「漂泊論」・50・旅に出るとは「消えてゆく」ということ

   1・知的な人は、あんがい子供である
「気づく」という心の動きは、そこに「自我=自意識」がはたらいているから起きる。日本列島の古代人(あるいは原始人)は、そのことを知って「あ・わ」という音声を「私=吾」という意味の言葉にした。
もちろんそのとき彼らには「自我=自意識」という概念の自覚などなかった。それでも彼らはそのことに気づいた。しかも気づいたのは、ひとりの聡明なリーダーではない。みんなが、なんとなく気づいていたのだ。誰かが、これを「私」という意味の言葉にしよう、と提案したのではない。気がついたら誰もがそういう言葉の使い方をしていただけである。誰も自我=自意識という概念など知らなかったが、誰もがそのことに気づいていた。
現代人と古代人とどちらが知的であるかなんてわからない。われわれは、自我=自意識という概念=言葉なしにそういうことに気づくことができる知性や想像力を持っているだろうか。
知性とは、「気づく」ことができる心のはたらきのことだ。それは、知識をためこむ記憶力とはちょっと違う。その知識を並べて自分を表現してゆく能力とも違う。
「気づく」とは、自分を忘れて世界や他者にときめいてゆくことであって、意識が自分に向いていることではない。
意識は、身体の危機として、身体=自分に気づく。暑いとか寒いとか痛いとか、身体の変調において、身体に気づくのだ。だから、身体のことを忘れて世界に意識が向いてゆくのであり、実際、ふだんは身体のことなど忘れている。
したがって、根源的には、身体=自分に向かおうとする意識のはたらきは存在しない。
われわれにとって身体=自分は、避けがたく気づかされる対象であって、根源的には、そこに向かおうとする衝動はない。
「気づく」という心の動きは、自分を忘れて自分の外の世界や他者に向いているときに、もっともいきいきとはたらく。そういう心の動きを持っていることを知性というのだろう。
自分=身体に気づくことは、誰もが不可避的に体験する。しかし、自分を忘れて世界に気づいてゆく知性には、人によってかなり差がある。
東大だっていろんな人間がいる。ただの詰め込みの知識しか持っていない人間もいれば、イノセントですごい本格的な知性の持ち主だっているのだろう。そしてそういう人は、自分が知的な人間だという自覚がほとんどないに違いなく、どちらかというと原始人に近いのかもしれない。
もしかしたら、自分に対する執着が薄いぶん、現代人よりも原始人の方が知的な人種だったのかもしれない。
現代人は意識がつねに自分に向いており、知識を頭に詰め込んで自分を表現してゆくことには熱心だが、だからこそ、都市伝説とかスピリチュアルとかカルト宗教とか、ひどく迷信深く無知なところがある。原始時代には、そんなものはなかった。
またそれは、原発反対のデモとか政治的な党派や宗教の対立とか、集団的な自我を共有して盛り上がってゆく傾向が強いということであり、身体の「孤立性」を失っているともいえる。
原初の直立二足歩行の発生は、たがいの身体の「孤立性」を確保し合ってゆくというムーブメントだったのだが。
集団的な自我の共有とは、「自己愛(ナルシズム)の共有」ということである。なぜならそれは、自分たちは正しいという自己愛(ナルシズム)を「確信」というかたちで共有している状態にほかならない。
現代人はそうしたナルシスティックな「確信」を共有しつつ、世界の裂け目に立って「何・なぜ?」と問う態度を失っているのだが、「気づく」という体験はそこでこそ起きているのだ。
「気づく」とは、この世界の「裂け目」を見つけることである。高等数学の問題を解き明かすことだろうと、あなたの魅力にときめくことだろうと、この世界の「裂け目」を見出す体験なのだ。そういう体験は、党派性(集団的な自我の共有)を離れた身体の孤立性の場において実現される。
知性とは、そういうものであるにちがいない。知性とは子供のイノセントであって、大人の知恵でも人格でもない。この世界(社会)を知る大人のたしなみではなく、この世界(社会)の裂け目に気づくイノセントのことである。
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   2・俗物でも詩人や小説家になれる
高度な文章表現とは、自分を表現することではない。言葉を表現することである。そのとき言葉は、「自分」を置き去りにして、言葉それ自体として存在している。だから、どんな下品な俗物の人間でであっても、言葉に対して敏感であれば高度な文章表現ができるし、詐欺師にもなれる。
詐欺師が高度は知性を持っているとは、ちょっといえないだろう。それは、詩人や小説家だって同じだ。
詩人や小説家は、高度な文章表現ができるから、往々にして自分が高度な思索ができる知的な人間のつもりでいるのだが、それは違う。どうしようもない俗物でも、言葉に対して敏感であれば詩人や小説家になれる。
