「漂泊論」・28・身体の物性からの旅立ち

   1.自分という場所
生き物は、「死」という自然の摂理に打ちひしがれている存在である。われわれは、そこから生きはじめる。
僕自身は、失恋がつらいものであるのかどうかということはじつはよくわからないのだが、深く愛していたからこそつらいとかあきらめられないとか、必ずしもそうとはいえないだろう。
自分が好きで自分に執着する分だけつらくてあきらめられない、という場合もある。
自分で自分のことが好きではないのなら、相手が自分のことを好きではないのも「仕方がない」とひとまずあきらめることができるにちがいない。自分に幻滅しなければ、失恋はあきらめられない。自分を洗い流さなければ、というか。
自分が好きな人にとっては、そんなことはあってはならない。だから、相手が許せなくなってしまうし、その自分が好きな気持ちが反転して自分のみじめさに打ちひしがれることにもなる。そして、打ちひしがれそうだから、何がなんでも相手が悪いということにしてしまおうとする。
失恋した人の気持ちもいろいろだろう。
失恋したからこそ、神のような心になっている人もいる。たとえば、泣いて泣いて泣き疲れてしまえば、自分にこだわる気持ちも相手に執着する気持ちも消えてしまうことがあるのかもしれない。そのとき人は、神のような存在になっている。そしてそれは、人間の根源に遡行している状態でもある。
人間の根源には、凶悪で混沌とした心が潜んでいるのではない。そんな心は、自分にこだわるあくまで観念のはたらきにすぎない。
自分にこだわる現代人はそんなややこしい情動を持ってしまっているが、原始社会においては希薄だった。
人の心は、自意識が希薄で凶悪になるということはない。凶悪な心の動きとは、自意識の塊になっている状態のことだ。
僕が、団塊世代なんかみんなさっさとくたばってしまえ、と思うのは、僕の自意識の病だ。
そういう「けがれ」を洗い流すことを「みそぎ」という。
人間性の根源はそうやって「ぐったり疲れ果てている」ことにあり、その場所から世界にときめいてゆくことが、ここでの「漂泊論」のテーマなのだ。
「自分を好きにならなければ人を好きになることもできるはずがない」などと、それがあたかも真理であるかのようにのうのうと吹聴している俗物の知識人とか坊主がうんざりするくらいたくさんいる。
内田樹先生も、そのひとりだ。
まあ、こんな言い方をされれば、多くの人が安心する。そういう自己撞着をうまく処理できないで苦しんでいる若者たちは、それでひとまず安心する。そうして大人になって、その自己撞着を飼いならしてゆく。
しかし多くの若者は、大人たちのそういう姿を見て、「大人になりたくない」という。
つまり、ピーターパン症候群、この言葉が盛んにいわれるようになってきたのは、バブル期以降のことである。その繁栄の狂乱によって、大人の顔やしぐさが、一挙に醜くなっていった。
彼らは「自分を好きにならなければ人を好きになることもできるはずがない」と居直って、自意識を処理する「みそぎ」の作法をすっかり失ってしまった。
人間は、どんな動物よりも自意識が肥大化した存在であるがゆえに、自意識を処理する作法を持っている存在でもある。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、肥大化した自意識を処理する体験だった。
人間は、肥大化した自意識を処理しながら生きている存在である。失恋することは、ある人にとってはそういう根源に遡行する体験であり、またある人にとっては自意識がさらに肥大化して暴走する体験になったりもする。
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   2・欲望の根源
現在のこの国において自意識過剰に居直った大人があふれかえっていることは、なんかやりきれない。そしてそんな大人たちに正義や人間の真実を語られても、やめてくれよ、そんなことあるものか、と思ってしまう。
J・ラカンは「人間の欲望は他者の欲望を模倣して生まれてくる」というようなことを言っている。鏡に映る自分の姿を見て、それが自分だと気づくように。
赤ん坊は、お母さんから愛されていることを知って自分もお母さんを愛するようになる……というようなことだろうか。
他者の愛を愛する……内田樹先生は、そんなようなことを言っておられた。
じゃあ、お母さんから愛されていない子供はお母さんを愛していないのか。愛されていないからこそ余計に切なくお母さんを愛している子供だっている。
お母さんに捨てられた子供はみんなお母さんを愛していないのか。そういう子供には、お母さんから愛されているという確証なんか何もない。それでも、お母さんを愛してやまない子供はいくらでもいる。
ラカンの、この「鏡像段階」という概念は、現在の心理学に大きな影響を与えていると同時に、現在の心理学が停滞してしまっていることの元凶にもなっている。なにしろラカンには、哲学者や人類学者や社会学者にまで信奉者がたくさんいる。
