「漂泊論」・31・生活主義と家族主義

   1・他人の気持ちがわかるという病理
「けがれの自覚」は誰の中にもある。
「けがれ」という言葉はなんだかドメスティックだが、人間性としてのこのことにアメリカ人も中国人もドイツ人も変わりがないはずである。
ただ、人は、それを意識の底に封じ込めて、それを忘れた意識生活を送ることもできる。
しかし、それで心が健康(自然)でいられるかどうかはわからない。
多くの心の病は、そのいったん封じ込めたはずの本性に裏切られるというかたちで起きてくる。
「けがれの自覚」を負った存在である人間は、自分のことを忘れて世界や他者にときめいてゆく存在でもある。
だから、他人の気持ちがわかった気になってしまうし、その他人が自分に悪意があると思い込んでしまったりもする。しかしそう思ってしまうということは、他人に対する反応を喪失してしまっていることでもある。
人は、他人を恨んだり怖がったりしていると、他人の気持ちがわかったような気になって、勝手に他人による自分への悪意を妄想してしまったりする。
それは、自分の他人に対するネガティブな感情が、そのまま他人の自分に対する気持ちにすり変わってしまう錯覚に陥るのだろう。そのとき人は、人間は自分のことを忘れて他者にときめいてゆく存在である、というその本性に裏切られている。自分の気持ちにすぎないのに、自分のことを忘れて他人の気持ちだと思い込んでしまう。
そうやって、見知らぬ他人が自分の悪口をいっているのが聞こえる、という幻聴現象になったりする。
自分のことを忘れてしまうのが人間なのだ。そしてそれは、先験的に「けがれの自覚」を負っている存在だからである。
キリスト教を信じようとユダヤ教を信じようと、心の底には人間としての「けがれの自覚」が疼いているのだ。
「イブが蛇にそそのかされてりんごを食べて楽園を追放された」という話だって、「けがれの自覚」からきているのかもしれない。
ただ、なぜ「蛇にそそのかされた」という話でなければならないのか。そこには、異民族(¬=他者)に対する悪意が投影されている。ラカンの「他者の欲望を欲望する=鏡像段階」という概念だって、同じレベルの発想である。そのときイブは、「蛇の欲望を欲望した」のだ。かんたんに他人の気持ちがわかったつもりになってしまう人間が、そういう発想をする。まあ、俗物の心理学者の考えそうなことだ。
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   2・確信を解体する作法
基本的に人間は、「けがれの自覚」を負って自分のことを忘れてしまう性癖を持っているから、何においても「確信」という心の動きを持てないのである。ただ、社会の約束として、確信した気になっているだけであり、社会の約束(制度性)は人を確信した気にさせる機能を持っている。幻聴現象だって、その機能によって起きている。
日本列島の深くお辞儀をして挨拶するのは、相手のことをたとえ近所の知り合いだとわかっていても、その確信をいったん解体する作法としてなされている。
「けがれの自覚」があれば、「確信している自分」を始末しようとする。日本列島においては、確信することは「けがれ」なのである。たとえ確信しても、確信を始末しようとするのだ。
たとえば、刑務所帰りであるのなら誰だってその人を「前科者」として確信するだろう。しかし、自分だって「けがれ」を負った存在なのだから、その確信をいったん解体して相手をまっさらなひとりの人間として見ようとする。それが、深くお辞儀をする、という作法である。
人間の「けがれの自覚」は、確信を解体する。
確信を解体し、他者をまっさらなひとりの人間として見ようとするなら、「他者の欲望を欲望する」という厚かましい確信などもてない。キスしてセックスしたからといって、「もう俺の女だ」と確信するわけにいかない。
そうやって他者の身体とのあいだに確信を解体する「空間=すきま」をつくり合うのが、人と人の根源的な関係意識なのだ。人と人は、そうやって連携してゆく。村と村のあいだの「空間=すきま」に道路をつくったり橋をかけたりするように。
人間は、確信する生き物である。だからこそ、確信を解体してゆくことにカタルシスを覚える。確信するとは、「けがれ」である。
人間は、身体の存在を確信している。それは、暑い寒いとか痛いとか空腹だとか、そういうかたちで必要以上に身体を強く意識している。この体験の蓄積の上に、確信という心の動きがつくられてゆく。
