「漂泊論」62・「自分を知る」という迷信

   1・合理精神という迷信
近代の合理精神は古い迷信を駆逐した……などというのは大嘘だ。
生き物には生きようとする衝動(本能)がはたらいている……などというのは現代人が新たにつくった迷信にすぎない。われわれは、勝手にあれこれの迷信をつくっては、それが合理精神のつもりでいる。
これがもっとも合理的だと確信することが、迷信なのだ。
何が合理的な真実かということなど、けっきょく誰にもわからない。そういう「わからない」という心の動きを失っている合理精神のことを「迷信」という。
現代人がいかに迷信深いかは、昨今のスピリチュアルやカルト宗教のブームでよくわかることではないか。アメリカではキリスト教原理主義というのがあって、人類の歴史はアダムとイブからはじまった、と本気で信じている人がたくさんいるのだとか。
近代人による、生きるための技術論・方法論を追求する、その合理精神が迷信なのだ。その「合理的な判断」は、正義を自覚させる。その「合理的な判断」という正義で他人を裁く。そうして、殺意を募らせる。
合理的精神は、どんなにわけがわらないこともつじつまを合わせてしまう。人間の狂気もキリスト教原理主義もスピリチュアルも、合理的精神の産物なのである。
殺意など誰でも持っているものだが、それを実行に移させるのは、正義の自覚なのだ。その自覚がなければ、実行に移すことなんかできるものじゃない。正義の自覚で、許せなくなるほど頭の中が混沌とした状態になってしまう。つまりそれは、「合理的な混沌」なのだ。
正義の自覚とは、合理的な判断をしている、という自覚である。そうやって人は狂ってゆく。自分はキリストの生まれ変わりだと信じ込むことができるのも、自分は合理的な判断をして正しく生きているという思い込みがあるからであり、そうやって思い込む習性が迷信に走らせるのだ。合理的精神は、そんな途方もない思い込みすらもつじつまを合わせてしまう。
自分は合理的な判断ができるという正義の自覚こそが、迷信の温床なのだ。合理的な判断や正義に目覚めてしまったものはもう、自分を修正できなくなってしまう。自分を修正できないから、殺意が際限なくふくらんで頭がおかしくなってしまう。その殺意はもう、実行に移すことでしか鎮められない。そういう混沌とした狂気は、原始人のものではない。現代人の自意識の病理であり自己愛なのだ。
迷信とは、合理的精神である。
自分は間違っていた、と反省する……それだって、自分を修正したことにはならない。合理的な判断の価値にしがみついて正しいものがあると思っているから、そういう反省をする。合理的な判断の価値そのものを捨てていない。そうやって人は、スピリチュアルやカルト宗教に洗脳されてしまう。それは、彼らの合理的精神においてつじつまが合っているのである。だから、東大生だって洗脳されてしまう。
合理的な判断の価値にしがみついているから洗脳されてしまうのだ。
合理的な判断の価値にしがみつくとは、自分にしがみつくということだ。
近代合理主義は、自分にしがみつく、という狂気を増殖させる。
原始人が、そんな狂気を持っていたはずがない。彼らは、意識を自分から引きはがすことのカタルシスを知っていたし、そのぶん生きてあることのいたたまれなさを深く知っていった。彼らの心はもっとシンプルでイノセントだったにちがいない。
「原初の混沌」などといってくれるな。「混沌した狂気」などというものは、現代人の合理精神のもとに宿っているのだ。
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   2・「混沌とした狂気」などというものは原始人の心ではない
自我とは自分を知る心である……だってさ。これだって、現代人の迷信だ。
自我とは、自分を知る心ではなく、自分を忘れて世界に気づき、驚きときめいてゆく心である。古代人や原始人はそのことをちゃんと知っていて、「あ、花だ」「わ、きれいだ」というときの「あ・わ」を「私=吾」という意味にした。
われわれの「自我」は、「自分」を忘れて、世界と向き合い、驚きときめいている。
自分を知る心など、ただの自己愛である。そういう自己愛の強いインテリが、みずからの自己愛を正当化しながらわかったような顔をして「自我=自意識」を語っている世の中だから、なんだかややこしくなって、そのほんらいのかたちが見えにくくなってしまっているのだ。
