秘すれば花・ネアンデルタール人論102

 5万年前のヨーロッパのネアンデルタール人とアフリカのホモ・サピエンスとどちらの知能が発達していたかという問題を、どちらの社会で言葉が発達していたかということで語られることも多い。もちろん、そのとき多くのアフリカ人がヨーロッパにやってきて少数派のネアンデルタール人を滅ぼしたとか吸収していったと主張する集団的置換説の研究者たちは、アフリカ人の方が知能が発達していて言葉を話す能力もまさっていたと主張しているのだが、そのころのアフリカに言葉が発達するような社会集団があったという証拠などなく、基本的に彼らは言葉などなくてもなんとかすませられる家族的小集団で暮らしていたはずであり、その状況証拠として現代でもマサイ族とかブッシュマンとかといわれる人たちがそのような暮らしを続けている。
 言葉は、人間関係が入り組んだそれなりに大きな社会集団のいとなみにおいて発達するのであって、知能によって発達するのではない。
 家族的小集団の中だけで人生が過ぎてゆくのなら、言葉などあまり必要ではない。
 ネアンデルタール人よりもクロマニヨン人の方が言葉を発するに適した喉の構造が発達していたといっても、ネアンデルタール人クロマニヨン人になっていっただけのことであるかもしれないわけで、クロマニヨン人がアフリカ人だったという証拠にはならない。
 また、言葉が発達していたかどうかという問題は、基本的には喉の構造が発達していたかどうかという問題ではなく、言葉が発達するような構造の社会が存在したかどうかという問題であり、そのころのアフリカにはそういう構造を持った社会は存在しなかった。
 言葉は、それぞれの地域の気候風土ともに発達してくるのであり、そのときすでにアフリカで言葉が発達成熟していてそうした人々がヨーロッパに移住してきたのなら、その後のヨーロッパでもアフリカと似たような言葉の進化をするはずであるが、実際にはそうはなっていない。
 言葉は、その地域の気候風土ともに進化発展する。したがってそのときアフリカ人とねネアンデルタール人が「置換」しようとするまいと、現在のヨーロッパの言葉は、ネアンデルタール人の言葉が進化発展したかたちになっているはずで、アフリカの言葉が進化発展したかたちにはなっていない。現在のアフリカの言葉とヨーロッパの言葉は似ているのか。言葉が知能で発達するのなら、似ていなくてはならない。現在のヨーロッパの言葉は、アフリカの言葉がそののまま進化発展したものなのか。だったら、現在のアフリカの言葉も似たようなかたちであらねばならない。
 いやもう、そのころヨーロッパにやってきたアフリカ人などひとりもいないのだからそんなことはどうでもいいのであり、5万年前のネアンデルタール人はそのころのアフリカ人よりもずっと大きく入り組んだ社会集団を持っていたはずで、アフリカよりも言葉の発達が遅れていたということもありえないのだ。なにしろ彼らの集団はたえず離合集散を繰り返していたのであり、よその集団からやってくるものもよその集団に移ってゆくものもたくさんいて、そういう「出会い」と「別れ」が豊かに生成している社会であったのであれば、集団そのものが入り組んだ人と人の関係になっていたはずだ。言葉は、そういう状況から進化発展してくる。
 言葉などなくてもすむ予定調和の関係である家族的小集団での暮らしにとどまって歴史を歩んでいたそのころのアフリカでヨーロッパよりも言葉が発達していたということなど、あるはずがない。
 言葉は、そうした予定調和の関係ではすまない入り組んだ関係の社会集団で人と人のときめき合う関係を成り立たせる機能として、すなわちこの世界の「感触」に対する「感慨」を共有してゆく機能として生まれ育ってきたのであり、「意味」を伝達して他者を説得・支配するための道具として生まれてきたのではない。まあ共同体の制度の発達とともにそういう色合いの機能が濃くなっていったとしても、それが起源としての言葉の機能ではないし、現在においても言葉には原初的な「感触・感慨」の機能を残している。
「おしゃべりの花が咲く」こと以上の言葉の機能の豊かな醍醐味がどこにあろうか。古代の日本人はこのことを「大和は言霊(ことだま)の咲きはふ国」といった。「ことだま」の「こと」は「語り合うこと」もしくは「言葉を発すること」、「たま」は「カタルシス(浄化作用)」をあらわしている。それが「言葉の霊魂」などという通俗的な「意味」に変質していったのは、共同体の制度が発達してきた中世以降のことにすぎない。
 現代社会の少年少女だって、おしゃべりの楽しさは、予定調和の家族関係の外に出てゆくことによってより豊かに体験している。大人たちだって、そうかもしれない。予定調和の約束を持たない関係だからこそ、この世界の「感触」に対する「感慨」を共有していることの「カタルシス(浄化作用)」がより豊かに体験される。
