「漂泊論」64・関係性の根源

   1・お母さんの愛に気づいている赤ん坊などいない
人間的な恋や友情や家族の情愛など、そして何より人間的な連携は、「共感」の上に成り立っているのか。
そうじゃない。
人の心なんかわからない。人間は、その「わからない」ということを深く思い知ったことによって、猿のレベルを超えたより高度で味わい深い連携のかたちを生みだしてきた。
かんたんに「共感能力」などといってくれるな。すくなくとも、科学者にこんなセンチで手垢にまみれた言葉は使ってもらいたくない。俗物の政治家や心理学者や人権主義者じゃあるまいし。
人間であることの可能性は、共感し合えることにあるのではない。共感することの不可能性を深く思い知っていることにある。そこから、人間的な連携が生まれてくる。
お母さんに抱かれた赤ん坊は、お母さんの愛にまどろんでいるのか?
そんなことではあるまい。
みずからの赤ん坊に対する愛を自覚しているお母さんは多かろうが、お母さんの愛に気づいている赤ん坊など、たぶんいない。
人の心は、つねに一方通行である。
J・ラカンの「鏡像段階」という概念などどうしようもなく愚劣なしろもので、ラカンやその信奉者たちは、「赤ん坊はお母さんの愛に気づいてお母さんの愛を模倣するように自我に目覚めてゆく」という。
冗談じゃない。自我を持っていなければ、お母さんの愛(自我)を模倣することもできないだろう。
生き物は、先験的に「自我」をそなえている。それは、みずからの身体が世界から孤立して存在しているという自覚である。赤ん坊、そういうことを生まれおちた瞬間に気づく。つまり、その時点で、すでに自我は発生している。
自分の身体の輪郭がこの世界との境界になっている、ということに赤ん坊はおそれおののいている。そしてその自我意識は、われわれの無意識の中にも疼いている。根源的には、誰もがそういうかたちで存在している。
赤ん坊にとってもっとも切実な問題は、そういう存在することのおそれやおののきであって、お母さんに愛されているかどうかというようなことではない。お母さんの愛などわかっていないし、お母さんの愛を模倣しようとする衝動もない。
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   2・身体の孤立性
存在することのおそれやおののきから逃れるもっとも有効な方法は、存在を消去することである。すなわち、自分の身体を忘れてしまうことである。
意識は、身体の物性によって、「存在する」という自覚をもたされる。したがって、身体を忘れることは、身体の物性を忘れることである。
赤ん坊の自我は、身体の物性を忘れようとする(消去しようとする)というかたちではたらいている。さしあたってそれが、赤ん坊にとってもっとも切実な問題である。
生き物は、他者の身体と向き合えば、みずからの身体を消そうとする。そうやって、逃げるか追い払う、という行動に出る。
街を歩いて他者とぶつかりそうになれば、思わずよける。これだって、みずからの身体を消そうとする衝動である。誰もがそういう衝動を持っているから、都会の雑踏という景色が成り立つ。その「孤立」しようとする衝動を持っていなければ、やたらあちこちで人と人がぶつかり合っていることになる。イワシの大きな群れだって、どんな状況になっても体をぶつけ合うことはない。
生き物は、身体の「孤立性」を確保しようとする衝動を持っている。それが、消えようとする衝動である。
人間集団の「連携」という関係だって、たがいの身体の「孤立性」を確保し合うというかたちで起きている。
お母さんと向き合っている赤ん坊もまた、その関係によってみずからの身体を消すという体験をしている。お母さんに抱かれれば、お母さんの身体ばかり感じて、みずからの身体のことは忘れてゆく。
赤ん坊にとってお母さんは、みずからの身体の物性を忘れる(消去する)ための対象として有効なのだ。無力な存在である赤ん坊は、みずからの身体の物性を忘れる体験がなければ生きられない。そして、身体の物性を忘れる体験として身体を動かすという行為を覚えてゆく。
赤ん坊にとっての救済は、「身体が消える=身体が動く」という体験である。彼にとってこの体験がどれほど貴重で大きなよろこびをもたらすものであるのかということを、われわれはもっと気づいてもいい。それは、生き物として身体の「孤立性」が確保される体験なのだ。
そのとき赤ん坊は、ラカンがいうように、みずからの身体を意識しながらお母さんの「複製」になろうとしているのではない。赤ん坊にそんな衝動はない。大人たちのエゴによって無理やり「複製」にさせられるということはあったとしても。
また人間の集団性は不可避的に赤ん坊を「複製」にしてしまう、などといって、みずからが「大人という複製」になってしまっていることに居直るべきでもない。それはあくまで人間性の病理であって、自然ではない。
それでも赤ん坊は、生き物の自然として、みずからの身体の「孤立性」を確保しようとして生きている。
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   3・存在と非存在の関係になる
生き物どうしが向き合えば、1(=存在)とゼロ(=非存在)というデジタルな関係になってゆく。1(=存在)と1(=存在)になるのではない。お母さんの身体を感じれば、自分の身体は忘れている。
生き物の生のいとなみは、身体の「孤立性」の上に成り立っている。
人間集団は、身体の「孤立性」を確保し合うというかたちで連携してゆく。
