官能性の問題・ネアンデルタール人論・101

原始人が生きられるはずのない氷河期の北ヨーロッパに置かれたネアンデルタール人を生き残らせたもっとも大きな要因は、セックスにある。彼らの生は死と背中合わせで、人がかんたんに死んでゆく社会だった。とくに生まれた子供の半数以上が大人になる前に死んでいっいった。ネアンデルタール人の遺跡で発掘される骨の半数は子供のものだ。子供の骨は長い年月のあいだに溶けてなくなってしまう確率が高いのだから、それは、大人よりももっとたくさんの子供が死んでいったことを意味する。このことを、現在の人類学はあまり深く考えていない。現代社会においては、子供の死は老人のそれと比べたらほとんどないのも同じくらいだろう。であればネアンデルタール人遺跡のそのデータは驚くべきことで、こんな悲惨な社会もない、ともいえる。大人の平均寿命だって30数年で、30歳を過ぎたらもう老人だった。しかしそれでも彼らは、他愛なくときめき合って毎晩のようにセックスし、死んでゆくものたちの数以上に繁殖していった。まあだからこそ、生きられない弱いものを生かそうとするも心模様ことのほか切実だったに違いない。とにかくそこは、ひとりで寝ていたら凍死してしまうような環境だった。つねに誰もが抱きしめ合い、たがいの体を温め合いながら眠りに就いていた。彼らにとって抱きしめ合うことは、他者を生かそうとするひとつの「献身=介護」の行為でもあった。つまり、誰もが「生きられない弱いもの」だった。
人類史の進化発展は、「もう死んでもいい」という勢いを持ったことにある。原初の直立二足歩行の起源がすでにそういう体験だったし、その勢いで地球の隅々まで拡散していった。その勢いの意識のはたらきこそが、人間的な知性や感性の進化発展の契機になった。
「もう死んでもいい」ということは、この生やこの世界の意味や価値などどうでもいいということであり、そこでこそ意味や価値以前の直接的な「感触」をより豊かに汲み上げてゆくことができる。
 世界は、存在そのものにおいてすでに輝いている。おそらくネアンデルタール人は、そういう感慨を共有しながら誰もが他愛なくときめき合い、抱きしめ合っていった。
 人が人にときめくのに、「美しい」とか「正しい」とか「やさしい」とか、そんな意味や価値などどうでもいい。他者は、存在そのものにおいてすでに輝いている。この世のもっとも苛酷な環境を生きていた氷河期のネアンデルタール人は、誰もがそうやって他愛なくときめき合っていなければ生き残ってくることはできなかったはずだ。
 現在のこの国で「非婚化」とか「少子化」というかたちで男女の関係が不調になっているのは、「美しい」とか「正しい」とか「やさしい」とかの「意味」や「価値」で他者を計量して、存在そのものの輝きにときめいてゆく他愛ない心模様が希薄になっているからだろう。また、そうやってときめいてゆくことができないくせに、ときめかれたがる欲望ばかり膨らませている。そして自分自身の「美しさ」とか「正しさ」とか「やさしさ」とかの「意味」や「価値」を見せびらかそうとばかりしている。まあ、そんな大人たちがたくさんいて、そんな大人たちに引きずられて世の中がおかしくなってきている。

「献身」の衝動こそが猿よりも弱い猿であった原初の人類の歴史を成り立たせてきたのであって、二本の足で立ち上がった瞬間から猿よりも強くなって戦争ばかりしてきただなんて、そんなことはあるはずがない。
 人類が殺傷能力のある武器を持ったのは数万年か十数万年前のことであって、それまでの700万年間はどんなふうに殺し合いをしていたというのか。
 殺し合いなどできない猿になってしまうことが原初の二本の足で立ち上がるという体験だったのであり、その代わり猿よりももっと豊かにときめき合ってゆく猿になったのだ。彼らは二本の足で立ち上がることによって「生きられない」存在になり、その代わり豊かにときめき合いながら誰もが他者を生かそうとする存在になっていった。
 そうやって一年中発情している猿になっていった。
 そのときから人類にとってのセックスをすることは、他者に「献身」してゆく行為になった。
 現在だって、フェラチオとか、クンニリングスとか、そうやって男も女もけんめいに相手をよろこばそうとしているではないか。そういう連携プレイとして人のセックスが成り立っている。