原始時代の人類拡散は、複数の集団からはぐれ出てきたものたちが新しい土地で出会って新しい集団をつって住み着いてゆくということの無限の繰り返しとして起きてきた。そういう歴史の果てに氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人が登場してきたのであれば、彼らはすでに「予定調和の約束を持たない関係を他愛なく無防備にときめき合ってゆくことによって生きる」という作法を歴史の遺伝子としてそなえていたはずであり、言葉は、そういう作法から生まれきたのだ。
 人類700万年の歴史を拡散しないでアフリカ中央部にとどまり続けてきたホモ・サピエンスと、数百万年かけて氷河期の北ヨーロッパまで拡散していった歴史の上に登場してきたアンデルタール人と、いったいどちらの言葉が発達していたか。それは、意味伝達の機能として生まれ育ってきたのではない。おしゃべりの楽しさ、すなわちそのカタルシス(浄化作用)とともに生まれ育ってきたのだ。
 世界の「意味」ではなく、世界や他者が存在することそれ自体の「感触」に気づいてゆく「感慨」が共有されてゆくことによって生まれ育ってきた。そしてそれこそが、知能という人間的な知性や感性の本質のかたちでもある。


 起源(語源)としての言葉は、思わず吐き出される音声としての「感慨の表出」だったのであって、物事の「意味」を意図的に表出し伝達するためのものではなかった。そんなふうに言葉が生まれてくることなど、原理的にありえないのだ。
 やまとことばの「はな」は、もともと「ため息が漏れるような感動」をあらわす言葉だったのであり、それがもとになって「花」という「物事の意味」をあらわす名詞が生まれてきた。だから日本人は今でもそういう感動をもたらす対象のことを、べつに花そのもので「なくても「はながある」とか「はなやか」とか「はなばなしい」とか「はんなり」などという。「話(はな)す」とは、言葉という音声を空間に吐き出す行為のこと、そうやって事物の意味説明の言葉は、「感慨表出」の言葉のあとからそれがもとになって生まれてきた。
まあ現在の言葉は「意味表出」が第一義的な機能になっているから、基本的にはひとつの言葉にひとつの意味だけを与えて流通している。だから、そのぶんたくさんの語彙があふれている。しかし古代などではまだ過渡期だったから、ほとんどの言葉が「意味表出」と「感慨表出」の機能の両方を持っていた。たとえば、「くま」は、動物の「熊」という具体的な事物の意味の表出にも「怖い」という感慨の表出にも使われていた。だから、「くま」という言葉は、ひとつの意味に限定されていなかった、したがってそのぶん現在よりもずっと語彙が少なく、ひとつの言葉でたくさんの使い方をしていたし、和歌のように具体的な事物を表現しながらその言葉の裏に「感慨表出」のニュアンスをメタファーとしてしのばせる、という技法もあった。
 古代においては、事物の名称としての「花」という言葉にも「ため息が漏れるような感動」の感慨がメタファーとして宿っていることを誰もが意識していて、その合意の上に万葉集などの和歌が成り立っていたのだが、現代ではもう、「花」という言葉には事物の名称としての花そのものの「意味」しか解釈できなくなっている。
 そうやって現代人は、この世界やこの生の「意味」や「価値」ばかりに執着して、この世界やこの生の「感触」に気づいてゆく心模様というか知性や感性が後退してしまっている。
「このごろ感動しなくなった」というのが今どきの大人たちの口癖になっている。そりゃあ、そうさ。「意味」や「価値」ばかりに執着して「感触」に気づいてゆくことができなくなっているのだもの。何も知らない生まれたばかりの赤ん坊のように「何だろう?」と問うてゆくことをしないで「意味」や「価値」で計量してわかったつもりになってばかりいるのだもの。ときめくことも感動することもできるはずがない。そんなところに、「ああそうか」と生まれ変わったような心地とともに気づいてゆく知性や感性のはたらきがあるはずもない。そういうカタルシス(浄化作用)が彼らにはないから、顔つきだってブサイクになってゆくし、インポテンツにも認知症にもなってゆく。


 ここで日本語=やまとことばのことをもう少し考えてみよう。

 万葉集の中の額田王の有名な歌。
 
 熟田津(にきたつ)に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

