「漂泊論」・30・けがれの自覚

   1・現代社会では、なぜ「けがれの自覚」が希薄なのか
本居宣長は「もののあはれ」を問題にしたのではなく「もののあはれを知る心」のことを問題にしたのだ、と小林秀雄はいっている。
「けがれ」のこともまた、日本列島では、「けがれ」そのものよりも「けがれの自覚」を持つことこそが問題になった。
古代において「けがれ」は、生きてあることの鬱陶しさやしんどさとして自覚されるものだった。
なのに現代人は、「けがらわしい」などといって他人を差別し排除するための言葉として用いて、自分が背負っているものだという意識が希薄になっている。
つまり、共同体が排除する対象を「けがれ」といっている。
たとえば「死」は共同体が排除するものだが、誰もがみずからの運命として背負っているものでもある。「けがれの自覚」のない共同体などない。共同体は、罪人や不具者や病人や老人や異民族を「けがれ」として排除するシステムを持っていると同時に、それらを「けがれの自覚」としてみずからの内に抱え込んでもいる。
「けがれ」は、みずからの「内なるもの」として「洗い流す」ものであって、ただ単純に「共同体の排除のシステム」としては説明しきれない。
排除するのは、「三角関係」の問題である。たとえ「けがれ」として排除するとしても、共同体自身や個人に「けがれの自覚」がないとはいえない。
葬送儀礼は、もともと死という共同体の内なる「けがれ」を洗い流す装置であったが、やがて「天国」や「地獄」や「極楽浄土」などという「あの世」に向かって死者を排除する思想に変わっていった。それは、氷河期明けの人類が、異民族との関係や一夫一婦制の家族の発生などで「三角関係」に目覚めていったことによる。
人と人は、三角関係にならなければ、「排除する」という衝動は起きてこない。
現代人がイメージする人と人の関係など、愛であれ何であれ、つねに三角関係の上にイメージされているから、べたべたとくっついたり逆に排除したりというようなかたちになってしまう。
ラカンは、「他者の欲望を欲望する」などといった。
他者の心などわかるはずもないのに、他者の欲望を自分の中に引き込むことなどできるはずがないではないか。それでもそんな理屈があたかも真実であるかのように信じられてゆくのは、現代人はそれほど人と人の関係をくっついたものにイメージしてしまっているからだ。
彼らは、第三者を排除しながら、その反作用で必要以上にくっついてゆく関係をつくっている。また、排除するということ自体が、人間らしからぬ馴れ馴れしさであるといえる。
他者を第三者として排除するとき、人は、みずからの「けがれ」を自覚していない。
直立二足歩行をはじめた人類は、そこで「けがれ」を自覚し、他者を排除しないことによって、猿としての限度を超えて大きく密集した集団を形成する能力を獲得していった。
人間の集団は、「けがれの自覚」の上に成り立っている。
二本の足で立っていることの「けがれ」というのがあるのだ。
三者を排除しないものは、馴れ馴れしい関係もつくらない。
しかし現代社会は、排除と馴れ馴れしさの関係を際立たせることによって、豊かさを築き上げると同時に、社会的な病理もより深く進行させてしまっている。
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   2・二つの異人論
四方を海に囲まれている日本列島では、氷河期が明けても本格的に異民族との関係を持つことがなかったから、共同体(国家)の発生も一夫一婦制の家族のはじまりも、大陸よりは何千年も遅れた。つまり、三角関係の排除の論理が発達しない歴史を歩んできた。そうやって、ひたすら「けがれの自覚」の上に文化を紡いできた。
『異人論』の著者である小松和彦氏と『異人論序説』の赤坂憲男氏は、現在の民俗学を代表する研究者であるらしいのだが、どういうわけか二人とも、それらの著書の中で、「村人にとって村は聖域で、村の外はけがれの地だと認識していた」という論理で説明している。
そういうことではないんだなあ、彼らもまた、「けがれの自覚」が希薄なバブリーな時代意識にまきこまれてしまっている。
日本列島の住民は誰もが「けがれ」を自覚していた、ということにこそ民俗学の基礎があるのだ。日本列島の住民だけではない、「けがれの自覚」こそが、二本の足で立っている猿である人類の普遍的な生の感慨なのだ。
村の外が「けがれの地」であるのなら、誰が旅なんかするものか。誰が村どうしで連携して村と村のあいだの「空間=すきま」の地に道路や橋をつくったりということをするものか。ある意味で、その「空間=すきま」こそ、村人にとっての聖域だったのだ。だからそこで、市をひらいたり祭りを催したりした。
彼らにとって村こそが「けがれ」の地であり、その「けがれ」をそそぐために、村はずれに神社や寺などの聖域をつくって「祭り」を盛り上げていったのだ。
西洋では、都市の中心に聖域としての広場や寺院がある。それは、異民族に対して自分たちが住む地域を聖域として守ろうとする意識があるのかもしれない。