 岸田秀という心理学者は、「人間は本能が壊れた生きものであり、たとえばSMプレイのように観念でセックスしている」といっているが、べつに誰もがそんな変態行為に励んでいるわけでもなかろう。圧倒的多数の人々はごく普通に抱き合ってセックスしている。それでは勃起できなくなってしまったものたちがそういうややこしいことをしているだけであり、それが観念的なセックスだというのなら、それは、観念で観念を壊して自然な状態に戻ろうとしているのだ。生き延びようとする欲望をたぎらせて生きている現代人は、その欲望を壊してしまわないとセックスができない。人類のセックスはもともと死に対する親密さの上に成り立っているのであり、そうやって一年中発情している猿になっていった。変態プレイの愛好者たちも、そうやって生と死の境目に立とうとしているのだ。
 生きてあることに嘆きが深い普通の人々は、そんなことをしなくても、存在そのものにおいてすでに生と死の境目に立っているのであり、だから普通に抱き合っただけでスムーズに勃起してゆく。そして、生と死の境目に立っていることこそが、人間だけでなく生きものの「本能(のようなもの)」なのだ。
 相手の体に触ったり舐めたり抱きしめたり、そんな献身的なことは猿はしない。それが猿と人間のセックスを分けているのであって、べつに観念的な変態行為をするとかしないとか、そんなことは関係ない。それはまあ、文明社会の病みたいなものだ。
 原始人が、鞭でひっぱたくとか縄で縛るとか、そんな変態行為をしていたはずがないじゃないか。
 おそらく人間的なセックスは、正常位で抱きしめ合う、というところからはじまっている。
 原初の人類が二本の足で立ち上がったとき、その不安定な姿勢は、たがいに正面から向き合うことによってもっとも安定した。それによって相手の身体が心理的な壁になって、前に倒れそうになる不安定さから逃れることができた。この関係を持ったことによって、その姿勢を常態化してゆく道が開かれた。そうして、抱きしめ合えば、さらに安定する、それは、たがいに相手の体を支え合っている関係なのだ。二本の足で立っていることの不安が、そういう関係の体位になってゆくことをうながした。
 一般的には、原初の人類だって猿の時代の延長としての後背位でセックスをしていたように考えられがちだが、じつは二本の足で立ち上がった直後からすでに正常位で抱きしめ合うことをはじめていたのかもしれない。
 正常位で抱きしめ合うことこそ人類のセックスのもっとも本質的なかたちであり、そこにこそ猿とは違う人間性がある。べつに観念でセックスしているのではない。そうやって抱きしめ合えばたちまち勃起してくるのが人間性の自然・本質なのだ。現代人だって、ほとんどの人がそうやってセックスをしているし、それは本質的に「献身」の体位であり、そこから触ったり舐めたりするようになってゆくのは自然ななりゆきに違いない。フェラチオとかクンニリングスなんて、「献身」の行為そのものではないか。
 人間的なセックスのもっとも本質的で豊かな醍醐味は正常位で抱きしめ合うことの「感触」にあり、そこでたちまち勃起してゆくことができるかどうかが人間性の勝負なのだ。
 変態行為をしないと勃起できないのが人間であるのではないし、そういう人間が増えてきているからインポテンツが現在の社会問題になっているのだろう。「人間は本能が壊れた存在である」という岸田秀のその言説は、そういう不自然な観念性が人間性だと居直っているいきがった知識人たちに一時期大いにウケていたが、しかしまあ、かんたんに他愛なく勃起できないのがそんなに偉いのか。そんなことばかり合唱している世の中だから、インポテンツの大人が増えてしまうのだ。集団的置換説だって同じ穴のムジナだろうが、今どきの知識人は、どうしてそんなにも俗っぽく浅薄な思考しかできないのか。

 人間は、猿よりももっと本能的な存在であり、原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、そうした「本能(のようなもの)」に遡行する体験だったのだ。
 ここでは、そういう「他愛なく」ということを考えたい。人は、猿よりももっと他愛なく他者にというか「世界の輝き」にときめいてゆくことができる存在であって、べつに「観念」に頼らなくても勃起できるし、観念にたよって勃起できなくなってゆく。
 べつに観念が計量する「意味」や「価値」にときめくのではなく、セックスにかぎっていえば、存在そのものの「感触」に「他愛なく」ときめいて勃起している。
