「漂泊論」66・「消える」という身体主観性

   1・何はともあれ「身体の孤立性」の問題なのだ
旅は、身体の「孤立性」を確保しようとする行為である。
原初の人類は、密集しすぎた群れの中でたがいの身体が接触することを嫌って二本の足で立ち上がった。そのようにして歴史がはじまったのであれば、人間は、身体の孤立性を確保しようとする意識がことのほか切実で、それは、群れの中において体験される。
「孤立性」とは、「ひとりになる」ことではなく、他者の前から「消える」ことだ。他者と向き合いながら、他者の前から「消えている」ことにある。他者の「存在」を前にして、自分は「非存在」になることである。
原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって「身体の孤立性」を発見した。そしてそれは、密集しすぎた群れにおいて、より確かに体験される。
「群衆の中の孤独」というとき、それは、群衆の「存在」に対して自分だけが「非存在」になっている感覚である。
まあ、女のオルガスムスも、「非存在」の感覚であるのだろう。そういう消えてゆくカタルシスをより豊かに自覚的に体験しているのが人間という存在である。
身体の[孤立性]こそが、人間を人間たらしめている。そしてだからこそ人間は、密集しすぎた群れをいとなみたがるのだ。
人間が密集しすぎた群れになるのは、他者の身体と「運動共鳴」するからでも「一体化」するからでもない。密集した群れにおいてこそより確かに「孤立性」が体験されるからであり、「孤立性」とは「ひとりになる」ことではなく「消える」ことだ。
ひとりでじっと立っていることは苦痛である。だからおばちゃんは、電車の中では無理にでも座ろうと割り込んできたりする。そしてそのおばちゃんが、買い物帰りの道端でずいぶん長い時間立ち話をしていたりする。
人間にとって他者と向き合って話すことは、それによってみずからの身体が「消える」という体験を交換することである。だから、じっと立っていることに耐えられる。つまり、意識的にはまあそういうことで、物理的には、向き合って立つことによって、相手の身体が壁になり姿勢が安定するということがある。
人間は、本能的に他者の身体とのあいだの「空間=すきま」を確保しようとする。だから他者の身体が前にあれば、前に倒れそうな動きが起きてこない。そのようにして安定する。そして、二本の足で立つことは、胸・腹・性器等の急所を相手の間にさらすことであり、それは生き物として極めて危険なことである。だからこそ、そのときより強く消えようとする衝動がはたらくし、同時に相手を攻撃しないしない姿勢になろうとして、よりまっすぐ立ってゆく。
前屈みになることは、攻撃する姿勢である。それに対して人間は、攻撃しない姿勢としてまっすぐに立つという姿勢を獲得し、それによって猿と違ってどこまでも歩いてゆけるようになった。
二本の足で立って歩くことくらい猿でもできるが、猿はこのまっすぐ立つということができないから、そのままいつまでも歩き続けることはできない。
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   2・それが、世界や他者にときめき連携してゆくことでもあるのだ。
猿の関係は、順位を争う緊張関係にある。だから相手に弱みを見せるわけにはいかないし、隙あらば攻撃しようとする意思も消えない。
しかし原初の人類は、たがいに弱みを見せ合いながらたがいに攻撃しようとする意思を捨てる関係になっていった。それによってまっすぐに立つという姿勢を獲得し、どこまでも歩いてゆけるようになった。
そのとき誰もが、群れが密集し過ぎているという「状況」から追いつめられ、立っているしかなかったのであり、攻撃しようとする意思を捨てるしかなかった。
原初の人類は、みずからの意思で立ち上がったのではない。「状況」から立たされてしまったのだ。
立ち上がらないと、身体の「孤立性」が確保できなかった。生き物にとってはそれこそがもっとも根源的な優先される問題である。そのとき人類は猿の集団性を放棄し、生き物としてのより根源的な生態に遡行していった。そしてそれは、結果的に猿よりももっと高度な集団性を獲得することになった。
そのとき人類は、猿よりももっと弱い猿になり、たがいに向き合いながらたがいに相手の前から「消える」という関係をつくっていった。
「消える」ことが、人類の習性になっていった。
「消える」ことこそ、生き物が生きてあることのカタルシスである。
たがいに消えて「非存在」になることこそ、人と人の関係であり、連携である。
「非存在」になるとは、自分のことを忘れて世界や他者に気づきときめいてゆくことである。
人と人がときめき合っているとき、たがいに自分の(身体)のことを忘れて「非存在」の存在になっている。そういうかたちで直立二足歩行がはじまったのでであり、これが人と人の関係の起源であり究極のかたちなのだ。そこにこそ、もっとも高度な連携がある。
