍感で欺瞞的であっただけの話なのだ。
そういう状況になったら、世界でいちばんみじめな人間として死んでしまいたくなるのが人間なのだ。
現在のこの国の自殺率の高さという問題は、内田樹とかいう鈍感で欺瞞のかたまりのような学者ごときの手に負える問題ではない。
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内田樹先生は、みずからのブログの中で、あいも変わらず自分のセレブな日々の暮らしの自慢を垂れ流し続けている。
それはとても醜く不愉快な態度だが、彼がそんな態度をとり続けるのは、もしかしたらそうやってけんめいにみずからのアイデンティティを守ろうとする強迫観念かもしれない、とも思わないでもない。
まあそうした態度をとる人間はわれわれのふだんの生活圏にもたくさんいるが、しかしセレブであるオピニオンリーダーがそんなことをしてそれが人間のあるべき振る舞いかのようにこの社会が合意されてゆくのであるのなら、それはちょっと困る。
そんな態度のやつばかりのさばっている世の中だから、相対的に弱い人貧しい人たちが追いつめられ、死のふちに沈んでゆかねばならないのだ。
内田先生がみずからのセレブな暮らしを自慢したがるのは、セレブな暮らしをしていない人間に対するサディズムなのだ。彼の中には、セレブでない人間から幻滅されているかもしれないという不安があり、セレブでない人間のアイデンティティを壊しにかかっている。
なぜなら、貧しく弱いもののほうが人間の根源を生きているからだ。それはもう、キリストや釈迦だってそういっている。
内田先生をはじめとする今どきの大人たちはそういう根源を生きる度胸も感受性もないくせに、それを心の隅のどこかで気づいているくせに、なんとか自分たちのアイデンティティを守ろうとして、自分たちこそ根源を生きていると自慢し、ほんとに根源を生きている弱い人に対する殺意をたぎらせてくる。
彼らのそういうサディズムが、この社会の相対的に弱い人や貧しい人たちを追いつめている。
大人たちのそうやって自分のアイデンティティに執着するサディズムが、今どきの働こうとしない若者や学ぼうとしない子供たちを追いつめている。
あなたは、内田樹先生のあの「下流志向」という本を読んで、そうした若者や子供たちに対するサディズムを感じないですか。
内田先生自身が、そうした若者や子供たちが現れてきたことに、みずからのアイデンティティの危機を感じている。彼らは内田先生のような大人に幻滅しているということを、先生自身も本能的に直感しているのだ。だから、そうした若者や子供たちは、働かせ学ばせて内田先生のような大人を尊敬する人間に教育してゆかねばならない。
われわれの共同体のためだ、と先生はいう。共同体のためだということは、自分が尊敬される共同体を守るため、ということだ。ようするに、自分のアイデンティティを守るために、そういわずにいられないのだ。
共同体なんか、よくなろうと悪くなろうと、どっちでもいいじゃないか。滅びるなら、滅びてしまってもかまわない。われわれは、共同体を守るために生きているのではない。とりあえず今は共同体から守られて生きて生きているが、共同体がわれわれを守ることができようとできまいと、共同体の勝手だ。われわれだって、共同体から逸脱した心でときめきながら生きている。
働こうとしない若者や学ぼうとしない子供たちは、共同体のために生きることなんか「わがことにあらず」と思っている。しかしだからこそ彼らは、「かわいい」とときめいてゆくことができる。
あの本の中で先生は、われわれ大人たちは賢く清らかで、そうした若者や子供たちは醜く愚かである、ということを宣言している。
因果なことに今の世の中には、その宣言に喜ぶ人間がたくさんいる。喜ぶ人間がたくさんいるということが、自殺率の高さになっている。
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内田先生は、とてもえげつないサディズムを持っておられる。それはおそらく、みずからのアイデンティティを守らねばならないという強迫観念に由来している。
まあ、団塊世代からアラフォーくらいまでの戦後世代には、そういう人種がうんざりするほどあふれている。戦後社会が、そういう人種をつくり出した。右肩上がりのいい社会だったから、彼らは、社会や自分から逸脱してゆく心の動きを持っていないし、その心の動きがもたらす「ときめき=カタルシス」というものを知らない。
彼らには、日本列島の歴史の水脈である「けがれ」の自覚も「みそぎ」のカタルシスも知らない。
だからそんなこととは無縁に、いたずらに自分たちの青春や子供時代を懐かしがり、そうやって自分を正当化してゆく手続きばかりに長けている。
それは、サディズムなのだ。
他人のプライベートな問題を突っ込むのはフェアじゃないとも思うが、内田先生自身が奥さんや子供に逃げられたことをカミングアウトし、それでものうのうと自分は無傷だというような顔ばかりして家族問題について「俺の言うことを聞け」とばかりにあれこれくだらないことをしゃべりちらしているから、こちらも、どうしてもそのことについてひとこといいたくなってしまう。
内田先生の奥さんや子供が逃げていったのは、おそらく内田先生から追いつめられたのだろう。内田先生は、人間に対して、そういうサディズムを持っている。
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1970年代に入って全共闘が終息していったころ、僕の知っている運動家どうしのカップルで、女に逃げられた男がたくさんいた。子供を連れて逃げていった女もいた。貧しい母子家庭になってしまうことを承知でよくそんな無謀なことができるものだ、とその決意に感服したものだが、それくらいいたたまれないものを感じていたからだろう。