 抱きしめったときの他者の身体の「感触」にときめくことはほんとにどうしようもなく他愛ないことであって、観念によって「意味」や「価値」を計量することではない。たとえ相手が絶世の美女であっても、立たないちんちんは立たないのだ。世の中には、若くて美しい愛人を持ちながら勃起できないままのセックスしかできない金持ちの老人はいくらでもいる。そしてそんなセックスでも抱きしめた感触だけは手放せないのであり、言い換えればセックスは抱きしめた感触がすべてだからそんなセックスでも成り立つということ。
人生の成功者だろうと敗残者だろうと、こんな世の中を生きていれば誰だって心を「価値意識」という観念に侵食されていってしまう。生き延びることが価値の世の中で、そのためにはどう生きればよいかという作為的な思考ばかり先走って、もともと人類が持っていた無防備で他愛ないときめきはどんどん減衰してゆく。
 現代人は、生き延びるためにみずからの存在の正当性を守ろうとして、緊張ばかりしている。
 今やもう、そんな他愛ないときめきは生まれたばかりの赤ん坊にしかないのか。赤ん坊や幼児がなぜそんな反応ができるかといえば、「生きられない」生を生きている存在だからだ。それでも生きてあるのはまわりの大人が生かしてくれているからだが、大人になれば誰も生かしてくれない。自分で生きてゆかないといけない。赤ん坊のように無防備な存在にはなれない。しかしそれでも人は、自分を忘れて他愛なくときめいてゆく体験がないと心が病んでゆく。無防備で他愛ないことこそ人間性の基礎であり、無防備で他愛ない存在になれる体験として人の世界にセックスがある。
思春期は避けがたく自意識過剰になってゆく時期だが、だからこそ同時に、自分を忘れて他愛なくときめいてゆく勢いもよりラディカルになってくる。そうやって性に目覚めてゆくのだろうか。そうやって勢いよく勃起してゆくのだろうか。それは、抱きしめ合いながら、みずからの身体を忘れて他者の身体の「感触」ばかりを感じている体験だ。
 歳を取って大人になってゆくと、その「感触」に対するときめきが薄れてくる。
「ときめく」とは、この生のいたたまれなさすなわち「生きられなさ」からの解放であり、「もう死んでもいい」という勢いでときめいてゆく。だから、感動をすると鳥肌が立つ、少年少女は胸がきゅんとなって心臓が止まりそうになる。生き延びることにあくせくするばかりでそんな体験をできない大人たちに、お得意の「よりよい未来の社会」とか「よりよい未来の人生」を語られてもねえ。少年少女は「今ここ」の「感触」を生きることに切で、それどころじゃない。そうやって彼らは、人間性の自然としての「生きられないこの世のもっとも弱いもの」の「タッチ=感触」で生きている。
 岸田秀は「人間は本能が壊れた存在である」といったが、それは「人間」の正体ではなく、今どきのすれっからしの大人たちの正体にすぎない。彼は「人間は観念でセックスをする」ともいったが、観念でちんちんが勃起するはずもなく、物事を「意味」や「価値」でしか見ることができない観念的な大人から順番にインポテンツなっていっているのが現実だ。
 この生は、観念が計量する「意味」や「価値」だけで成り立っているのではなく、無意識的なところで気づく「感触」というものがある。「感触」こそがこの生を成り立たせている。この生のこの世界の「感触」に気づくことができなくなったものから順番にインポテンツになってゆく。
 人類は、「意味」や「価値」を計量しようとする欲望を膨らませていったことによって知能(知性や感性)が進化発展してきたのではない。それは、「感触」に気づいてゆく無意識的な心模様、すなわち「ときめき」が豊かになっていったことによるのだ。

 男は、女の体を抱きしめたとき、「いったいこの感触はなんだろう?」と驚きときめきながら勃起してゆく。その「なんだろう?」と問うてゆく「ときめき」こそが人間的な知能(知性や感性)の本質であり、「わかる」という観念のはたらきなのではない。本格的な知性や感性の持ち主は、あんがい原始的で他愛ないところがある。そしてそういう部分は、われわれだって誰もがどこかしらに持っている。なぜなら人類はそういう歴史を歩んできたのだし、誰もが赤ん坊のころはそういう存在だったのだ。
 この世の「もっとも弱いもの」も、もっとも高度な知性や感性をそなえた「もっとも自由なもの」も、「感触」に気づいてゆく他愛なく無意識的な心模様を豊かに持っている。「もっとも自由なもの」は「もっとも弱いもの」でもある。その中間の凡庸なインテリをはじめとするすれっからしの大人ばかりが、生き延びようとする欲望をたぎらせながら「価値」や「意味」を計量することばかりしている。
「価値」や「意味」が「わかる」ことを知性とか感性というのではない。この世界のさまざまな「感触」に気づいて驚きときめき、「何だろう?」と問うてゆくはたらきを知性とか感性という。