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   3・権力は、人と人をくっつけ、まとめて支配しようとしてくる
意識にとって世界に気づくことは、みずからの身体忘れている状態である。身体を忘れている(=身体が消えている)状態になるためには、世界や他者に気づいていなければならない。人は、世界や他者に気づいている状態において、はじめてみずからの存在の孤立性を得る。つまり、生き物として、世界との境界であるみずからの身体の輪郭を確かにしている。そしてこれは、物性を持たない「非存在=空間」としての身体の輪郭である。
われわれは、身体が「非存在の空間の輪郭」になっているときにおいて、もっとも確かな生きた心地を汲み上げている。そのようにして、身体は「消える」のだ。
この問題はややこしい。ただ、世間で人間の集団性や連携を語るときに出てくる身体と身体の「運動共鳴」とか「一体化」というような低俗な身体論で合意されていることは、なんとしても納得できない。
そんなことをいっているから運動オンチやインポになってしまうのであり、そんなところから恋や友情や人間的な連携が生まれてくるのではない。そうやってべたべたと人と人がくっつき合うことにすれば、そりゃあ現代社会の、他者を支配するプロパガンダも広告戦略もグローバリズムもデモもコミュニケーションも安泰かもしれない。
しかしそれは、現代社会における人と人の関係の病理であって、人と人の関係の根源(本質)のかたちではない。その論理では、生物学も人類学も社会学も哲学も成り立たない。
ようするに他人を支配したがり支配されたがる習性が骨の髄までしみ込んだ人間が、そういう鬱陶しいことを言い出す。彼らはそういうことにしておきたいのだろうが、現実の人と人がときめき合ったりもらい泣きし合ったりしている関係の場ではそのようになっていないし、そういう制度的な人間観で合意し合っていることが、この社会の病理を深くしているというか、ひとりひとりの人間を追いつめている。
どんなに政治家やマスコミや教育者のプロパガンダが猛威をふるい、人を支配したがり人から支配されたがっている大人たちがうじゃうじゃと闊歩している世の中であっても、それでも人間の身体は、根源的には他者の身体と「運動共鳴」したり「一体化」したりすることなく、あくまでこの世界の孤立した存在として他者と向き合い連携しているのだ。
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   4・「身体の孤立性」にこそ生き物の自然がある
「共生」とか「共感」とか「共鳴」とか、そんな概念で人と人の関係の根源(本質)は語れない。彼らは、どうしてそのような、この世の弱いものや孤独なものを追いつめるようないい方ばかりするのだろう。そういうことにしておかないと彼らの支配し合う関係の社会の足元が崩れるからだろう。そういうことにしておかないと、彼らの人生が正当化できないし、彼らの自己愛が満たせないからだろう。
しかしそれでは、生物学としても人類学としても社会学としても哲学としても、真実の探求がいいかげんすぎるし、そんなことをいっているから、鈍くさい運動オンチやインポおやじになり、さらには、じつは本人が自慢するほどには人間としてもたいして魅力的ではないという状況を招かねばならない。
人と人は、「共感」も「共鳴」も「共生」もしていない。あなたたちは、どうしてそんなことをいって人を支配し追い詰めようとするのか。
それでも人間は、それぞれが孤立した個体として世界や他者と向き合い存在している。それぞれが孤立した個体としてときめき合い、恋や友情や連携をはぐくんでいるのだ。
孤立性を持っている人ほど、世界や他者に対する感受性が豊かである。その人の魅力や色気は、そういうところから生まれてくる。
僕は、この世の成功者たちのえらそうな自慢話や人間論なんか、なんにも感心しない。「おまえらアホか」と思うばかりだ。
この世の片隅でひっそりと、そして泣いたり苦しんだり身もだえしたりしながら生きている人の方が、ずっと深く人間のことを知っているし、ずっと豊かに生きてあることを味わいつくしている。
人間の人間たるゆえんである「身体の孤立性」は、そういう人のもとにある。
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ブログランキングに登録して1週間が過ぎ、ひとまず御祝儀相場の恩恵から離れて、ここからしりすぼみになってゆくか踏ん張るかの正念場に入ってきているのだろうと思います。まだまだ見ず知らずの人にクリックしてもらえるだけの魅力を持ち得ていないことを痛感させられるものの、とにかく頑張って書き続けてゆこうと思っています。

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