「漂泊論」・49・「私」という意識の起源

   1・根源的な自我=自意識は、「けがれの自覚」として発生する
「私」という意識、すなわち自我=自意識。しかしそれと「自己愛」とはまた別のものだろう。
と思うのだが、世間ではあんがいこの境界はあいまいで、ただの自己愛でしかないものを人間性の基礎としての自我=自意識であるかのようにいわれていることも多い。
発達心理学で「自我の目覚め」というとき、かなり自己愛と混同している。
現代人が「命の尊厳」などというのも、ほとんどは自己愛から発せられている。
ほんらい、人間にとって自我=自己意識は「けがれの自覚」である。これが、われわれの公理だ。
原初の人類の「けがれの自覚」が、二本の足で立ち上がるという事態をもたらした。
彼らは、限度を超えて密集した群れの中で体をぶつけ合って行動していた。これが、二本の足で立ち上がる契機だった。
そのとき、体をぶつけ合っていることの鬱陶しさがあった。ヒステリーを起こしそうなほど鬱陶しかった。
まあ、それでも余分な個体を追い出すことができない状況があったわけだが、この鬱陶しさの自覚は、自意識にちがいない。
怪我をすれば、痛い。この「痛い」という不快感は自意識である。自意識がなければ、不快になんかならない。
この不快感=自意識は、猿でも犬猫でも持っている。ただ「私」という言葉として自覚していないだけである。自意識そのものは、彼らも持っている。
現代人は、「私」という言葉とともに自分を対象化し、自分が自分を好きになるという「自己愛」や、自分で自分を嫌いになるという「自己嫌悪」とか、そういう「自己撞着」の意識を持っている。これは、根源的で自然な自意識とはちょっと違う、「制度的な自意識」というべきだろう。
生き物はすべて「自己」と「世界」との関係としてこの生をいとなんでいる。
「世界」との関係においてこの身体が動くのであり、この身体が世界に気づいているのだ。
そのような身体を「私」とする「自我=自意識」は、犬猫でも持っている。
人間に叩かれそうになって素早く身をかわすゴキブリにだって「自我=自意識」がないとはいえない。
彼らは、「私という意識」を言語化し自覚していないだけで、「私という意識」を持っていないわけではない。彼らだって「私」を持っており、「私」を携えながら「世界」と関係して生きている。
人間だけが自我=自意識を持っているなんて、とんでもない思い上がりなのだ。
したがって、発達心理学でいうところの「自我の目覚め」などということもない。赤ん坊は、生まれおちたときからすでに「自我=自意識」を持っている。
凡庸な心理学者や哲学者は、「人間は生きるための便利な道具として自我=自意識を持った」という。つまり「便利な道具」として自我に目覚めてゆくんだってさ。
そういうことじゃないんだなあ。それは、制度性としてのたんなる「自己愛=自己撞着」の問題なのだ。
生き物は、世界との関係における「身体の危機=けがれの自覚」として「自我=自意識」が発現する(立ちあらわれる)。
それは、ゴキブリが人間に叩かれそうになった瞬間に発現する。
それは、生まれおちた赤ん坊がみずからの身体の物性に気づいた瞬間に発現する。
自我=自意識とは、みずからの身体の物性に気づく意識である。そして、みずからの身体の物性は、身体の危機において気付かされる。暑い寒いとか、痛いとか苦しいとか空腹だとか、そういう身体の危機としての「不快感(苦痛)」こそ、自我=自意識の発現にほかならない。
根源的には、自我=自意識は身体の物性に気づく意識であり、それは「不快感=けがれ」として発現する。生きてゆくのに便利な道具として見つけ出されるのではないのだ。
凡庸な心理学者や哲学者の「自己愛=自己撞着」をそのまま遡行(還元)しても、自我=自意識の根源のかたちに届くわけではない。
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   2・「身体である私」と「身体ではない私」
世界との関係においてみずからの身体の物性に気づく意識は、ゴキブリでも犬猫でも持っている。
しかし人間は、「身体の物性に気づいている私」というもうひとつの自我=自意識を持っている。この「私」は、身体ではない。ここから心身二元論が生まれてくる。
われわれは、「身体である私」と「身体ではない私」の二重の自我を持っている。
では、「私という意識」は、「身体ではない私」から生まれてきたのか。犬猫には自我=自意識はないといっている人は、人間は先験的に「身体ではない私」という意識を持っている、と思っている。
しかし、そうではないのだ。
「身体である私」という意識から「身体ではない私」がイメージされていったのだ。
「身体である私」という意識は、自覚されていないだけで犬猫でも持っている。それが人間において自覚されるきっかけは、言葉にあった。言葉によって「私」が自覚された。しかしそのときの「私」はまだ「身体である私」であって、「身体ではない私」ではなかった。
ただ、「身体である私」が消えてゆく体験として「身体である私」に気づいた。ここのところがやっかいなのだ。人間は、ほかの動物以上に「身体である私」の「けがれ」を強く意識している。だからこそ「身体である私」を「忘れてしまう=消えてゆく」という心地をダイナミックに体験する。