しかし日本列島では、村はずれこそ、村と村が連携して自分たちの「けがれ」をそそぐための聖域になっていた。
日本列島では、「異民族を排除する」という論理の文化が育たなかった。異民族に「けがれ」を押し付けるという文化を持つことができる風土ではなかった。「けがれ」は、ひたすらわが身に負ってそそいでゆくという文化を育ててきた。
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   3・三角関係は、人間の普遍的な関係ではない
罪人や不具者や病人や老人や異民族、これらの「異人」は、共同体にとっての「けがれ」であると同時に「聖なるもの」にもなる。
「異人」自身がみずからのけがれを洗い流しているのなら、その異人は「聖なるもの」である。異人は、けがれているがゆえに、けがれを洗い流す作法を持っている。だから「聖なるもの」として見られる。
「聖なるもの」とは、最初からけがれていないのではなく、けがれを洗い流したもののことだ。
昔は「河原乞食」といわれた芸能人という異人は、ひといちばい強く「けがれの自覚」を負っている。だから、けんめいに洗い流そうとする。その姿に民衆は、「聖なるもの」を見ている。現在でも、民衆と芸能人はきっとそういう関係なのだろう。
「けがれ」は、誰もが負っている……古代人には、そういう自覚があった。だから、古代の共同体、少なくとも村には、排除のシステムは希薄だった。
村を訪れた旅人=異人は、あつくもてなされた。そのとき旅人も村人も、誰もが「けがれを洗い流す」体験に向かって交歓していた。
基本的には、「けがれ」だから排除するのではなく、排除するのは「三角関係」の問題である。
他人をけがれている存在だと思い、自分はけがれていない存在だと思う。そう思うときに排除が起きるのであり、その「けがれの自覚」がないことはきわめて現代的な病理であって、民俗学の問題ではない。古代人や原始人がそんなことをしていたわけではないし、それが人間の本性であるのでもない。
古代人は、誰もが「けがれ」を自覚していたし、それは「排除する」ものではなく「洗い流す」ものだと思っていた。
「排除する」ということは、人類史の普遍の問題ではない。
直立二足歩行の開始以来、人類は、旅人や移民を受け入れてきたのであって、追い払うとか殺して食ってしまうというようなことを繰り返してきたのではない。人類がそんなことをする種なら、とっくに滅びている。たぶん、直立二足歩行をはじめたとたんに滅びてしまっている。
たとえば、サバンナを横切ってその森にやってきて疲れ果てている旅人を、もう一度肉食獣がうようよいるサバンナに追い返せるだろうか。人間の本性が旅人を排除するという習性を持っていたら、旅をするという習性が生まれてくるはずがない。
原始人は、排除されて旅立っていったのではなく、「けがれ」を自覚して旅立っていったのだ。原始人だけではない。現代人だろうと、人が旅をするということの根源的な衝動はそこにある。
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   4・あのころ流行った「ノマド」という言葉はなんだかいかがわしい
4万年前のアフリカのホモ・サピエンスは、現在の遊牧民族のように家族的小集団で移動生活をしていた。まあそれは旅といえば旅なのだが、そういう移動生活をしているがゆえに、じっとしていることの「けがれの自覚」は希薄である。だから彼らは、自分たちの移動ルートの外に旅立ってゆくということはしなかった。そのようにして、同じアフリカなのに、ピグミーやホッテントットなど、さまざまに身体形質や言語習慣の違う人種へと枝分かれしていった。
彼らは、じっとしていることの「けがれの自覚」が希薄だから、あまり考えつめて思い悩むということがない。だから、何千年も何万年も、そんな生活を続けることができる。
良くも悪くも、遊牧民の文化や文明の発達や変化は、定住民に比べてずっと緩やかである。
定住民の方が、文明の発達や変化が過激である。
定住民の方が、じっとしていることがしんどくなって旅立ってゆくということをする。そして人間は、疲れ果てるまで歩きつづけてしまう生き物だから、もうもとのところに戻れなくなってしまう。人類の地球拡散は、そのようにして起きてきた。それは、遊牧民によって実現されたのではなく、定住することの「けがれの自覚」によって起きてきたことなのだ。
まあ歴史的に、遊牧民が排他的で戦闘的でないとはいえない。
現在のグローバル企業の活動は、遊牧民に似ている。だから「けがれの自覚」が希薄である。けがれの自覚が希薄だから、「排除する」ということを平気でする。彼らの企業活動は、「排除する」という心理の上に成り立っている。「派遣切り」なんか当然の正義だと思っているし、販売競争それ自体が、ほかの商品を駆逐するという排除の論理の上に成り立っている。
そういう意識の人間たちがリードする社会であれば、世界全体がそういうシステムになり、世界中の人間の意識がそのようなかたちになってしまっている。
