「漂泊論」・29・けっきょく戦後社会の問題なのか

   1・子供の心を囲い込もうとするな
マインドコントロール、という。
精神を病むということは、何かにマインドコントロールされてしまっている、ということだろうか。そうやって親や社会に囲い込まれて子供の心が病んでゆくのだろう。
内田樹先生は、「大人になる、とは共同体の一員として成熟することであり、そのように子供の心を導いてやらねばならない」といわれるが、そうやって「大人になる」とは、心が病んでしまうことなのであり、大人の時代はそれで生きてゆくことができても、子供の時代はそれでは生きられないのである。あなたたちは、どうしてそこのところがわからないのか。どうしてそうやって平気で子供の心を囲い込もうとするのか。
それで女房子供に逃げられたくせに、何をえらそうなことをいっているのだろう。
世の中には、他人を束縛する気配を強烈に発している人がいる。
まあすべての親は、どうしても子供に対してそんな気配を発してしまう。
しかし、大人の生きる流儀と子供の生きる流儀は違うのですよ。その違いは、認めてやらないといけない。「成熟に導いてやる」と、えらそうな顔ばかりしているわけにいかない。そうやって子供にそむかれたり、子供を追いつめてしまっている親は、いくらでもいる。
そりゃあ、この社会では自然な心の動きになれば上手に生きてゆくことができるというわけでもなく、むしろそれなりに生きにくさを背負い込むことにもなるのだが、それはまあ引き受けるしかない。もともと人間はそのように生きている存在であり、生きにくさを引き受けてしまう習性を持っている。そのように生きてしまえばもう、そのようにしか生きられない。人間の生のいとなみに、生きにくさはどうしてもついてまわる。そういう習性の上に、現在の、社会そのものが病んでいる、という状況が生まれてきた。
社会に適合しているとは、病んでいるということだ。だから誰もが、自分は人とは違う、と思いたがる。
社会が病んでいることは、すでに誰もが気づいている。
誰もが「自分は人とは違う」といいたがったり思いたがるということは、人間は生きにくさを引き受けて生きている存在である、ということを意味する。引き受けていなければ生きたことにならない、という気分がある。
そういう現在の「抵抗感」から、生き物の身体は動く。「抵抗感=圧力」という契機がなければ、体が動く(=生きる)エネルギーが湧いてこない。
赤ん坊がお母さんのおっぱいにむしゃぶりついてゆくことだって、この世界からの何らかの圧力を受けているからである。ただはじめからむしゃぶりつくようにできている、というわけではないのだ。
はじめから生きるようにできている赤ん坊なんかいない。生きるようになってゆくのだ。この世に生まれてきてから、その心や行動の生きるような仕組みがつくられてゆくのだ。
その仕組みをつくるのが、この世界の「抵抗感=圧力」である。そこから、根源的な衝動=欲望が生まれてくる。それを、前回のこのページでは「けがれの自覚」と書いたのだが、生き物に、最初から生きるようにできている「本能」などというものはないのだ。そんな都合のいいものが遺伝子の中に刷り込まれているのではない。
生き物の根源的な衝動=欲望は、生まれおちてあとからのこの世界との兼ね合いでつくられてゆく。われわれの遺伝子は、すべてが機能しているわけではない。この世界との兼ね合いで、機能できる遺伝子とできない遺伝子がある。
生き物の生きるいとなみは、世界に対する「反応」としてつくられてゆくのであって、最初から生きる仕組みがあるわけではない。
まあ、生き物がこの世界に生まれ出てくることは、「出たとこ勝負」なのだ。
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   2・先験的な生きる装置などというものはない
生き物の生きるいとなみは、「出たとこ勝負」の「苦しまぎれ」なのだ。
世の中には、「鏡に映った自分の姿を見てそれを自分だと気づくことに人間的な欲望の本質がある」といっている人がいる。つまり、欲望とは自分を知ろうとすることであり、それこそが人間性の基礎である、といいたいらしい。
何をくだらないことをいっているのだろう。あきれ果てる。
赤ん坊の生きる機能は、世界との兼ね合いで後天的に「つくられてゆく」のであって、最初からそなわっているのではない。したがって、赤ん坊に、自分を確かめようとする衝動=欲望などない。
自分の外の世界に「反応」しようとする衝動があるだけだ。自分を確かめたいのではなく、世界を確かめたいのだ。世界に反応し、世界を確かめている場において、自分(の身体)のことを忘れていられれる。
赤ん坊は、自分(の身体)を知りたいのではなく、自分(の身体)のことを忘れたいのだ。
赤ん坊は、知りたいと思うような自分(の身体)など持ち合わせていない。
赤ん坊の生きるいとなみは、体ごと世界に反応しながら、自分(の身体)を忘れてしまうことにある。自分(の身体)を忘れることが赤ん坊の仕事であり、欲望のかたちなのだ。
赤ん坊の心は、自分(の身体)から離れ、世界に向けて旅立っているのだ。
J・ラカンの「鏡像段階」という概念なんて、ほんとにくだらない倒錯だと思う。
人間性の基礎は「自分を知る」ことにあるのではない。
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   3・「自分」の充足、という病理
欲望の達成とは、「自分を知る」ことか。そういう自己意識が人間の本性だと、彼らはいう。