ミニスカートが流行るのは、ミニスカートをはいているものの欲望を誰もが模倣してゆくからである、ということだろうか。
じゃあ、最初にミニスカートをはいたものは、誰の欲望を模倣したのか。べつに、ミニスカートに対する欲望を模倣するのではない。最初にはくものだろうとあとからはくものだろうと、誰の欲望を模倣しているのではない。誰もが固有にミニスカートを欲望しているのだ。人を真似るのではない。人がはいているのを見て、自分の中にミニスカートに対する欲望がすでにあったことに気づくだけだ。
欲望は、根源的には自発的なものであって、他者から与えられるのではない。ここにおいて、ラカンのいうことは決定的におかしい。
だいたい、他者の欲望なんかわかるはずがないじゃないか。そのミニスカートは、いやいやはいているだけかもしれない。それでもその姿を見て、自分もはこうと思うものが出てくる。それは、欲望を模倣しているのではない。欲望は、自分の中にすでにあった。すでにあったことに気づくだけだ。
人は、欲望してから欲望に気づく。それは、「他者の欲望」ではない。僕はラカンのいうことなんか信じない。
フランスの知識人は、わざと理解しにくい文章表現をしたがる傾向があるらしいが、ラカンのいっていることなんて、その文章表現の難解さに反して、内容は陳腐で制度的で程度が低すぎる。思い付きばかりで、探究なんかしていない。
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   3・「鏡像段階」という嘘、欲望とは身体の物性からの旅立ちである
赤ん坊の最初の欲望がおっぱいにしゃぶりつくことだとしたら、その欲望はどこからくるのか。
まあ、ラカンも内田先生も、赤ん坊なんか人間以前の存在だと思っているふしがある。だから彼らは、最初におっぱいにしゃぶりつくことなんか欲望の範疇に入れていない。だが、そのことこそ説明できなければ欲望の根源的なかたちを解き明かしたことにはならないのだ。
人のまねができるようになってはじめて人間になり、まねをすることが欲望なんだってさ。アホらし、くだらね……。
人間性の根源は、他者を「模倣」することにあるのではなく、他者に「反応」することにある。このことを、ラカンも内田先生もわかっていない。
生まれたばかりの赤ん坊にとって、この世界の空気は、身体がはじめて体験する不思議な感触である。それにおびえて、おぎゃあ、と泣く。
身体の物性と外の空気の非物性との差異、胎内にはこんな感触はなかった。
胎内には空気などなかったから、身体の物性も意識することはなかった。外に出てきて、はじめて知らされた。そのとき身体の物性が充満して、身体がざわざわしている。
そうして、その身体の居心地の悪さから逃れたいという衝動(欲望)が起きる。
で、おっぱいの乳首を唇にあてがわれたとき、それが空気=空間ではなく物質であることに気づいて、けんめいにその物性を確かめようとしてゆく。身体の外の物性を確かめていれば、身体の物性は忘れていられる。そうして母乳が胃の中に入って空腹が満たされれば、なお身体のことを忘れてゆく。
唇は、生まれたばかりの赤ん坊が唯一意のままに動かすことのできる身体器官である。こうして唇の欲望が発生する。
それは、世界の物性と関わろうとする欲望であり、それによって、身体の物性が消えてゆくカタルシスがもたらされる。赤ん坊は、もともと胎内にいるときは、みずからの身体を「空間」として認識していた。だから、母体の外に出て身体の物性を知らされたときはおおいにおびえたのだが、そのあとおっぱいをしゃぶりながら身体の物性が消えてゆくことに、胎内では体験したことのないカタルシスを知った。
はじめに身体の物性が充満してくる居心地の悪さがあり、そこから逃れようとする「あがき=欲望」が発生する。そうしてその「物性=居心地の悪さ」が消えてゆくカタルシスを体験する。この流れが、赤ん坊の生きるいとなみになってゆく。
欲望の根源的なかたちは、身体の物性の居心地の悪さから逃れようとする衝動にある。そしてそれは、世界の物性を確かめてゆくことによって、身体の物性が消えてゆくというカタルシスがもたらされる。
人間は、他者の欲望を欲望するのではない。人間の欲望が生まれる契機は、「他者の欲望」にあるのではない。
人間の欲望の根源的な契機は、身体の物性が充満することの鬱陶しさにある。すなわち「けがれの自覚」である。
ラカンの論理よりも、この国の古代人の「けがれ」という言い習わしの方が、ずっと欲望の根源を言い当てている。
「けがれ」の自覚こそが、欲望の契機になっているのであって、「他者の欲望」なんかではない。
鏡像段階」などというちんけな思いつきですませてもらっては困るのだ。
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   4・支配し支配されたがるという制度性
