「漂泊論」63・「共感」という関係の嘘

   1・「わかり合う」とは、どういうこと?
生物学ではよく「共感能力」などという言葉が使われる。おたがいに相手の気持ちがわかり合える能力、とでも解釈すればいいのだろうか。
しかし、科学者ともあろう人々がどうしてこんな非科学的な言葉を平気で使えるのか、よくわからない。
それこそ科学的に考えて、「共感」などという現象が成り立つはずがない。人間であろうとあるまいと、いったいどうやって他者の心がわかるというのか。他者の心に色や形がついているのか。
他者と同じ気持ちになるということは、たしかにある。ネズミが人間を見れば、そりゃあ誰しも「大きい」と思う。食い物を見つければ、誰しも「食いたい」と思うだろう。人間だって、青い空は誰もが青いと思っている。
しかしそれと、相手の気持ちがわかる、ということとは別のことだ。
みんなが同じことを思っているという「状況」はわかる。しかし、相手の気持ちがわかるということは絶対にない。
同じことを思ってなどいないのに、みんなと同じ態度や行動をすることもある。このとき、その個体も同じように思っていると判断することは、間違いなのである。
他者の気持ちなどわからないから、同じ態度や行動をすれば同じ心だということにできる。そのときわかっているのはそういう「状況」であって、他者の「心」ではない。
「共感」などできないから、そういう「状況」が生まれる。それは、共感しているのではない。
すべての生き物は、孤立した個体としてこの世界と向き合って存在している。これが大前提である。生き物が身体を持っているということは、そういうことなのだ。われわれの身体の輪郭は、世界との境界を持っている。
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   2・なんだかよくわからない言葉が多い
赤ん坊は、教えられなくても、生まれてすぐにおっぱいにむしゃぶりつく。
こういうときに、生物学ではよく、そのような「本能」を生まれながらに持っているからとか、「遺伝子の情報」として組み込まれてあるから、などと説明される
「遺伝子の情報」として書きこまれてあるというのなら、どんなふうに書きこまれてあるのか、ぜひ見せていただきたいものだ。
冗談じゃない。
赤ん坊は、おっぱいを吸わずにいられない「状況」を背負っているのであって、そんな「本能」があるとか「遺伝子の情報」があるなどという話は、僕は信じない。
まず、生まれたばかりの赤ん坊は、みずからの身体に気づき、身体の外部との境界に気づく。そうやって身体が「この世界の孤立した存在」であることを思い知らされる。
赤ん坊は、みずからの身体が「物体」であることを知らなかった。胎内においては、みずからの身体はたんなる「空間」だった。だから。「物体」であることに気づかされ、驚き怖れて「おぎゃあ」と泣く。
そのようにして、このときすでに身体の「物性」を忘れようとする衝動が発生している。で、身体が外部の世界と接触しているとき、その接触面においては、外部の世界ばかり感じてみずからの身体を忘れている、ということに気づいた。
赤ん坊は、身体の外部の世界と接触しようとする衝動を持っている。なぜならそれによって、みずからの身体の物性を忘れることができるからだ。
おっぱいの乳首に唇が接触すれば、より確かに接触しようとして吸いついてゆく。
お母さんも驚くほどけんめいに吸いついてくる。それは、吸いつこうとする「本能」や「遺伝子の情報」を持っているからではない。吸いつかずにいられない「状況」に置かれているからだ。
その結果として、母乳が口の中に入ってくれば、空腹が満たされ、さらにまどろんで身体のことを忘れてゆく。
それは、「身体維持の本能」などではない。おっぱいを吸えば生き延びられると赤ん坊が知っているとでもいうのか。そんなはずないじゃないか。そういう「本能」がある……そういう「遺伝子の情報」を持っている……ということにしておこう……と凡庸な生物学者は考えている。そういうことにしておけば便利だろうが、しかしそれは「科学」ではない。ただの「宗教」である。
そのとき赤ん坊には、ただもう、おっぱいを吸わずにいられない「状況」があるだけだ。
生き物の本能は、「生きようとする」ことにあるのではなく、「身体の物性を消そうとする」ことにある。
ゴキブリが人間に叩かれそうになって逃げるのは、みずからの身体を「いまここ」から消そうとする衝動なのだ。
生き物に「生きようとする本能」などそなわっていない。生きることのできる身体の機能と「状況」が存在するだけなのだ。
この世界の「状況」が変われば、生き物は滅びてゆく。どんなに生き延びようとする衝動をたぎらせたって滅びてゆく。
生き物を生かしているのは、「状況」であって「生き延びようとする本能」などではない。
むしろ、身体の物性を消して生き延びるまいとすることこそ、生き物の生命力になっている。すなわちそれが、赤ん坊がおっぱいに吸いつくという行為なのである。
すべての生き物は、この世界の孤立した存在として、この世界と関わって生きている。あえていおう。これが生物学の基本なのだ。
「本能」も「共感」も、どうでもいい。
われわれは、生き物としての根源において「生きようとする衝動(本能)」など持っていないし、他者の心などわからない。この「わからない」という心を携えてわれわれは他者と連携したり恋をしたり友情をはぐくんだりしているのだ。
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   3・人間的な「表現」の可能性と不可能性
他者の気持ちなどわかるはずがないではないか。
人間どうしだって、そんなことは不可能なのだ。
他者がけがをして痛がっているというその状況は、ネコやネズミだってわかるかもしれないが、他者のその痛みを自分も味わうということなど、人間にだってできない。
この「できない」という事実に驚き思い知るなら、かんたんに「共感」などという言葉は使うべきではない。そのあいまいな思考が、科学をあいまいにしてしまう。
この「できない」という事実に驚き思い知っているのが、人間の人間たるゆえんである。だから、表情やしぐさのニュアンスが豊かになり、言葉が生まれてきた。他者の心などわからないから、そうした「表現」をあれこれするようになってきたのであり、そのときわれわれは、その「表現」を理解しているだけで、相手の心そのものを理解しているわけではない。
心なんかわからないから、人をだます、という行為が成り立つ。心なんかわからないで、その「表現」に反応してゆく生き物だから騙されるのだ。
人間ほど騙されやすい生き物もない。それは、詐欺だけの話ではない。村上春樹がどんなにくだらない人間だろうと、われわれはその小説を読めば感動する。村上春樹の心などわからないし、彼の心など関係なしに、その「表現」された小説世界だけに反応して感動している。それは、「だまされる」体験なのだ。そのときわれわれは、村上春樹の心に「共感」しているのではない。
その政治家がどんなに邪悪な心の人間であっても、その政策に賛同すればそれにしたがうだろう。それは、騙されているのと一緒なのだ。
ろくでもない女だとわかっていても、惚れてしまうことはあるだろう。人間は、相手の心よりもその「表現」に反応する生き物だからだ。
人間に「共感能力」があったら、われわれはつまらない女に惚れたりしないし、詐欺師に騙されることもない。
人と人は、「共感」し合って関係をつくっているのではない。少なくとも、「科学的」にはそういうことになる。たとえ文学的にそういう言い方が成り立ったとしても、科学的生物学的には、「共感」などしていないのだ。
「共感」などしないからこそ、人間的な味わい深い恋や友情や連携が生まれてくる。
心には、色もかたちもない。わかるはずがないじゃないか。生き物にわかることができるのは、他者の「状況」だけであって、「心」ではない。
そして人間は、「わからない」ということを深く思い知っているから、表情やしぐさや言葉などの「表現」を発達させてきた。
人と人は「共感」によって連携しているのではない。「わからない」という心を携えて連携してゆくのだ。それによってこそ、より高度で人間的な連携が生まれてくる。
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