祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」34・消えてゆく

心が何かに追いつめられているから、「かわいい」というときめきを体験することができる。
それは、みずからの存在を消してしまおうとする衝動の上に成り立っている。
現在のこの国の自殺率の高さと、ギャルたちの「かわいい」とときめいている現象は、けっして無縁ではない。
貧しいものや弱いものが追いつめられる社会だが、「かわいい」とときめいてゆくことができるなら、ひとまず生きていられる。
「かわいい」とときめくとき、この社会や大人たちから追いつめられて生きている彼女らは、この世界の裂け目に消えてゆく。つまりそのとき自分を忘れてときめいているのであり、自分を忘れるというかたちで自分が消えていっている。
蛇ににらまれた蛙のもっとも有効な逃亡の手段は、今ここで消えてしまうことにある。
そのとき蛙は、消えてしまおうとする衝動に浸されている。だから、動けなくなってしまうのだし、あわてて逃げることもまた消えてしまおうとする行為にほかならない。逃げ切れないと絶望したとき、ほんとにもう消えてしまおうとする。
消えてしまおうとするのが生きものの根源的な衝動である。
「消えてしまおうとする衝動」が生きものを生かしている。「生き延びようとする衝動」ではない。
息苦しければ、息をする。息をすれば、息苦しい身体が消えてしまう。身体が「楽になる」とは、身体が「消えてしまう」ことであり、身体のことを「忘れてしまう」ことだ。
息苦しいとか痛いとか暑いとか寒いとか腹が減ったとか、そうやって身体が追いつめられることが生きることであり、その状態から逃れるもっとも有効な手段は、身体のことを忘れて消えてしまうことだ。
われわれは、「消えてしまう」ために息をし、衣装を着て、飯を食う。
寒ければ、体の熱を上げようとする。それは、体を消してしまおうとする衝動であって、生き延びようとする衝動ではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本列島の住民は、「消えてゆく」ことのカタルシスを共有しながら歴史を歩んできた。
人間は、先験的に「追いつめられている」存在である。
西洋では、それを「原罪意識」という。
西洋人は、その原罪によって神に追いつめられ、懺悔することによって許されてゆく。
つまり「許される」手法として神がイメージされていった。
しかしこの国の神は、追いつめもしないし許しもしない。ただ現われて消えてゆく。
そしてわれわれもまた、神とともに消えてゆく。
つまりこの国では、「消えてゆく」手法として神がイメージされていった。
われわれは、「罪」を負っている存在ではなく、「けがれ」を負っている存在なのだ。
われわれは、長いあいだ、この狭い島国に閉じ込められて生きてきた。
閉じ込められて定住してゆけば、体も心の動きも停滞しけがれてくる。われわれはもう、生きてあることそれ自体から追いつめられている。
この「けがれ」は、「消えてゆく」ことによってしかぬぐえない。「みそぎ」とは、「消えてゆく」ことのカタルシスだ。
そしてこのことは、原初の人類による直立二足歩行の開始と、奇妙に符合している。
二本の足で立ったままでいると、不安定でなんとも居心地が悪く、体に「けがれ」が帯びてくる。しかしそこから歩いてゆけば、体が楽になって、体のことなど忘れてしまう。つまり、体が「消えてゆく」。人間にとって、二本の足で立って歩く行為は、ひとつの「みそぎ」なのだ。
共同体をつくって生きている人間は、先験的に共同体の密集から追いつめられている。そういう「けがれ」を負って存在している。原初の人類の直立二足歩行は、まさに、そうした「けがれ」をすすぐ「みそぎ」の行為として発生してきたのだ。
そしてそれは、身体が「消えてゆく」カタルシスであって、「罪」が「許される」たいけんではない。
人間は、「罪」など負っていない。「けがれ」を負っているだけだ。
息苦しくなるとか腹が減ってうっとうしいとか暑いとか寒いとかということだって、ひとつの身体の「けがれ」なのだ。
われわれ日本列島の住民は、罪を許されたいと思っているわけではないが、生きてある限りこの「けがれ」からは逃れられない、と思っている。
だから、消えてゆこうとする。
それは、この社会から、人間から、自分から、「逸脱」してゆく、ということだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
縄文人は、水平線の向こうには何もない、と思っていた。
水平線の向こうにもうひとつの世界があるという知識などないのだから、そんなことは思いようがない。
この感慨が、日本列島的な心の動きの基礎になっている。
今でもわれわれの心の底には、水平線の向こうには何もない、という意識が息づいている。だから、失恋したものは海を見に来て、そのつらい恋心を洗い流そうとする。水平線を眺めていれば、「何もない」という「断念」の気持ちをよびさましてくれる。彼らは、そうやって癒されている。
水平線の向こうや夕焼け雲の向こうにもうひとつの世界があると思うのは、われわれの知識であり、観念のはたらきにすぎない。
根源的な主観性においては、水平線の向こうは「何もない」、と思っている。
われわれ現代人はもう、あたりまえのように水平線の向こうにはもうひとつの世界があると思っているが、それはあくまで知識=観念のはたらきであって、根源的な主観性(=無意識)においては、われわれだってやっぱり縄文人と同じように「何もない」と思っている。