欲望という概念を根源にまでさかのぼって考えるなら、それはもう生まれた直後から発生しているのだ。
赤ん坊が唇の次に自由を手に入れる器官は「手」である。彼がけんめいに握ろうとしてくることだって、世界の物性を確かめることによって、みずからの身体の物性から逃れようとする「欲望」である。
赤ん坊はべつに、おっぱいをしゃぶることをお母さんから教えられたわけでもお母さんのまねをしているのでもあるまい。手を握ることを教えられたわけでもないだろう。自分でその行為に熱中してゆくのだ。
「他者の欲望を欲望する」というのは、大人の心の中にうごめくこの社会の制度性であり、発達心理学の問題ではない。
根源的な欲望は、自発的なものであって、「他者の欲望を欲望する」のではない。
街じゅうの女がミニスカートをはくことだって、「他者の欲望を欲望している」のではなく、それがその時代の女にとって身体の物性が充満することの「けがれ」から逃れられるもっとも効果的なアイテムだと感じられているからだ。女に聞いてみればいい。身体の物性が充満することの鬱陶しさを知っている女ならきっとわかってくれると思う。女は、男よりもはるかに身体の鬱陶しさに悩まされて生きている。
その流行は、ただ単純に「真似をする」というだけの現象ではないのである。
ラカンがなぜそんな安っぽいことを発想したかというと、彼ら西洋人は、言葉は伝達の手段だという意識が頭にこびりついているからだ。人間は伝達しようとする存在で、伝達されたがっている存在であると思い込んでいるのだ。それはつまり、人間は支配しようとする存在であり、支配されたがっている存在である、といっているのと同じなのである。そういう思考から「鏡像段階」とか「他者の欲望を欲望する」という発想が生まれてきた。
そうして、世界中の支配したがり支配されたがっている自意識過剰の知識人たちがこの説に飛びついていった。
内田樹先生だって、骨の髄まで支配したがりで支配されたがりの人間だものね。飛びつくはずさ。
現在の発達心理学はもう、ラカンの説を錦の御旗のように振りかざしても通用しないのである。それでも内田先生や上野千鶴子氏のような、戦後という時代に毒された支配したがりで支配されたがりの脳みその薄っぺらな知識人は、今なおラカンにしがみついてかっこつけている。
いかにも「俺はあの難解な文章が読めるのだぞ」といわんばかりにさ。難解でも、内容そのものは、あなたたちにお似合いの薄っぺらなしろものでしかないんだよ。
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   5・何も信じられない
なぜ、現在の多くの子供たちが発達障害に悩まねばならないのか。それは、ラカンの論理では、何の解決にもならない。
もちろん僕にだって解決策などあるはずもないが、ひとまずラカンの説とは違う欲望の根源のかたちだけはささやかながら提出したつもりだ。
多くの発達障害は、意識が身体に張り付いたまま世界に向けて旅立ってゆくことができなくなっている病なのではないだろうか。たぶん、親や世の中の大人たちが、そのように子供を囲い込んでしまっている。
まあ、いちばん困った問題は、戦後という時代は自意識過剰な鬱陶しい大人たちを大量にあふれさせたことにあるのかもしれない。彼らほど、人に好かれたがり、人を囲い込みたがる人種もいない。そんな大人たちばかりの世の中であることこそ、現在の発達障害の元凶なのだ。
自意識にしがみつくのではなく、自意識に苦しめよ。それが、「けがれ」という言葉を持っているこの国の伝統的な作法なのだ。
自意識に苦しみ自意識を処理する「みそぎ」を果たしてゆくのが、この国の伝統的な作法なのだ。
人間なんか、みんな自意識過剰の生き物さ。西洋人はそこで自意識を飼いならしてゆく流儀を追求し、この国では自意識を処理する作法を磨いてきた。
われわれは、上手に自意識を飼いならしてゆく文化を持っていない。
西洋人は、たがいに囲み合ってたがいの自意識を飼いならしてゆく関係の文化を持っている。じつはたんなる制度性にすぎないそういう言葉の場を、「ランガージュ」というらしい。
そういう西洋流の関係性にいち早く目覚めたのが、戦後の左翼知識人だった。
僕は子供のころ、左翼のインテリたちは人間として清潔な人たちなのだろうとちょっとあこがれていたが、今にして思えば、ただの自意識過剰の鬱陶しいだけの連中だったらしい。戦後共産党から日教組から丸山真男から吉本隆明から内田樹上野千鶴子まで。
まあ今や、右翼だろうとただの庶民だろうと、みんなそんなふうに自意識過剰になってしまっている世の中で、何も信じられない。
だが、信じられる思想がないということは、それほど不幸なことでもなかった。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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