「けがれの自覚」が希薄になり、「排除の論理」が特化した世界になってしまっている。
原始人は旅人という異人をけがれた存在として怖れ排除していた、というようなことをいって自分たちの「遊牧民ノマド)の論理」を正当化しているかぎり、現代人の病理のかたちは何も見えてこない。
遊牧民ノマド)」とか「外部」という言葉を流行らせたのは、バブルのころに台頭してきたニューアカデミズム(ポストモダン)の知識人たちである。彼らはこれを、自分たちの世界に対する反抗の根拠として使った。しかし皮肉なことにこの言葉は、現在のグローバル企業の傍若無人な態度の免罪符になっている。
ようするに彼らもまた、バブルに踊らされた人種だったのだ、柄谷行人蓮実重彦浅田彰も。
鏡像段階」という言葉だって、エリートぶった世の成功者や知識人によるプロパガンダを正当化する機能を果たしている。人間は真似をする生き物だからおまえらはわれわれのいうことを聞いて見習え、というわけだ。彼らには「けがれの自覚」がない。「けがれの自覚」を持たないのが「選ばれた人間」であることの証しであるのなら、世界中の人間がそんな自覚のない存在として振舞おうとするようになってゆく。
今や人々は、説得(プロパガンダ)できるのが人間であることの資格や優秀な能力であるつもりでいる。そうやって、正義ぶって「クレーマー」になったりする。
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   5・あなたは幸せか
「けがれ」という言葉を、わが身のことではなく「排除」のための道具として使うようになってきたのは、現代になってからである。
平和で豊かな時代になれば、身体の鬱陶しさから逃れて生きられる。人間だって生き物だから逃れられるはずもないのだが、ひとまず観念的に、身体をいとおしみ、生命の尊厳を掲げて生きてゆける。しかしその思考自体が、何かを排除することの上に成り立っている。いとおしくない何かを「けがれ」として排除して、いとおしむのだ。尊厳ではない何かを「けがれ」として排除して、尊厳というのだ。
不幸という「けがれ」を排除しながら幸せになってゆく。しかし、いざ不幸になったとき、その「不幸を排除する」という思考によって、不幸に耐えられなくなってしまう。
人間は、もともと不幸を引き受けてしまう存在である。どんなに観念的に不幸を排除しても、われわれはどこかしらに不幸を引き受けてしまう習性を持ってしまっている。人類は、そうやって文化や文明を発達させてきたのだ。
この世に、不幸にならない生存などない。生き物として生きていれば、暑い寒いや痛いとか空腹というような不幸はついてまわる。平和で豊かな時代になれば、そういうことをかんたんに回避できる。しかし心の底では、そのたびに生きることにそういう不幸がついてまわるということに気づき受け入れている。そういう不幸に気づかなければ、それを回避するよろこびもない。
人間は、不幸を排除することができない。どこかしらに、受け入れる心を持ってしまっている。
君が不幸であるのは、不幸になりたかったからだ……といわれれば、そうかもしれないと思ってしまう。
そうして、年老いてゆく不幸や死んでしまう不幸は、誰もが引き受けるしかない。われわれはもう、不幸を引き受けるトレーニングをして生きているようなものだ。
「けがれ」はもう、引き受けて洗い流すしかないし、そこにこそ生きてあることの醍醐味がある。
「けがれ」を排除してしまうこと、これが、現代社会の病らしい。
たとえば内田樹先生や上野千鶴子氏のようにけがれを排除し自覚していない上機嫌の大人の顔はなんだか暑苦しくて、けがれを引き受け自覚している疲れ果てた人の顔の方がさっぱりしている、というパラドックスはあるんだよね。
戦後社会の、平和で豊かになってゆく階段を一挙に駆け上がってきたことの病理というのはあるらしい。それによってわれわれは、「けがれの自覚」を振り捨ててきた。
暑苦しいグロテスクな顔をしているくせにさ、いまどきの大人に「けがれの自覚」は少しもないらしい。
僕のまわりでも、老いてくるほどに「けがれの自覚」を捨てて居直り、自分の現在の生を正当化したがる傾向があらわになってきている。それは逆だろう、と思うんだけどさ。
たぶん戦前までの日本人は、老いるほどに「けがれの自覚」を深くし、一日一日自分の生の始末をつけながら、しだいに消えてゆくように死んでいったのだろう。
つまり、「この生」や「自分」に対する執着をだんだん薄くしてゆく老い方というのは、きっとあるのだろうと思う。
愚痴をいってもしょうがないけど、日本列島には、そういう老い方の作法の伝統があった。
それが「けがれの自覚」ではないだろうか。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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