われわれは、ネガティブなことほど深く確信する。ネガティブだから確信する。このようにして幻聴が起きてくるのだし、野球のピッチャーは、三振を取ったナイスピッチングよりもホームランを打たれた記憶の方が頭から離れない。
人間にとって確信することは「けがれ」である。
だから、確信を解体しようとする衝動を持っている。解体して、「何・なぜ?」と問うてゆく場に立とうとする。そのようにして学問が生まれてきた。
たぶん芸術だって、同じだ。美しいものとは、この世にあり得ないもののことだろう。そのとき芸術家は、この世にあり得ないものに向かって「何・なぜ?」と問うている。感動するとはそういう体験であって、確信することではない。確信が解体されることこそ感動なのだ。
確信するだけですむのなら、学問も芸術も人間的な連携も生まれてこない。けがれを自覚しつつ、確信を解体してゆくことこそ、人間的ないとなみなのだ。
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   3・「けがれ」の語源
「けがれ」という言葉は、いつからあったのだろう。
もしかしたら、縄文時代からあった。日本列島の住民は、「けがれ」を強く意識する民族なのだ。四方を海に囲まれて異民族との関係を断たれていると、どうしても「けがれ」の意識が内向してしまう。
「ハレ」と「ケ」、などという。
「ケ」は日常で、「ハレ」は非日常の祭り。「けがれ」と「みそぎ」。
「ケ=け」という音声は、どのような感慨から発声されるのだろうか。
最初は、意味として発声されたのではない。意味として発声されたのなら、最初はひとつの意味しかなかったことになる。しかし言葉は、昔にさかのぼればさかのぼるほど、ひとつの言葉にたくさんの意味がついている。意味は、あとからつけられた。ただ感慨の表出で、意味なんかなかったから、あとからいろんな意味にあてはめられていった。
「あっ」と声に出してから、驚いた声だと気づくように。その音声は、意味なんか意識していない。
言葉は、この世の物事に名前をつけることとしてはじまったのではなく、物事に対する感慨の表出として生まれてきた。そのあとからその音声を物事の名前(=意味)にしていっただけのこと。
したがって、語源の言葉は、名詞とか体言というかたちではなく、動詞とか形容詞のようなかたちであったはずである。
この場合でいえば、「けがれ」の語源のかたちは「けがる」という動詞のような形容詞のようなかたちであったにちがいない。
「け」は、「けっ」とふてくされたときに発声される。「違和感」の表出。
「毛=け」、身体の表面の身体から逸脱した異物である。「もののけ」の「け」も同じ。
「け」は「違和」「逸脱」「分裂」「追放」の語義。
「蹴る」ことも「消す」ことも、まあそのようなニュアンスだろう。
ともあれ最初は、「違和感」の表出として生まれてきた。
「が=か」は、「かっとなる」の「か」。確信してしまうこと。心のかたちがひとつに染め上げられてしまうこと。
二つのものがひとつに合わさることを「噛む」という。
「かたや」とか「美しくかつ優雅」というときの「かつ」の「か」は、「もうひとつ」のという意味で、やっぱり「ひとつ」をあらわしている。
動物を「飼う」ことは、動物と固有の関係を結ぶこと。
「か」は、「確信」「決着」「固有」の語義。
「か」は、強く気づく感慨から表出される音声。
つまり、「けがる」の「けが」とは、頭の中が違和感でいっぱいになること。すなわち、身体の鬱陶しさが充満すること。これが、おそらく語源だ。
まあ、「けがをする」の「けが」だって、そのようにして身体の痛みに強く気づいてゆく体験にちがいなく、けがをすることも「けがる」といっていたのだろう。
鬱陶しさが充満することはなんでも「けがる」といっていたのだ。けがれた心や人格があったのではない。「けがれ」という感慨があったのだ。
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   4・共同体の中の「いけにえ」という存在
二本の足で立ち上がった原初の人類は、「けがれの自覚」を負って旅に出た。ここから人類の歴史がはじまった。
人間は、「けがれの自覚」から生きはじめる。
赤ん坊が生まれおちてきたとき、この世界の空気と出会って体中がざわざわする。「けがれの自覚」はここからはじまっている。
われわれは「けがれの自覚」を反芻しながら生きている。現代人は他人に「けがれ」を押し付けたりして、それがわが身のことではないかのような思考で暮らしているが、それでも人は心の底で「けがれ」を反芻しながら生きている。