おそらくここから「身体ではない私」という自我=自意識が生まれてきた。
「身体ではない観念だけの存在としての私」は、身体を忘れてしまう(消えてゆく)体験の上に成り立っている。したがって人間が、どれほど「観念だけの存在としての私」として思考しようとも、「身体である私」としての自我=自意識がなくなるわけではない。
「身体である私」という自我=自意識を持っているから、すなわちそれを無意識において「けがれの自覚」として持っているから、「身体ではない私」という観念が生まれてくるのだ。
この「身体ではない私」を止揚する装置として、「共同体(国家)が生まれてきた。この「私」は死んではないのだから、「けがれ」を負っていない。「けがれ」は排除すべき第三者のもとにあるそうして、身体そのものも排除すべき第三者として、「身体ではない私」という自我概念が強化されてゆく。
そうして「身体の死」を「けがれ」として排除し、「魂の永遠」と「天国・極楽浄土」が止揚されてゆく。
しかしそれでも人は「身体である私」という自我を持っていて、この生に幻滅したり、天国や極楽浄土を信じない心を持ったりして生きている。
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   3・「「私」という言葉の起源
ともあれ、「身体ではない私」が本格的に自覚されていったのは、社会の制度性が高度になっていった近代以降のことである。
原始人が言葉によって気づかされた「私」は、そういう「身体ではない私」ではない。
「誰か、狩の獲物がいる場所を知らないか?」
「あ、知ってるよ」
「私が知ってるよ」とはいわない。彼らはもう、ずっと昔から「私という意識」を持っていたにもかかわらず、そのようなときに「私」という言葉は使わなかった。
なぜなら、彼らにとって「私」とは「身体である私」であり「けがれ」であったから、「私」という言葉を積極的に使おうという意欲を持たなかった。まあ、そんな意欲は、現代人の専売特許だ。
現代人だって、たしなみのある人は、そうむやみに「私が、私が」とはいわない。
つまり「私」といおうとして「私」という言葉が生まれてきたのではない、ということだ。
何かのはずみで、その言葉が生まれてきた。その「はずみ」が問われなければならない。
おそらく、この「あ、知ってるよ」という言い方こそ、「私」という言葉が生まれてくる契機(はずみ)になったのだ。
現在知られているもっとも古い「私」という日本語は、「あ=吾」である。
あるいは「わ=吾」。「わ、きれいだね」というときの「わ」。
そのとき古代人(あるいは原始人)は、この「あ=わ」に、「私という意識=自我」が含まれていることに気づいた。
何かに気づいている心の動きから「あ=わ」という音声がこぼれ出る。
「私」が気づくのだ。
その「気づく」という体験の中に「私」を発見した。
それは、他者との関係における「私」ではない。
「あ」とか「わ」という音声など、ひとりで山や海を見たときでも、けがして「痛い」と感じたときでも口をついて出てくる。
万葉人が「わが母」とか「わが背子(=夫・恋人)」とか「わが妹(妻・恋人)」というときの「わが」には、「私の」という意味は希薄で、「いとしい」という感慨がこめられているだけである。それは、現代のような、他者との関係における「私」という立場を示すための道具として機能している言葉ではなかった。
原初の「私」という言葉は、現代人が使っている「私」という言葉のような、他人との関係をやりくりしたり自分を主張しようとしたりする道具として生まれてきたのではない。
何かに気づく自我=自意識の表出として生まれてきたのだ。
その「あ=わ」という音声は、たとえ他人と一緒にいるときでも、他人に向かって発せられたのではない。
「あ、知ってるよ」というときの「あ」は、他人に向かって発せられているのではない。
しかしかといって、たんなるモノローグでもない。世界に気づき世界に反応している音声なのだ。つまり、「私=身体」はこの世界との関係として存在している、という意識なのだ。
いったい、この「私」とは何なのだろう。
他者との関係の中に置かれた「私」ではない。この「私」は、むしろ世界や他者から「疎外」された存在として発現して(立ちあらわれて)いる。
「私」にとって他者は世界の一部であり、「私」だけは世界の一部ではない……という「私」なのだ。
この世界の「すきま=裂け目」から「あ」とか「わ」という音声がこぼれ出てくる。そのことに気づいた驚きや感動から、その音声が「吾=私」という意味になっていった。
それは、「自分は世界の一部ではない」と気付く体験だった。
その「あ」とか「わ」という音声から「吾=私」に気づくなんて、すごい感性ではないか。
現代社会の孤独」などというが、原始人の方がずっと深く存在そのものの根源的な「孤立性」に気づいていたのだ。
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   4・「私」は「世界の一部」か?