先日、物質の根源に素粒子が存在するという「感触」に気づき「何だろう?」問うていったこの国の科学者がノーベル賞をもらった。その「感触」に対して彼の知性や感性がはたらいた。
 もちろんわれわれ凡人にはそんな高度な知性などあるはずもないが、人として誰もが持っている「ときめき」そのものが「感触に気づく」という体験であって、「意味や価値がわかる」ということではない。
「感触」こそ、この生の基礎であり究極にほかならない。
 学問や芸術の探求は「感触」を問うてゆく行為であって、意味や価値を計量しているのではない。
 人間的な知性や感性の本質は、意味や価値を計量して「わかる」ことではなく、「何だろう?」という「感触」とともに問うてゆくことにある。したがってもっとも高度な知性は、もっとも「無知」な状態としてはたらいている。そうやって「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になってゆくはたらきなのだ。
 たくさん知っているのが高度な知性であるのではない。「何だろう?」と問うてゆく、そうした「問題設定」の能力として高度な知性のはたらきがある。そのはたらきともに人類の知能が進化発展してきたのであって、意味や価値を物差しにしながら問題を処理してゆく能力にあるのではない。
 現代社会では問題処理の能力こそがもっとも高度で重要な「知」のはたらきとして認められ、そのための道具としてコンピュータが大いに活用されているのだろうが、それでも学問や芸術のもっとも高度な領域においては、知識以前の「感触」を察知し、「何だろう?」と問うてゆくはたらきの上に成り立っている。そしてそれは、子供や赤ん坊がしきりに「なに、なに?」と問うてくることと同じはたらきなのだ。彼らだって、この世界を意味や価値以前の「感触」としてとらえている。で、世間ではそれを「言葉になる以前のもの」といったりするのだが、そうじゃない、言葉はもともとそうした「感触」の表出として生まれてきたのであって、「意味」の表出として生まれてきたのではない。

言葉が「意味」を生み出したのであって、「意味」が言葉を生み出したのではない。言葉は、「意味」以前の「感触」の表出として生まれてきた。
 たとえば、「まあ」とか「おお」とか「やあ」とか「うんうん」とか「ひやあ〜」とか「へえ〜」とかの意味があるようなないような音声は、ひとまず「この世界の感触を表出している」といえるはずで、そうやって言葉が生まれてきた。
 人差し指で唇を押さえながら「静かにしなさい」という意味を込めて、「しーっ」という。しかしこの「しーっ」という音声は、べつに「静かにしなさい」という「意味伝達」の目的を持って生まれてきたのではない。「しーっ」というこの世界の「感触」があった。「しーん」とか「しずか」とか「しんみり」とか「しおれる」とか「しおらしい」とか「しみじみ」とか、これらの「し」にはすべて同じ「感触=感慨のあや」が表出されている。「し」という音声が発せられるときの「感触=感慨のあや」がある。それは、「この世界の<感触>に対する感慨」としかいいようのないもので、しかもその「感触=感慨」を表出しようとする目的で発せられたのではない。思わず発してしまって、そのあとから「し」という音声にこめられているその「感触=感慨のあや」に気づいていったのだ。
 とにかく「し」という音声がもとになって、「しーん」とか「しずか」とか「しんみり」とか「しおれる」とか「しおらしい」とか「しみじみ」というような言葉が生まれてきた。最初は、「し」という音声を発することや聞いたりすることのカタルシスがあった。それだけで「し」という音声を交し合っていたのであり、まあ音声を発しようとする「目的」などなかった。思わず発してしまっていただけであり、思わず発してしまう「感触=感慨のあや」があった。
 言葉はもともと「思わず発せられた音声」だったのだから、それらの「し」の付く言葉が生まれてきた過程だって、誰いうとなくいつの間にかそのようになっていただけであって、誰かが意図的につくり出したのではない。いつの間にか「しんみり」という言葉が生まれてきて、ああこれはこんな「感触=感慨のあや」なのだなあ、と気づいていった。