だから、共同体には、「けがれ」を一身に背負っている「いけにえ」という存在が必要なのだ。誰もの中にも「けがれの自覚」があるからこそ、何か自分の分まで代わりに背負ってくれているような「いけにえ」という存在を前にして、心を軽くする。あるいは、自分もまた「けがれ」を負って生きているのだとあらためて気づく。
自分の「けがれ」なんか、誰が肩代わりできるものでもない。自分で洗い流すしかない。そのとき自分よりももっと深い「けがれ」を負った存在が「いけにえ」として「けがれ」をそそぐパフォーマンスを見せてくれれば、自分も一緒に「けがれ」を洗い流しているような心地になるのだろうか。
共同体は、「けがれ」を排除するシステムの上に成り立った装置であるが、人が「けがれの自覚」から逃れられるものではない。だから、同時に「けがれ」を洗い流す装置も必要になる。それが、「ハレ」としての娯楽や祭りである。
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   5・戦争によって失われたのは「日常生活」ではない
しかし戦後の高度成長は、「日常」から徹底的に「けがれ」を排除する方向に進んでいった。日常生活を快適で豊かなものとして飾ってゆくことによって、日常から「けがれ」を排除していった。
終戦直後の日本人は、生活よりも娯楽を求めていた。戦時中の経験から、貧しい暮らしには慣れていた。彼らがせつに欲したのは、娯楽やセックスや祭りだった。
しかし経済成長とともに、日常生活そのものに耽溺するようになっていった。家を建て、車を買い、家庭電化製品をそろえ、おしゃれな服を着ておいしいものを食べるなどして日常生活を飾っていった。
豊かな暮らしと耐乏生活の違いはあれ、それは、「けがれの自覚」がないということにおいて戦時中と同じなのだ。
たとえば吉本隆明氏は、「大衆の原像」という概念とともに、日常生活に耽溺することをプロパガンダしていった。
そういう「生活主義」「家族主義」の風潮は、今なお続いている。そのようにして人々は、「けがれの自覚」どんどん失っていった。
「けがれの自覚」を失うということは、他者や世界に対するときめきを失って意識が「自分」にばかり向いているということであり、それが現代生活のひとつの病理のかたちになっている。「けがれの自覚」がないから、「みそぎ」という「ハレ」の体験もない。高度成長のころは、日本中からどんどん祭りがなくなっていった。
そのようにして「みそぎ」の体験を失った戦後の日本人の顔は魅力的でなくなってきたし、生活が豊かになる一方で、鬱病や自殺などの社会的な病理も深刻になってきた。
世界や他者にときめいてゆくことは、「けがれの自覚」を負ったものが自分を洗い流す「みそぎ=ハレ」という行為である。
吉本氏は、大衆が御飯を炊いたり魚を焼いたりする生活のいとなみこそもっとも尊く価値がある、といった。
そうじゃない、人間の普遍的な日常生活は、「けがれの自覚」とともにある。「けがれの自覚」とともにやり過ごすほかないのが日常生活であり、やり過ごすための作法として、ご飯の炊き方や魚の焼き方が工夫されているのだ。
この国の伝統的な大衆は、吉本氏が思うほど、日常生活やみずからの生命を価値あるものとして耽溺しているのではない。日常生活も生きてあることも「けがれの自覚」とともにやり過ごしながら、「みそぎ」としての娯楽や祭りに熱中してゆくのだ。
「自分」や「日常生活」に耽溺するのではなく、「自分」や「日常生活」から旅立ってゆく「みそぎ」の行為に熱中してゆくのが大衆なのだ。
終戦直後の人々は、日常生活に耽溺などしなかった。ひたすら非日常としての娯楽やセックスや祭りを求めていた。戦争によって奪われるのは「日常生活」ではない、「ハレ=非日常」なのだ。
吉本氏の「大衆の原像」という概念など、ほんとにくだらないと思う。人間性の普遍とか自然というものが、なんにもわかっていない。何が戦後最大の思想家か。
吉本氏が戦後の日本人の意識をゆがんだものにしてしまったというつもりはないが、経済成長がはじまって人々が日常生活や家庭生活に耽溺してゆく時流にうまく乗ったのだろうとは思う。そうして彼の思想は、誰もが「けがれの自覚」を希薄にしてゆくそんな生活に免罪符を与え続けた。
吉本氏もそのシンパたちも、彼らは、いかにも現在的な「けがれの自覚」が希薄なナルシズムを共有している。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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