原初の「私」という言葉は、他者との関係をやりくりするための道具として生まれてきたのではない。現代人こそ、そういう道具として「私」という言葉を使いまくっているのだ。
現代人は、自分が世界の一部だという意識を「自己愛」として持っている。だから、死んだら世界から切り離される、という恐怖を持つ。現代人の自己愛は、自分は世界の一部である、という意識の上に成り立っている。したがって死ぬことは自己愛が成り立たなくなることであり、それに恐怖している。
もともと自分なんか「世界の一部」ではないというのに……少なくとも原始人は、そのことをよくわきまえていた。
鏡も写真もない世界に生きている人間を想像してみればいい。自分の姿など、永久に見ることができないのである。それで、どうして自分も世界の一部だと思うことができよう。
われわれだって、ふだんの意識においては、自分の姿をちゃんと把握していない。ちゃんと把握していないから、ブスやブ男だって「自分はけっこういけてる」と思うことができるし、ちゃんと把握していないからこそ、自分の姿を鏡に映して確認しなければならない。
われわれだって、じつは、自分が世界の一部だなどとは思っていない。ただ、そういう自分の姿がわかったつもりになる制度的な観念(=自己愛)が肥大化する社会構造の中に置かれているだけのこと。
人間性の基礎は、自分が世界の一部だと思うことの不可能性の上に成り立っている。
そして共同体の正義=制度性は、自分を世界の一部だと確信することの上に成り立っている。
現代社会で暮らすわれわれは、そうやって二つの自我に引き裂かれている。
世間ではよく、「自分は神だ」とか「自分が宇宙だ」といいだすことを「独我論」といっているのだが、それは、「自分は世界の一部ではない」という孤立した意識から生まれてくるのではない。逆に、「自分は世界の一部である」という自己愛(ナルシズム)が極限まで肥大化した意識において確信されているのだ。
「自分は世界の一部ではない」と思っているのだから、「自分が世界だ」などと思いようがないではないか。これは「独我論」ではない。「自分は世界の一部だ」と思うことが「独我論」であり「自己愛」なのだ。
「自分はこの社会の一員だ」とか「世のため人のためにつくしている」などという自覚で生きていれば「独我論」や「自己愛」とは無縁であるかのようだが、じつは、「世のため人のためにつくしている」という自覚そのものが「自分が世界だ」と思っているのと同じなのである。
だから、自分のいっていることが正義だ、と確信できる。内田樹先生のいいざまも、原発反対も、まあそのような「独我論」だ。正義だと主張することが「独我論」なのだ。そうやって彼らは、「俺が世界だ」という場に立っている。
「自分は世界(社会)の一部である」という自覚は、すでに「自分が世界だ」という意識に届いている。「独我論」や「自己愛」を自覚していないだけで、すでに「独我論」であり「自己愛=自己撞着」なのだ。
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   5・自分が「世界の一部」であると思うことの不可能性
この社会では、自分も社会の一部として他者との関係をやりくりしながら「私」という言葉を上手に使いまわしてゆくことが生きる作法になっている。
「私は世界(社会)の一部である」という意識は、共同体(国家)の発生以後に生まれてきた意識である。それまで人類は「私は世界の一部ではない」と思っていたし、そのような自覚の表出として「私=吾」という言葉が生まれ育ってきた。
身体も物質としての自然の一部なのだから「身体である私」としての原初的な自我=自意識もそのように自覚しているかというと、そうではない。
問題は、そう単純ではない。
「身体である私」としての自我=自意識は、身体を忘れる(=消えてゆく)という体験している。したがって、身体を物質として自覚することの不可能性を負っている。われわれはふだん、みずからの身体を「非存在の空間の輪郭」として扱って暮らしている。身体の危機においてのみ身体を物質として自覚していて、ふだんは忘れている。その「非存在の身体」は物質ではないのである。
われわれは、「身体である私」という自我=自意識を持っているがゆえに、みずからの存在を「世界の一部」であると思うことができない。自分の身体は「非存在の空間の輪郭」なのに、他者の身体はたしかに物質であり、世界の一部として認識される。抱きしめ合って他者の身体の物性をたしかに感じれば感じるほど、みずからの身体の物性に対する意識は消えてゆく。
「身体である私」は、みずからの存在が「世界の一部」であると思うことの不可能性を負っている。
それに対して「身体ではない私」は、みずからの身体も他者と同じ物体だと対象化しているから、「自分は世界の一部だ」と思うことはそう困難なことではない。「身体ではない私」が身体を対象化し身体を支配して生きていれば、自分の身体もまた「世界の一部」になる。