まあ僕は、大江健三郎村上春樹の小説はすごいと思うが、人間としてはただの俗物だろうと思っていますよ。吉本隆明しかり。
吉本隆明氏は、「言語にとって美とはなにか」という著書の中で、言葉の起源と本質的な機能は自分を表現することにあるとして、これを「自己表出」といっている。
これに対して客観的な意味の伝達の機能は、「指示表出」というのだとか。
つまり、原始人は自分を表現するために言葉を生み出した、といっているのだ。
自分を表現しようとすることが、人間の根源的な衝動なんだってさ。吉本氏は、ここのとろで、すでにつまずいている。小説家や詩人は、「言葉」を表現しているのであって、「自分」を表現しているのではない。「自分」を表現しているつもりでいるのは、あなたたちのただのナルシズムなんだよ。
村上春樹の言葉に対する鋭敏さは多くの人が認めるところであるが、人間なんかただの俗物かもしれない。小説家も詩人も、自分を表現しているつもりならとんでもない思い上がりで、彼らは言葉を表現しているだけなのだ。
言葉の根源において、「自己表出」などという機能はない。まったく吉本隆明なんて、どうしようもない俗物のナルシストだなあ、と思う。思考が薄っぺらでステレオタイプすぎるのだ。
言葉の起源は、この世界の何かに気づいたときに、我を忘れて「あ」という音声を思わず漏らしたことにある。すなわち言葉の根源的な機能は、「自己の消失」にある。だから、俗物でも詩や小説が書けるし、詐欺師は言葉だけで人をだますことができるのだ。
吉本さん、言葉に「自己表出」の機能があったら、あなたたちのような俗物は詩人や小説家にはなれないし、詐欺師は人をだませない。
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   3・自分が消える、という体験
人間性の基礎は、「自分が消える」という体験を持っていることにあるのであって、自我=自意識を持っていることにあるのではない。そんなものは、猿や犬猫でも持っている。
人間にとって「身体=自己」は「けがれ」であり、そこから離れて自己が消失してゆくとともに世界に気づきときめいてゆくことによって言葉が生まれてきた。
最初は、世界に気づいて「あ」といった。それはもう、すでに言葉だった。その音声は、自分が自分を表現するために発したのではない。自分を忘れて思わず発してしまったのだ。その自分を忘れてしまうことのカタルシスこそ、言葉の起源なのだ。
この「あ」という音声は、人類史のいつごろ発せられたのだろうか。数百万年前の直立二足歩行をはじめた直後の可能性もある。人間は二本の足で立つことを常態化したことによって喉の構造が言葉を発しやすいように変化してきた、という説があるが、言葉を発しやすいような喉の構造になればただちに言葉が生まれてくるとはかぎらない。言葉が発せられるような感慨を持たなければ、言葉は生まれてこない。言い換えれば、言葉が発せられるような感慨を持てば、喉の構造なんか変化しなくても言葉は生まれてくる。
「あ」という音声を発することなど、おそらく猿でもできる。しかし猿は、その音声が発せられるような感慨を持っていない。人間と猿の違いは、そこにある。喉の構造の違いにあるのではない。
この「あ」という音声は、自分を忘れている(自分が消失している)状態において発せられている。この「自分が消える」という体験が、猿にはない。なぜなら猿には「自分=身体」に対する「鬱陶しさ=けがれの自覚」がないから、消えようとする衝動がはたらいていない。人間はそういう契機を持っているから、自分が消えて思わず「あ」という音声がこぼれ出てしまう。
そのあと「さ」とか「か」とか「も」というようなさまざまな色合いの音声がこぼれ出てきたのも、自分を忘れて何かに気づいてゆく感慨からである。海を見たときと空を見たときと木の緑や花を見たときとでは、感慨の色合いは違うし、こぼれ出る音声も違ってくる。
しかしいずれにせよそれは、自分を忘れる(自分が消えてゆく)ことのカタルシスとして体験されている。
さらにそこから「うみ」とか「やま」とか「き」とか「はな」という言葉=音声になってきたことだって、つまるところ音声を発することに自分が消えてゆくことのカタルシスがあったからで、その体験の積み重ねの歴史によってそういう言葉になっていったのだ。
それは、「自己表出」などということではない。吉本さん、そういうことにしたいのはあんたのナルシズムであり、傲慢なんだよ。
原始人は、自分を忘れて世界に気づきときめいてゆく体験として言葉を生み出したのだ。
言葉なんかつまるところ自分の口からこぼれ出る音声なのだから、単純に考えれば自分を表現する「自己表出」ということになってしまうのだろうが、よくよく考えればそういうことではない。それは、自分を忘れる体験であり、自分の中にたまった「鬱陶しさ=けがれ」を音声とともに吐き出す体験なのだ。
もともと四本足で歩いていた猿が二本の足で立ち上がって歩きはじめたのだから、身体とのかかわりのしんどさや鬱陶しさは感じないはずがない。と同時にその姿勢は、密集状態で体をぶつけ合っていることからの解放をもたらした。つまりそのとき、自分を忘れて空間と関わってゆくことのカタルシスを体験した。