男が情けなくなって女に捨てられる時代になった、と近ごろはよくいわれるが、その傾向は、団塊世代からはじまっている。
ただ、それは、男が弱くなった、というだけではすまない。
団塊世代は、自我というかみずからのアイデンティティにものすごく執着する世代で、男のそういう態度が女や子供を追いつめていった、という問題もある。
内田先生だってようするに奥さんや娘に幻滅されたということなのだろうが、なぜ幻滅されたかといえば、その自己正当化に執着する態度が奥さんや子供を追いつめてしまった、ということでもあるのだろう。
娘が6歳のときに離婚してその後18歳になるまで男手ひとつで育てたということだが、内田先生のその達成感と自己満足が、子供を追いつめ、子供としてはもうそれ以上一緒に暮らせなくなってしまったのだろう。
彼には、子供をつくってしまったことや子供を片親にしてしまったことへの自責の念が希薄だったのだろう。子供を片親にしてしまったのは奥さんのせいで、俺はちゃんと育てているのだから免罪されてしかるべきだという思いを子供に押し付けていったら、そりゃあ、うっとうしくなってしまう。ちゃんと育てているお父さんを認めてくれるだろう、という態度とともに、ちゃんと育てている自分の正当性に耽溺されたら、「自分はどうしてこの世に生まれてきてしまったのか」とか「自分はここにいてはいけないのではないか」というような人間としての根源的な問いに目覚めてしまった子供は、そりゃあいたたまれなくなってしまう。
人間なんか愚かな存在で、ついはずみで子供をつくってしまうのだけれど、それはもうしょうがないとしても、つくってしまったことの申し訳けなさくらいは持とうよ。子供たちだってこの先、「自分はどうして生まれてきてしまったのだろう」という解決不能の問題を死ぬまで引きずっていかねばならないのだから。
内田先生は、そういう申し訳なさをかけらも持っていない。いいことをしたと思っているのみか、恩に着せようとさえしている。その残酷な心の動きを、一緒に暮らしているものたちは、本能的に感じてしまう。そのナルシズムとサディズムが、気味悪くなってしまう。そうして、自分は愛されているわけではない、と絶望してしまう。
それが、「ニューファミリー」ブームの先頭を切って走ってきた団塊世代の男親の特徴的な心の動きらしい。
そんなに自分が大事なら自分ひとりで生きていきなさいよ……そういうことばを飲み込んで女たちは逃げてゆくのだ。
愛されていると実感できるのなら、女はそうかんたんに男を捨てやしない。女が生きてゆける場所など、この世のどこにもないのだから。
僕の知っているかぎり、女房に逃げられたたいていの男は、そうしたサディズムアイデンティティに対する執着を持っている。子供を追いつめてしまったたいていの親は、そうしたサディズムアイデンティティに対する執着を持っている。
秋葉原事件の若者や神戸の酒鬼薔薇少年の親たちだって、まさしくそうした人種だったではないか。
女房や娘に逃げられた内田先生だって、同じさ。
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人を追いつめているのは、人なのだ。
社会から逸脱した弱いものや貧しいもや愚かなものを追いつめている人たちがいる。
それが、現在のこの国の自殺率の高さになっている。
社会から人間から自分から逸脱してゆくのがこの国の歴史の水脈であったはずなのに、内田先生をはじめとして、社会や人間や自分に執着し耽溺している大人たちばかりの世の中になってしまった。この連中が、弱いものや貧しいものや愚かなものや若者や子供たちの心を追いつめている。
内田先生もこの国の伝統を大切にしようとかどうとかしゃらくさいことをいって「日本辺境論」を書いたらしいのだが、この人には伝統の何たるかはわからない。
伝統なんか大切にしないのが、この国の伝統なのだ。伝統なんか、滅びてもいいのだ。そこから、新しい何かが出現する。その「滅びてもいい」という精神がこの国の伝統であり、その精神が歴史の水脈として流れ続けている。
「社会」も、「人間」とか「自分」というアイデンティティも、ぜんぶ「滅びてもいい」と断念してゆくのがこの国の伝統なのだ。
「滅びてもいい」という精神だけが、滅びることなく歴史の水脈として流れ続けてきたのだ。
われわれは、「辺境」の民として、内田先生のいうような「生き延びる戦略」など持っていない。「生き延びる戦略」など持たないのがこの国の伝統なのだ。
われわれは、大切にするべき伝統など持っていない。ただ、出口のない「辺境」の民として、どうしてもそういう心の動きをしてしまう歴史の水脈に浸されている、というだけのことであり、そしてそれこそが人間の根源のかたちでもあるからこそ、今どきのバカギャルの中にもそれがよみがえってくるのだ。
自分のアイデンティティにしがみつき「生き延びる戦略」がどうのといっているやつなんぞに、この島国の伝統の何がわかるものか。
社会や人間や自分から「逸脱」してゆく精神は、この国の歴史の水脈であると同時に、人間の根源のかたちである。
人間は、「滅んでしまわねばならない」存在ではないが、「滅びてもいい」存在ではあるのだ。われわれはもう、「自分はここにいてはいけないのではないか」と問い続けながら生きてゆくしかない。人間の歴史はそこからはじまり、今なおそれがわれわれの生きてあるかたちになっている。