この連携のことを、ある人は「身体と身体が共鳴し合う」といい、別のあるインテリは「一体化する」などといったりしているのだが、そういうことではない。まあ「複製」になってしまった大人は、そういうことに居直って、そういう愚にもつかないことをいいたがるというだけの話だ。
人と同じことをして「複製」になってゆくことはひとつの社会的な病理であり、大人になるとは、そのようにして汚れてゆくことにほかならない。
彼らは、他者を複製にし他者から複製にさせられるという支配し合うかたちでしか関係を結べなくなってしまっており、そういう自分を正当化しようとしてそういうことを言い出す。
おまえらみたいに鈍くさい運動オンチがどんなに立派なお師匠さんについて修行したって、たいして上達もできないだろう。誰だって、そうやって「自分」であることから逃れられるわけもなく、「複製」になんかなれないのだ。
それでも生き物の身体は孤立して存在しているし、その「孤立性」を守ろうとして消えようとするし、さらにはそこから高度な連携も生まれてくる。
1とゼロになることが、人間ほんらいの関係性なのだ。いや、生き物ほんらいの、というか。
生き物は、他者の身体を前にすると消えようとする。だから人は、他者の前から消える行為として旅をする。そして、たがいに他者の前から消えるというかたちで連携し、定住している。
人間的な連携は、同じ行為をすることではない。自然に「土を掘る人と土を運ぶ人」の関係になってゆくことにある。そのとき人と人は、たがいに孤立して存在している。その孤立しようとする衝動が、他者とは違う行為を選択させる。おたがいに別のことをすることによってより高度な連携になってゆく。
定住する人になることと旅をする人になることも、ひとつの連携である。そうやって「さようなら」とたがいに手を振る。別れることも、ひとつの連携である。そのとき人と人は、1(=存在)とゼロ(=非存在)の関係になっている。どちらも他者の前から消えてゆく。この関係の根源性が、人を感動させる。
高度な連携には、感動がある。それは、身体が消えてゆくというカタルシスなのだ。
お母さんと赤ん坊のあいだに感動があるとすれば、それは、たがいに自己を消去し合っていることのカタルシスにあるのであって、「複製=鏡像」になっていることではない。お母さんは赤ん坊の「複製=鏡像」になんかなれないし、赤ん坊もまたお母さんの「複製=鏡像」にはなれない。
まあ、赤ん坊を自分の「複製=鏡像」にしようとして育児ノイローゼになるのだ。
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   4・学ぶとは、世界に気づきときめいてゆくこと
お母さんと赤ん坊の関係からはじまって、「教育」というのは、人間的な連携のひとつかもしれない。しかしそれは、赤ん坊がお母さんの複製になることでも、生徒が先生の複製になることでもないだろう。
赤ん坊が二本の足で立ち上がることは、根源的には、大人たちの真似をすることではない。身体の物性を忘れてゆく体の動かし方に対する意識がとても切実だからだ。二本の足で立って歩くことは、そのためのもっとも有効な方法のひとつである。そのとき意識は、よりダイナミックに世界を感じ、よりダイナミックに身体を忘れている。そういうカタルシスがあるから赤ん坊は転んでも転んでも歩こうとする。
べつに大人の真似をして社会の一員に加えてもらいたいからではない。なのにラカンをはじめとする俗物の心理学者たちは、自分たちの都合の勝手な思い込みで、赤ん坊にもそういう欲望があることにして納得していやがる。「自我の目覚め」などと称して。
赤ん坊が言葉を覚えることにしても、お母さんに教えられるというより、自分で聞いて勝手に覚えているだけなのだ。お母さんが教えない言葉だって覚えてしまっている。それはつまり、お母さんの複製になろうとする衝動によるのではない、ということだ。
音声を発することは、音声とともに体の物性が消えてゆく心地がする。そのカタルシスが幼児に言葉を覚えさせるのであって、やっぱり社会の一員にしてもらいたいからではない。
人間は、世の俗物の大人たちのように社会の一員になりたいという欲望だけで生きているのではない。根源的には、身体が消えてゆくカタルシスを紡いで生きている、この社会に存在するということは、そうしたカタルシスがよりダイナミックに体験されるということであり、そうやって他者と連携したり恋をしたり友情を確かめたりしている。
つまり教育とは子供が勝手に覚え学んでいる場であって、大人が教えて子供を大人の複製にするための場ではないということだ。
教えることの不可能性と学ぶことの可能性、そのようにして教育の場が生成している。
学ぶとは、みずからの身体を忘れて世界に気づきときめいてゆくことである。みずからの知識や身体を大人の複製にしてゆくことではない。
子供には、大人の複製になろうというような衝動などない。そのことを、大人たちはもっと自覚するべきである。「子供は大人の複製になろうとして成長してゆく」などといって自分たちを正当化して居直るべきではない。
学ぶとは、大人の複製になろうとすることではない。重ねていう。それは、みずからの身体を消去して世界に気づきときめいてゆく行為である。
生き物は、他者の身体を前にしてみずからの身体を消去しようとする。これが基本だ。
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