まあそういう思い込みで子供を囲い込み、子供の心を自分(=身体)から旅立てなくさせてしまっているのだ。今はやりの「発達障害」は、ほとんどがこうした現象として起きている。
ラカンの「鏡像段階」という概念は、正確でないどころか、現在的な病理の元凶になっている。
赤ん坊がお母さんのおっぱいにしゃぶりつく衝動は、べつに自分を知ろうとしているわけではないだろう。それは、そんなお気楽で空々しい観念的な衝動ではない。
それはそれで、切実な「苦しまぎれ」の行為なのだ。
「苦しまぎれ」だから、けんめいにむしゃぶりついてゆくのだ。
「苦しまぎれ」という契機がなければ、生き物の身体が動くという現象は起きてこない。
「鏡を見て自分に気づく」とか、そんなお気楽で空々しい論理で欲望の根源を語ってもらっては困る。
赤ん坊は、けんめいに乳首にしゃぶりついているのだ。お母さんに聞いてみればいい。こんな無力な存在のどこにこんな力があるのかと、お母さんは驚き胸が震えている。
それは、「自分を知る」ためなどというお気楽な衝動ではないし、その衝動を根源といわないで、どこに根源があるというのか。赤ん坊は、この衝動を発達させて生きてゆくのであり、大人の衝動だって根源的にはこの延長としてはたらいている。
まったく、ラカンだろうとその信奉者だろうと、あなたたちは頭悪すぎるよ。自意識過剰に居直っている自分たちの観念的制度的な欲望をそのまま赤ん坊のイノセントにも当てはめている。そうやって自分を正当化し、安心している。
つまりあなたたちは、「自分」から離れて赤ん坊の心の向かって旅立っていない。そういう「けがれの自覚」と「みそぎのカタルシス」を持っていない連中が、「鏡像段階」と合唱していい気になっていやがる。
あなたたちと違って赤ん坊の心は、自分(の身体)に意識が充満する「けがれ」の状態からけんめいに旅立とうとしている。
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   4・猫だって魚だって「自分」に気づいている
「自分」なんか、生まれたばかりの赤ん坊だってすでに知っている。
おぎゃあ、と泣くのは、それ相応の「意識」が発生している事態だろう。そのとき、何らかの居心地の悪さが発生している。
それは、自分の身体に気づいてしまうことの居心地の悪さだ。われわれが暑いとか寒いとか痛いとか息苦しいとか空腹だとか感じることも、自分の身体に気づくことの居心地の悪さとして体験している。
自分の身体に気づくことは、「自分」に気づくことだ。
猫だって魚だって「自分」に気づいている。
海の底の魚は、自分の体がその狭い岩のあいだをすりぬけてゆくことができるかどうかということをちゃんと知っている。それは、「自分」を知っている、ということだ。
猫は、自分が犬ではないことをちゃんと知っていて、猫どうしの関係をつくってゆく。
生き物は、すでに「自分」を知っている。したがって、「自分」を知ろうとする欲望が根源においてはたらいていることは論理的にあり得ない。
生き物にとって「自分(の身体)」は、知ろうとする対象ではなく、いやおうなく知らされてしまう対象なのだ。そうやって、先験的に知ってしまっている。
「自分」を知ってしまったところから生きはじめる、と言い換えてもよい。
鏡像段階」だなんて、ほんとに陳腐で嘘っぽいへりくだ。
おっぱいにむしゃぶりついている赤ん坊は、そのとき鬱陶しい自分(の身体)を忘れたいのである。われわれだって、寒がっている自分(の身体)を忘れたくてセーターを着るではないか。
欲望は、自分(の身体)を忘れようとする衝動として発生する。つまり、自分(の身体)を忘れてしまうカタルシスに向けて発生する、ということだ。
人間の人間であるゆえんは、「自分を知っている」ことではなく、「自分を忘れてしまう」カタルシスをより深く体験していることにある。
欲望という言葉はあまり好きではないが、その概念の正味は、「自分を忘れてしまう」カタルシスに向けて問われなければならない。
赤ん坊は、自分(の身体)を忘れたがっている。というか、人間そのものが、そのように存在している。なのに、大人たちが寄ってたかって「自分を知る」という方向に赤ん坊や子供の心を囲い込んでしまえば、その成長の仕方も当然ぎくしゃくしてくる。
大人たちの自分に執着するその観念=制度性で子供の心を囲い込んでしまい、世界に向けて旅立ってゆくことができなくしてしまっている。
もともと人間どうしはたがいの身体のあいだに「空間=すきま」をつくっている存在なのだが、べったりと子供にくっついて、身動きできなくさせてしまう。
人の心は、その「空間=すきま」に向かって旅立ってゆく。旅立ってゆこうとする「けがれの自覚」を持っている。
しかしいまどきは、「けがれの自覚」がなくて「自分」の充足に向かうことばかりしている大人たちがあふれている。大人たちはそれですむのかもしれないが、赤ん坊や子供はそれではすまない。そんなふうに仕向けられたら、心が病んでしまうのだ。
戦後のこの国は、「けがれの自覚」のない大人たちを大量にあふれさせた。それはたぶん、バブル景気によって決定的になった。
「自分を知る」ことが人間性の本質だといいたがるなんて、ようするに世の中をなめきっているのだ。今や、そういう大人たちがあふれかえっている。
ラカンの「鏡像段階」という概念は、人間の自然=本質や子供の発達段階を示しているのではなく、自意識過剰な大人の病理をあらわしているにすぎない。この国にラカンを信奉している知識人がたくさんいるということは、そのようにしてこの国が病んでいるということを証明している。
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