「しんみり」という言葉によってそれがどんな感慨であるかということに気付いていったのであって、最初から「しんみり」という感慨を自覚していてそれを言葉にしようとしたのではない。「しんみり」という感慨がどんなものかということなど知らなかったし、そもそも感慨を言葉にしようとする意図それ自体もなかった。それでも社会に「しんみり」という言葉が生まれ流通していた。人は、流通していることに気づいていっただけなのだ。「しんみり」という感慨を抱いていたから必然的に「しんみり」という言葉が生まれてきたのだが、それは、意図されたものではなかった。人々は、いつの間にか社会に流通している「しんみり」という言葉によってそれがどんな感慨であるかということに気づいていっただけであり、言葉はその本質において「思わず発せられた音声」なのだから、人に言葉を生み出そうとする意図や衝動などはない。言葉が社会において流通しているという、その「感触」に気付くことができるだけなのだ。だから赤ん坊でも言葉を覚えてゆくことができるわけで、そのとき赤ん坊は、意味を伝達しようとする意図を持つのではない。あくまで言葉という音声を発することのカタルシスがあるだけで、そのカタルシスは、「バウバウ」とかなんとか言葉にならない意味のない音声を発しながら、言葉を覚える前からすでに体験している。
 人類の言葉は、その本質においては音声を発したり聞いたりすることのカタルシスの上に成り立っているのであり、言葉を生み出そうとする目的とか、その言葉の意味を伝達しようとする目的を持って生まれ育ってきたのではない。あくまで「思わず発してしまう」体験をし続けてきたのであり、その結果としてそれが言葉であることに気づいていっただけだ。
 人類は、言葉を生み出す知能を持ったのではない、言葉に気づいてゆく知能を持ったのだ。言葉は、それが言葉だと気づく以前の段階ですでに社会に存在し生成していた。つまり、思わず発せられたその音声の「感触」を「何だろう?」と問うていったのだ。問わなければ、言葉は育ってこなかった。その「し」という音声の「感触」を無意識のうちに問いながら、いつの間にか「しんみり」とか「しみじみ」というような言葉へと展開していっていたのだ。
「音声の感触」とは、音声のリズムとかイントネーションのようなことであって、その段階ではまだ言葉に「意味」はなかった。そのリズムやイントネーションに「感慨のあや」がこめられていることに気付いていっただけであり、その「感慨の表出」の機能の言葉がもとになって、のちの時代に「意味表出」の機能を持った言葉になっていった。
 言葉を覚えたばかりの赤ん坊が煙突を見て「えんとつ」といったとしても、それは煙突を見たときの「感慨」を表出しているだけであり、煙突それ自体の「意味」を表出しているのではない。彼が「煙突」と「自動車」を言い分けているからといっても、それは、その視覚から受ける印象すなわち「感触」が違うからであって、両者の「意味」の違いを意識しているのではない。つまり、「音声」の違いを表出しているのであって、「意味」の違いを表出しているのではない。
人類史における起源としての言葉は「歌」だった。俗にいう意味のない「赤ちゃん言葉」は「歌」なのだ。それには「意味」などなくても、赤ん坊なりの世界に対する「感触」が表出されている。
 赤ん坊は、音声のリズムやイントネーションに反応しながら、やがて意味としての言葉を覚えてゆく。彼らは、言葉を覚える前に、すでに歌っている。また、リズムやイントネーションで言葉を覚えるから、意味的には正確ではない発音をすることも多い。「アイスクリーム」が「アイスクルーム」になったり、われわれ大人だって、外国語の歌の歌詞をそんなふうに覚えてしまっていたりする。
 人類の言葉は、音声の感触に気づいてゆくカタルシスとともに生まれ育ってきた。音声を発したり聞いたりすることのカタルシスがあった。そのカタルシスこそが、人類の言葉を進化発展させたのであって、意味を伝達しようとする「目的=欲望」によってではない。その「<感触>に気づいてゆく知性や感性」こそが言葉を進化発展させたのだ。

 この世界の「感触」に気づいて「なんだろう?」と問うてゆく知能は、この世界を「意味」や「価値」で計量して認識してゆく知能よりも、もっと基礎的であると同時にもっと高度でもある。まあ学問は、「実学」よりも「基礎学」の方が高度なものとされている。つまり、「わかる」という「生き延びる能力」ではなく、「わからない」という「生きられなさ」に浸されながら「何だろう?」と問うてゆくことこそ人間性の根源・自然であり究極のかたちでもあるのだ。
「生きられなさ」こそ、人間性の基礎であり究極なのだ。