 朝鮮半島での戦乱が激しくなり、友好国である百済からの援軍要請の報せを受けて旅立とうとしている天皇の船団を鼓舞する歌だといわれている。
 だからこれは、勇壮で格調高い歌だと一般的に解釈されている。
 はたしてそうだろうか。字面通りに解釈すれば、味もそっけもない即物的な役所の文書か、もしくは小学生の幼稚な絵日記の作文とたいして変わりがないともいえる。
熟田津という港で船に乗るために月の出を待っていれば、そのときちょうど潮も満ちてきていいあんばいになった、さあ漕ぎ出そう……そう詠っているだけのこと。それだけのことのどこに人の心を揺り動かす力があるというのか?それだけのことのどこが勇壮だというのか。
しかしこの言葉の並び方には方には、たしかに、ひしひしとこちらの胸に迫ってくるような訴求力がある。
古代の歌は、字に書いて発表されたのではない。そのときその場で作者が声に出して歌い上げたのだ。そして聞くものたちは、その言葉の即物的な「意味」だけでなく、その「言葉=音声」の響きの感触にこめられた「調子=感慨のあや」を汲み取っていた。「にき」「たつ」「つき」「しお」とたたみかけてゆく「言葉=音声」の調子があったし、それぞれの「言葉=音声」の感触にそれぞれ特有の「感慨のあや」が宿っていることを古代人はみんなが知っていたのであり、それをどのように効果的に詠い上げて見せるかが、作者の力量だった。
結論から先にいえば、この歌には、運命に殉じて旅立ってゆくような、ある種悲痛な響きがある。
 賀茂真淵は、万葉集の心は「大和魂」にあるといい、この歌が太平洋戦争のときの戦意高揚にも使われたのだろうが、それほど勇壮な響きにも受け取れない。なんだかしんしんとしたかなしみが伝わってくる響きではないか。
 もう出発するしかないなあ、という悲壮感は感じられても、古代人はそんなにも意気揚々として戦争に出かけたのだろうか。本居宣長は、古代の文章表現の真骨頂は女子供のような「嘆き」にあるといったが、額田王は、そうした女らしい心の機微を誰よりも豊かに表現してみせた女流歌人だった。
おそらくそのとき朝鮮半島に船団を送り出すことは彼らにとって歴史のなりゆきとしての「運命に殉じる」行為であり、少なくとも女たちに「意気揚々と戦地に送り出す」という感慨というか時代感覚などなかっただろう。ましてやこのときの船団の長である斉明天皇は女だったのであり、その天皇に代わって当代きっての歌の名手であった額田王がこの歌を詠んだのだ。
 そのときの女である天皇は、どんな気持ちで旅立とうとしていたのか。旅立ちたいわけではない。しかしまわりの家臣たちがそれを進言してくるし、運命ならそれに殉じるしかないと思い定めて旅立っていったのだろう。額田王は、その気持ちを察したのではないだろうか。兵士たちだってみなそうで、これが家族や友人たちとの永遠の別れになるかもしれないと覚悟するしかなかった。意気揚々としているのは権力者ばかりだ。
 まず「にきたつに」と詠いだしている。これは、そのとき休息のために立ち寄った四国の伊予(今の愛媛県)あたりの地名だと解釈されているが、そんな地名があったという証拠はない。
 もしかしたらこの「にきたつ」という言葉=音声には、「思い立つ」とか「奮い立つ」とか「かなしみばかりが先に立つ」とかというのと同じで、「ひとつの感慨が胸に満ちてくること」を連想させる「響き=感触」を持っていたのかもしれない。
 歌いだしの句は重要だ。それによってその歌の感動の半分以上が決する場合も多い。作者は、乾坤一擲の思いを込めて最初の句を差し出す。この「にきたつ」という言葉=音声には、ただの地名以上の豊かな、そしてその場の状況にふさわしいニュアンスがあったのかもしれない。
「にき」は、「握(にぎ)る」のもとになった言葉。「握る」とは「力を込める」ことで、思い定めるというか、あふれる思いのことを「にき」といったのかもしれない。「去りにき」というときの「にき」は、過去完了の感慨を込めたニュアンスをあらわしている。「に」は「煮る」の「に」、思いがこみ上げること。「き」は「完了」の語義で、こみ上げた思いがきわまってゆくこと。そして「たつ」は「立つ」、「決定する」こと。「にきたつ」は、ある思いがこみ上げてきていよいよ決心することをあらわしていたのかもしれない。
 この場合は、やむにやまれぬ旅立ちの思いや別れのかなしみが胸に満ちてくること、「別れの決心をするために」というか「別れを惜しみながら」というようなニュアンスかもしれない。
 人びとは、すでに旅立ちを決心して船に乗り込んでいるのではない。旅立つ前のひととき、港で別れを惜しんでいる。それが、つぎの「船乗りせむと」という句でわかる。