なぜ「何もない」と思えるかといえば、人間は「消えてゆく」という体験をしながら生きている存在だからだ。息をしたり飯を食ったり二本の足で歩いてゆけば、体のことなどさっぱり忘れて、体が「消えてゆく」という気配をどこかしらで感じている。この体験の蓄積から、「何もない」という認識が生まれてくる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
人間の体は、今でも完全に直立二足歩行するようにできているのではない。だから、立った間じっとしているとものすごく居心地が悪いし、われわれはその能力を後天的に獲得する。
直立二足歩行するのがあたりまえではない人間が直立二足歩行することの不思議、そこから「消えてゆく」という感慨が生まれてくる。
最初から直立二足歩行するようにできているのなら、あたりまえだから、不思議とも消えてゆくとも思わないし、身体が「ある」とも「ない」とも思わない。
人間は、必要以上に身体を「ある」と思ってうっとうしがったり、「ない」と思ってさっぱりした気持ちになったりする生きものである。その振幅が、人間の人間たるゆえんになっているわけで、それが「けがれ」と「みそぎ」の感慨にほかならない。
「消えてゆく」という感慨を体験するから、「出現する」という驚きも生まれてくる。このバイブレーションにときめいてゆくことが、日本列島の住民における縄文時代以来の歴史の水脈になっている。
冬の終わりと春のはじまりの境目の「正月」という祭りに盛り上がってゆくのは、そこに消失と出現のバイブレーションを見出しているからである。
「旬のもの」とか「初もの」と呼ばれるものも、そういう季節の境目に出現するひとつの「かわいい」ものである。われわれは、そういうものに「かわいい」とときめいているのだ。
それは、季節と季節の「裂け目」から出現する。
追いつめられているものは、この世界の「裂け目」に気づき、ときめいてゆく。「裂け目」から出現するものが、大きいものであろうはずがない。「かわいいもの」であるに決まっている。
そしてそれに気づいてときめいているとき、追いつめられているみずからの存在の「けがれ」が拭い去られている。そうやって、日本列島の住民は、「消えてゆく」。
「裂け目」に「消えてゆく」タッチを持っているものたちが、そういう「かわいいもの」に気づく。
「かわいいもの」に気づくことは、日本列島の住民の「みそぎ」である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
われわれは何に追いつめられているかといえば、生まれてから死んでゆくまでのあいだのこの生に閉じ込められてあるという、生きてあることそのもののかたちから追いつめられているのだ。
海に閉じ込められて生きてきた日本列島の住民は、そういう根源にことさら深く感じないではいられないような与件を負って歴史を歩んできた。
われわれの存在は、けがれている。しかし罪を負っているのではない。
こういうことをよく「恥の文化」などというが、そのむこうに「いたたまれない」という「けがれ」の自覚がある。それは、生きてあることの根源的な実存感覚である。
われわれは、この生がどんなに愚劣だと思っても、あの世の天国や極楽浄土に急いで行こうとも思わない。じつは、行けるとも思っていない。どんなにこの生が愚劣でも、この生の外には行けない。われわれは、この生に閉じ込められてある。そういう思いに浸されたら、もう、今ここで消えてゆくしかないし、消えてゆくことがカタルシスになる。
日本列島の住民は、消えてゆこうとする。
われわれは、あの世がどうのとか、地球上の広い世界がどうのとか、そういうことを勘定に入れて歴史を歩んできたのではない。そうやって自我を膨らませてゆくことを誰もがひとまず断念して、今ここで消えてゆこうとする身振りを共有しながら歴史を歩んできた。
深くお辞儀をしてあいさつするのは、そうやって消えてゆこうとする身振りである。
われわれにはもう、消えてゆくことしか、この愚劣な生から逸脱してゆくすべはない。
われわれは「けがれ」を負った存在だから、この生から逸脱してゆくことを願っている。
この「けがれ」は、どこに行っても注げないし、どこにもいけない。われわれは今すぐに、自分からあの世に行くことはできないし、あの世があると思っているのでもない。
われわれは、人間であるかぎり、そしてこの生にとどまるかぎり、清らかになるすべはない。
「みそぎ」をして、生まれ変わることができるだけだ。
生まれ変わるためには、ひとまず消えてゆかねばならない。
「われわれは毎朝生まれ変わっている」とか「人間の細胞はどんどん入れ替わっていっている」とか、そんな「科学的事実」を持ち出してもだめだ。そんなもの、ただの気休めに過ぎない。
これは、心の問題なのだ。
「生まれ変わる」ということと、「生まれ変わったという自覚」とは、また別の問題なのだ。そう思いたければ、いくらでも思うことができる。そうやって自分は清らかな人間であると自覚したり吹聴したりすることくらいは、誰でもできる。しかし、そうやって清らかな人間であると自覚すること自体が、生まれ変わっていないことの証しなのだ。清らかな人間になってしまったら、生まれ変わろうとする衝動なんか起きてきようがないではないか。
そうやって自我=アイデンティティに執着しているものは、生まれ変われない。
追いつめられて「けがれ」負っているという自覚を持っているものでなければ、生まれ変わるという「みそぎ」は果たせない。「消えてゆく」というカタルシスは体験できない。「かわいい」とときめいてゆくことはできない。
この生は、愚劣である。人間は「けがれ」を負った存在である。