人間の心は、ほんらいシンプルでイノセントなものだ。シンプルでイノセントだから、生きてあることのいたたまれなさをよく知っている。シンプルでイノセントになれば幸せで上機嫌に生きられるというものではないのである。生きてあることには価値があるというその上機嫌そのものが、混沌とした狂気なのだ。
現代人は死ぬことが怖いから、あるいは死ぬことを忘れて生きているから、何がなんでも生きてあることの価値を捏造しようとする。そこからわけのわからない狂気が生まれてくる。
そのわけのわからない狂気は、その人の中でちゃんと整合性を持っている。近代合理主義の整合性に対する信憑がわけのわからない狂気をつくりだすのであり、そうやってその混沌につじつまを合わせてしまうのだ。
引きこもりだって、つじつまが合ってしまうことに悩み、身動きできなくなってしまっているのだろう。
まあ、この世界は神がつくった、といえば何もかもつじつまが合うのだろう。そのつじつまが合うということに、われわれ現代人の心は追いつめられている。
「原初の混沌」などというものはない。人は、意識の表層で凶悪になったり追いつめられて精神を病んだりするのだ。無意識の病理などというものはない、すべては観念の病なのではないだろうか。
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   3.イノセントという品性
それはともかく、われわれが人に感じる「品性」とは、「原初のイノセントを持っている気配」のことかもしれない。
いまどきのギャルが思わず「かわいい」とつぶやくことだって、そこに「原初のイノセントの気配」を感じているのかもしれない。
それに対して大人たちは、そういうイノセントのことを「原初の混沌」などと批判して、自分に執着する自分の下品さを正当化することばかり考えている。
彼らは、自分は「原初の混沌」を克服して大人になった、と自慢する。
一方若者たちは、「原初のイノセント」に遡行しようとしている。
いまどきのギャルの「あ、かわいい」「わ、かわいい」という世界に対するときめきは、まさにこの国の伝統としての「原初のイノセント」を体現している現象なのだ。それは、やまとことばの正統的な源流としての「あ・わ」なのである。
彼らのそういう「自分忘れる」タッチを持った自我は、自分に執着して自分を知ることが自我だと合唱している大人たちにはわかるまい。そうやって大人たちは若者をさげすみ、同時また若者のそうしたイノセントから幻滅されてもいる。
自我とは自分を知る心である、などというようなことをいっていたら、そりゃあ幻滅されるさ。
この、どうしようもない断絶。
自分に執着する大人たちは、自分を鏡に映しながら、いつも自分を外側から検証している。自分の姿や自分の人格が他人からどのように見えているかということをものすごく気にして、それがわかっているつもりでいる。
しかしその姿や人格は、どこまでいっても自分が評価するものであって、正確な他人の評価ではない。
誰も自分の外に出ることはできない。出たつもりになって自分がわかっているつもりになっているそのことが、わかっていない証拠なのだ。そんなものは、そういうことにしておきたいという自分の欲望や願望のあらわれに過ぎない。
誰も、自分が思うほど他人が自分を評価してくれているわけではないし、自分が思うほど嫌われているわけではないことも多い。他人は、自分が自分に対するほどには、自分を気にしてくれているわけではない。
また、たとえあなたが評価されているとしても、それはあなたが思っている部分とは違う面であったりする。
他人が自分の何を評価してくれているかということだって、じつはわからないことなのだ。
おまえのその人格者づらなど、他人にとってはどうでもいいことなんだよ。
いまどきの大人たちの「自分を知る」心など、ただの自己愛にすぎない。そのようにして彼らは人間ほんらいの「世界にときめく」というイノセントな自我を喪失してしまっている。それは、下品だ。品性がない。
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