「漂泊論」65・もう一度旅の起源について考える

   1・なにはともあれ、身体消そうとする衝動がこの生の基礎にある
しかし、ずいぶん横道にそれてしまっている。
「生き物の衝動=本能は身体を消そうとすることにある」……ひとまずこのことを前提の公理としてこのテーマを書いてゆこうと思っている。
しかし、たったこれだけのことをいうことがどれほど困難なことか。書いても書いても同意してもらっているとは思えない。たぶん、永遠にその実感はもてない。世の中には同じように考えている人が少なからずいるはずだが、それはきっとそうだろうと思うのだが、思うだけで、人と人の関係はそのようなことがわかり合うようにはなっていない。
人の心はわからない。わかることができないたがいの身体のあいだの「空間=すきま=裂け目」を大切にして関係を結んでゆくのが人間の生態なのだ。われわれは、この「空間=すきま=裂け目」にときめき、この「空間=すきま=裂け目」を前にして途方に暮れながら存在している。
それにまあこの世の中は、「生き物は生きようとする衝動=本能で生きている」という合意がうんざりするくらいはびこっている。
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   2・さよならだけが人生だ
最初に戻ろう。
旅をすることのはじめは、「別れ」にある。それは、他者の前から消える、という関係の行為である。
人間はなぜ、「別れ」に対する意識が発達しているのだろうか。きっと「消える」ということに対する意識が切実だからだろう。
まあ、死者との別れこそ、究極の別れにちがいない。そういうことを、人間は他の動物以上に深く意識している。
そして、われわれは母胎から別れてこの世界にあらわれ出てきた、ということも自覚している。旅は、すでにそこからはじまっている。これが旅の起源だ、ともいえる。
旅は、「別れ」とともにはじまる。
寺山修司は「さよならだけが人生だ」といったが、もともとはある小説家が漢詩を訳した言葉で、つまり「人生は旅だ」ということなのだろう。
まあ中国の古人でもそんなふうに思っていたのだから、別れることに対する切実さは人類普遍の感慨かもしれない。
生きてあることは別れのかなしみと出会いのときめきのバイブレーションである、ということだろうか。そしてなぜそんなになるかといえば、誰もが根源においては、みずからの生きてある「いまここ」に幻滅し途方に暮れて存在しているからだろう。その通奏低音が、人間の生きるいとなみにさまざまな色どりや影を与えている。
つまり、「消える」ということ。
人間も生き物も、「生き延びる」とか「存在する」ということに向かって生きてあるのではない。「消える」とか「非存在」に向かって生きてあるのだ。そのようにして生きてあるところから感動やカタルシスが生まれてくる。
生き物は、死んで消えてゆく存在である。人間は、誰もがこのことを心の底で自覚している。
地球上の原初の生命は、死んで消えてゆく存在として発生した。これが、生命というものの根源的なかたち(構造)である。生き物の生きるいとなみは、このかたち(構造)の上に成り立っている。
脳や意識のはたらきや身体が動くということだって、このかたち(構造)の上に成り立っているはずである。なぜならわれわれの身体の細胞のひとつひとつは、原初の単細胞生物のようなものなのだろうから。
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   3・旅の起源
原初の人類が二本の足で立ち上がったことだって、猿であることとの「別れ」であり「旅立ち」であったはずだ。もうその時点で、旅の習性がインプットされている。
密集しすぎて体がぶつかり合うような状態の群れの中にあって、他者の前からみずからの身体を消そうとしたのだ。消そうとして、二本の足で立ち上がっていった。
原初の人類は、そのようにして旅立っていった。
人間であることの特徴的な生態は、他者の前から消えようとする意識がことほか強くはたらいている、ということにある。
だから「死」という概念を発見したのであり、だから旅をする習性が定着していった。
旅をすることは、他者の前から消えることであり、それは死を受け入れるということだ。
原初の旅は、森から森へと移動するためにサバンナを横切ってゆくことにあった。
そしてそれは、まだ猿と同じ程度の体格や知能しかもっておらず、しかも直立二足歩行することによって猿のように速く走ったり敏捷に動く能力も失ってしまった原初の人類にとって、死にに行くような行為だった。つまり、死を受け入れるという心の動きがなければ成り立たない行為だった。
まあすべての生き物が死を受け入れて存在しているのだが、人間はそれをもっとラディカルに自覚していた。
じっさいアフリカでは、肉食獣の牙に貫通されている数百万年前の人間の頭蓋骨なども発見されている。
それでも原初の人類は、サバンナを横切っていった。
地球気候は、数万年ごとに温暖湿潤化と寒冷乾燥化(¬=氷河期)を繰り返している。乾燥寒冷化が進めば、サバンナが広がり、森はそのあいだに四分五裂してゆく。
小さな森で一年中暮らすことはできない。木の実などの食料はすぐに食べ尽くされてしまう。そうなれば、ほかの森に移動するしかなかった。
しかも人間は、弱い猿だったから、チンパンジーなどが暮らすどこまでも続く熱帯のジャングルで暮らすことはできなかった。そうやってライバルたちにから追われ追われ、逃げ隠れしながら、ついにサバンナの中の小さな森で暮らす猿になっていた。
そうして外は肉食獣がうごめくサバンナなのだから、たとえ邪魔な個体でも追い出すことはできないし、誰もが追い出されるまいとがんばった。
しかし、森の中の食うものはやがてはなくなってしまう。そうなればもう、みんなでほかの森に移動してゆくしかなかった。
移動してゆくことができないものは、飢えて死ぬだけである。そして、移動してゆくことができるのは、力が強いとか走るのが早い個体ではない。人間のそんな能力などたかが知れている。もっとも強い個体でも、普通のチンパンジーよりずっと弱かったのだ。
そのとき、死を受け入れているものだけが、サバンナに出てサバンナを横切ってゆくことができた。
直立二足歩行といっても、それがサバンナを横切るために有効な能力になっていたのではない。猿と同じような体型をしていたころは、四足歩行の方がずっと早く走れたのである。それにそのほうがじつは疲れないし、いざ逃げるときに将棋倒しにならずに済む。
直立二足歩行は、遠くまで歩いてゆけるといっても、疲れないのではない。二本の足の裏で全体重を支えているのだから、疲れないはずがない。ただ、足のことなど忘れて歩いているから、疲れても歩いていられるだけである。
それでも彼らは、二本の足で歩いていった。
つまり、足のことを忘れるとは意識において足が消えていることであり、この「身体が消える」という意識になっていなければ危険なサバンナを横切ってゆくことなどできなかったのだ。
だからチンパンジーは、人間よりも早く走れて敏捷に動くことができるはずなのに、サバンナを横切ることがついにできなかった
サバンナを横切ることのできる直接的な能力は、直立二足歩行にあったのではない。死を受け入れて意識の中から身体を消してしまえるメンタリティにあった。まあ、そういうメンタリティを直立二足歩行が育てた、ともいえるわけだが。
原初の人類は、身体能力でサバンナを横切っていったのではない。死を受け入れ、故郷の森と別れるという旅心によってそれを可能にしていった。
人間は、旅をする身体能力においては、きわめて貧弱なのだ。姿勢は不安定ですぐ疲れるし、道なき道を分け入ってゆくことのできる体力などはない。おまけに食料の調達能力も、食わなくても平気でいられる体力や精神力もない。
それでも人類は、旅をする習性を育てていった。
「さよならだけが人生」の生き物だったからだ。
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