まあ言葉は、たがいの身体のあいだの「空間」に音声を投げ入れ合う作法として生まれ育ってきた。「あ」という音声はそのような「空間」に無邪気に投げ入れられたのであり、伝達するためのものではなかったし、そのとき伝達しようとする自分は消えている。これが、言葉の根源的な機能である。
言葉は、「自己表出」などというスケベったらしい衝動から生まれ育ってきたのではない。
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   4・知性のかたち
古代(あるいは原始時代)の日本列島では、思わず「あ、花だ」とか「わ、きれいだ」というときの「あ」や「わ」に自我=自意識の消失を見出し、その音声を「私=吾」という意味の言葉にしていった。
だから古代人は、その言葉を、自分を表現するためにも、自分の客観的な立場を説明するためにも使わなかった。日本語には「私」という主語が省かれる習慣が残っている。なぜならもともとそれは、「私の消失」をあらわす言葉だったからだ。
万葉人が「わが母「とか「わが背子」というときの「わが」は、「私の」という意味ではなく、「大切な」とか「いとしい」というニュアンスである。つまりこのときの「わ=吾」は、消えている「私」である。
たとえば「私のお気に入りのおもちゃ」というときの「私」には、自分を忘れて夢中になってゆく「私」が表出されている。まあ、このようなことだ。
古代人は、自分を表現する道具として言葉を使っていたのではない。自分を忘れて世界に気づきときめいてゆく体験として、言葉=音声を吐きだしていた。
やまとことばの「吾=あ・わ」は、「非存在の私」なのである。つまり、この世界の裂け目に存在する「非存在の私」なのだ。古代人は、人間存在のそういう根源的な「疎外」に気づいていたのであり、そういうスタンスで言葉を交わし合っていた。
そのように考えないと、なぜ「あ・わ」が「私=吾」という意味になっていったかということの説明はつかない。そしておそらくこれが、世界中の「私」という言葉の起源のかたちなのだ。
古代人は「非存在の私」を自我=自意識として持っていたのであり、そこには「自己表出」の衝動などなかった。
古代人には、現代人のような自己表出しようとするほどの自分に対する執着はなかった。ひたすら自分を忘れて世界に気づきときめいていった。そしてそれこそがじつは、知性というものの正味なのだ。
知性というのは、自分を忘れているから、あんがい他愛なく無邪気なのだ。いや、無邪気であって、無邪気でない。知性とは「身体=自分」の「けがれ」を知る心であり、「身体=自分」を忘れる心である。
けがれを自覚するものは、けがれをそそぐ作法を持っている。
現代社会で暮らすわれわれは、ひとまず誰もが第三者を排除する心の動きを持たされてしまっている。現代社会においては、「けがれ」は第三者のもとにあって、自分のもとにはない。そこから「自己表出」の衝動が生まれてくる。したがってそれが人間性の根源だというわけではないし、そこに高度な知性が宿っているのでもない。
われわれは、表出するべき自己など持っていない。言葉の機能の根源と究極は、自己が消去されることにある。
言葉そのものが人を感動させるのであって、「私」の心が人の心を揺り動かすのではない。言葉には、根源において「私」などというものはまとわりついていない。
したがって、言葉の根源的な機能は「自己表出」にある、などということは原理的に成り立たない。
思わず「あ」という音声が口からこぼれ出る。これが、言葉の根源のかたちであり、そのとき「私=自己」は消去されている。消去されているのが「私=自己」なのだ。そういう「裂け目」において「あ」という音声がこぼれ出て「私=自己」に気づかされる。
「あ」という言葉=音声は「私」を表現しているが、その音声を発する「私」は消えている。これが、言葉の起源であり究極のかたちでもある。
僕は、小説や詩を否定しているのではない。とりあえずそれらは、人間が言葉を表現する究極のかたちのひとつだろうと思っている。
ただ、詩人や小説家に興味はない、といっているだけだ。べつに彼らが優れた人間だとも知的な人間とも思っていない。
詩人や小説家であろうとあるまいと、自分を知的だと思っている人間に知的な人間がいたためしがない。なぜなら知性とは、自分を忘れて世界の裂け目に気づいてゆくことだからだ。
少なくとも言葉の本質は「自己表出」にあるといっている人間が、知的であるはずがない。「自分を忘れる」というタッチを持っていなければ、知性とはいえない。
われわれ現代人の知性は、自分を忘れて「あ」という音声がこぼれ出ることに「自我=私」を見出していった古代人や原始人の知性に届いているだろうか。
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