「身体ではない私」が、自分は「世界の一部」であると思っている。
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   6・自分は「世界の一部」あると思うことこそ「独我論」なのである
共同体(国家)は、成員どうしの結びつきを密にして、第三者を排除してゆく。そのようにして「私は世界=社会の一部である」という意識が生まれ育ってきた。この「第三者を排除する」という作法によって人と人の関係がより密着し、「私は世界の一部である」という意識になってゆく。
しかしそれによってわれわれが「私は世界の一部ではない」という意識を失ったかというと、そうではなく、同時にその意識もより確かに自覚され、プライベートな場面での恋や友情や遊びや学問や芸術などのいとなみももよりダイナミックに発展していった。
われわれの自我=自意識は、「私は世界の一部である」という意識と「私は世界の一部ではない」という意識の二重構造になっている。
「身体は私である」という自我と「身体は私ではない」という自我の二重構造になっている。
身体ではない「私」がひとり歩きして、「世界の一部」になり、「私」という意識を特化させた「自己愛」として機能している。
その「自己愛」は、他者との関係から生まれてくる。だから「自己愛」は、「私は世界の一部である」と自覚する。
共同体の制度の中でうまく立ち回るためには、「自己愛」という「独我論」が必要である。
「世のため人のためにつくす」などという発想は自己愛(ナルシズム)である。そういう俗物ほど、ナルシストである。ナルシズムとは、世のため人のためにつくして自分を正当化しようとする衝動である。世のため人のために尽くさなければ、すなわち他者との関係においてしか自分は正当化できない。
彼らは、それほどに「私」に執着している。
「身体ではない私」は、身体の「けがれ」から無縁であるから、無限に執着してゆくことができる。
「身体である私」は、つねに「けがれの自覚」をともない、つねに「けがれ」をそそごうと試みている。この世の恋や友情や遊びや学問や芸術は、そういう試みとして生まれ発展してきた。
なんのかのといっても、この世のセクシーで魅力的な人も、知性や芸術的な感性が豊かな人も、「けがれの自覚」とともに「私」を忘れてときめき夢中になってゆく心を持っている。
われわれ現代人だって、原初の自我=自意識を抱えて生きているのである。
そして原初の自我=自意識による「私」という言葉は、「生きるために都合がいい道具」として生まれてきたのではない。ふとしたはずみで「私は世界の一部ではない」ということに気づかされる体験として生まれてきた。
その言葉=音声は、世界の「裂け目」から生まれてきた。そして、「私」は世界の裂け目に存在している、と気づいた。
子供のかくれんぼだって、世界の裂け目に身を潜めようとする遊びである。
人類は、原初の直立二足歩行の開始以来、世界の裂け目に身を潜めて逃げ隠れしながら歴史を歩んできたのだ。
そういう自己愛ではない根源的な自我=自意識が、現代社会で暮らすわれわれの中にもなお息づいている。
「けがれの自覚」としての自我=自意識が。
原始人だって、「私」という言葉を持っていた。しかし彼らにとって「私」とは、避けがたく気づかされるものであって、あらかじめ対象化して所有しているものではなかった。つまり、現代人のように、あらかじめ「私」という言葉を携えて他者と関係していったかというとそうではなく、「私」とは世界との関係の中で不意に気づかされるものだった。
原始人は、誰もが「私という意識=自意識」を持っていたが、あらかじめ「私」を対象化して意識しているわけではなかった。
現代人は、あらかじめ「私」を対象化しているから、「私とは何か?」と問う。「私という意識とは何か?」と問う。それは、「自意識」というよりは「自己愛」なのだ。
そのようにしてわれわれは、「私という意識」を、「自意識」のレベルと「自己愛」のレベルに分裂させたかたちで携え、この生をいとなんでいる。
デカルトは、すべての存在を疑っても、「私という意識」だけは残る、といった。
彼は、身体の存在は疑うことができる、といった。しかし、その時点でもう、作為的な独我論に陥っている。
われわれにとって身体は、みずからの意思でその存在を信じている対象ではなく、不可避的に「気づかされる」対象である。そりゃあ、ふだんは身体のことなど忘れて生きているのだから、疑おうと思って疑うことなんかかんたんなことだ。しかしそれでもわれわれは、避けがたくその存在に「気づかされる」のだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
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