「生きられなさを生きる」のが人間性なのだ。生き延びる能力ともに生きていることなんか、ようするに生きることに閉じ込めれれている状態であり、「生きられなさを生きる」ことによってはじめて「解き放たれる」というカタルシスを体験するのであり、おそらくそこにこそ、人間性のというか人間的な知性や感性の基礎と究極のかたちがある。
 人は、根源においても究極においても、この生やこの世界の「感触」を生きているのであって「意味」や「価値」を生きているのではない。
 なんとなくの「感触」とともに生きはじめ、なんとなくの「感触」とともに死んでゆく。その「なんとなくの感触」に気づいてゆくことは、生まれたばかりの赤ん坊でもできることだが、大人にとってはとても難しいことでもある。そうやって「意味」や「価値」の観念にまみれたすれっからしの大人から順番にインポテンツになってゆく。そうやって心が動かなくなってゆく。ときめかなくなってゆく。鈍感になってゆく。ものが考えられなくなってゆく。思考力や想像力や直感力が停滞してゆく。生き延びる能力を獲得することと引き換えにそうした能力を失ってゆく。そしてそれは、人と人の関係の「感触」、すなわち他者の「心のあや」に対して鈍感になってゆくということであり、そうやって現代人は、他者の存在そのものに対するときめきを失ってインポテンツになってゆく。そうやって妙になれなれしい「共生関係」という「愛の賛歌」に耽溺したり、逆にひどく無関心になったり排除したがる「いじめ=ハラスメント」を平気でしたりするようにもなってきている。「感触」に対して鈍感だから、そういう大げさで極端なかたちでしか人と人の関係が結べない。
 絵や音楽や小説や詩などの芸術分野はもちろんのこと、本格的な科学や哲学の探求だって「感触」に対する直感力がなければ成り立たない。それは「感触」に対する直感の積み重ねだ、ともいえる。おそらく、そこで一流と二流の差が出ている。
 この世界の輝きという「感触」に気づくことができるか。そこにこそ生きてあることのカタルシスがあり、人間性の自然・本質がある。われわれ人類の生はそこにおいて試されているのであって、「意味」や「価値」でこの世界を計量してゆく観念のはたらきにあるのではない。現代人の心は、そういうことばかりに耽溺・執着しながら病んでゆく。
 この生やこの世界を意味や価値で計量するのではなく、意味や価値のことなど振り捨てて「なんだろう?」と問うてゆくことこそが人間的な知性や感性の基礎であり究極ではないだろうか。
 意味や価値にこだわって生きていれば、幸福か不幸のどちらかしかない。そうやって現代人は「幸福な社会をつくろう」とか「幸福な人生を生きよう」と合唱しているのだが、それは、不幸にはなりたくないという強迫観念でもある。しかし不幸な人生にだって、不幸な人生ならではのより深い人生の味わいがある。誰だって不幸になんかなりたくないが、そこでこそ体験される「世界の輝き」もある。幸福な社会で幸福な人生を生きて自分は美しいとか正しいとかやさしいとかと思って満足していれば、「世界の輝き」という「感触」に気づく心というか人間的な知性や感性はどんどん後退してゆく。そうやって今どきの大人たちの多くがインポテンツになったり認知症になったりしている。
 インポテンツや認知症の治療のことはよく知らないが、この生やこの世界の意味や価値ばかりに執着して「世界の輝き」という「感触」に気づく心(=脳のはたらき)を失った大人から順番にインポテンツや認知症になってゆく、ということもあるのではないだろうか。
 人間性の基礎としての知性や感性であれ、高度で本格的な知性や感性であれ、一般的に考えられているよりももっと「官能的」なはたらきであり、この生やこの世界の意味や価値から解き放たれる体験、すなわちそういうカタルシス(浄化作用)としてもたらされるのではないだろうか。
 純粋な「感触」というものがある。言葉だってじつはその「感触」に気づく官能的な体験として生まれ育ってきたのであり、根源的には「意味」の上に成り立っているのではない。
 幸せに浸ったり幸せを欲しがったりしていると、そういう官能的なカタルシス(浄化作用)が体験できなくなってゆく。そうやってブサイクな大人になってゆく。
 幸せでも不幸でも、どちらでもいい。この生やこの世界の意味や価値から解き放たれる体験がないと人は生きられないし、ブサイクな大人になってゆく。生き延びる能力を欲しがったり自慢したりしてもしょうがない。生きられなさが人を生かしているという逆説があり、そこでこそ世界は輝いて立ちあらわれる。
 まあ、いろいろとややこしい。われわれの生は、そういう「感触」に気づく官能性の問題としてはじまり、官能性の問題として終わってゆく。