 で、「月待てば」と続く。この「月(つき)」は「決心がつく」の「つく」でもあり、「決心がつくのを待てば」という感慨のあやをメタファーとして隠しているわけで、そうやって「にきたつ」という感慨の表現と呼応している。
 そうして、月を待っているのに、次の句では「月は昇りぬ」ではなく「潮も叶ひぬ」と展開してゆく。この「潮(しを)」という言葉もくせものだ。語源としては、「しおれる」とか「しおらしい」というように、さびしさが胸に迫ってくる言葉だったはずで、おそらく「別れのかなしみ」をあらわしている。
「潮も叶ひぬ」は、ひとまず「潮が満ちて船出の機が熟した」と詠っているのだが、その裏に「別れのかなしみが胸に満ちてくる」感慨を隠しており、港で見送る人たちも漕ぎ出す人たちも誰もが泣いている情景が浮かんでくる表現になっている。「潮(しお)」はしょっぱい「涙」のメタファーでもあったのかもしれない。「潮」は、海のことではなく、海の水が満ちたり引いたりしている現象のことをいったのであり、潮が引いてゆくときの喪失感をあらわしている。もともとはそういう「別れのかなしみ」のことを「しお」といっていたから、「別れのしおどき」といういいまわしもも生まれてきた。
「しお」の語源は、おそらく「どうしようもないさびしさやかなしみ」というニュアンスにある。そういう「感慨」の「感触」のことをいったのだ。だから「さびしさもひとしお」という言い方をするようにもなってきた。海の「潮」とは、なんの関係もない。海の「潮」という即物的な意味表出の機能の方があとから生まれてきたのだ。
「潮も叶ひぬ」といえば、言葉の「意味」に汚染された現代人の思考は「潮が満ちて船出の機が熟した」という表向きの「意味」だけしか解釈できないが、古代人は、それだけでもう「別れのかなしみがきわまって涙があふれてくる情景」が思い浮かんできたのではないだろうか。おそらく、そういう情景の船出だったのだ。旗を振って万歳三唱の大歓声とともに送り出されたのではあるまい。古代にそんなナショナリズムなどなかった。
 戦争であろうと何であろうと、古代の「旅立ち」は「別れのかなしみ」とともにあった。それが人間性の根源・自然の心模様であり、そうやって人類は地球の隅々まで拡散していったのだ。
この歌の「潮も叶ひぬ」は、「別れの決心がついてかなしみがきわまった」と詠っているのではないだろうか。そこにこそこの歌の格調の高さと、さすが名手といわれるだけのしたたかな技法の奥行きの深さがあるのではないだろうか。
 結びの句は、「今は漕ぎ出でな」。このときの「今は」は、「今こそ」というニュアンスではないはずだ。この「は」には「あきらめ」の感慨がこめられている。「いつまでも別れを惜しんでもいてもせんないことだ、これはわれわれの逃れがたい運命であり、ここまでくればもう意を決して漕ぎ出してゆこうではないか」と詠っているのではないだろうか。そうやって天皇が名もない一兵士の心まで下りてゆくことによって、皆の心をひとつにし、いわば逆説的に鼓舞していった。
 現代社会だって、会社の上司が部下に対して「お前らも俺のように仕事に生きがいを持て」と叱咤してばかりいたらかえって部下の気持ちは引いてしまう、ということも多い。そんなとき上司が、「仕事なんかいやいやしょうがなくやっているだけだ」という部下の気持ちを掬い上げ、皆がその感慨を共有してゆくことによって、逆に誰もが助け合いながら連携が高まってゆくということが起きたりする。
 まあ古代であろうと現在であろうと、この国の天皇はそういう存在として機能してきたのであり、本質的には「お前らも俺のように仕事に生きがいを持て」と叱咤するような存在ではない。民衆と「嘆き」を共有してゆくことこそ、天皇の仕事なのだ。最近だって、そうやって東日本大震災の被災者を見舞っていたではないか。被災者たちも切々と天皇に「嘆き」を訴えていたし、べつに何をしてくれというのでもなく、ただもう聞いてもらえるだけでよかった。
 したがってそのとき斉明天皇額田王に「勇ましい壮行歌を詠め」と命じたとは思えないし、この歌がそんな響きの歌になっているとも思えない。
 まあ古代においては、喜び勇んで大和の地から旅立ってゆけるものなどいなかった。現代のようなナショナリズムなどなかった。そのころは、国歌も国旗もなく、ほんの一部の権力者を除いては「国家」という意識などなかった。喜び勇んで旅立ってゆくということを詠わねばならない「情況」など何もなかった。
 古代の歌は「別れのかなしみ」の上に成り立っていたともいえるくらいで、それを詠わないで何が歌か、という思いが彼らにはあったのではないだろうか。古代人は、こんなときにたてまえだけののんきな壮行歌を詠っているような感受性ではなかった。「旅立ち」は、いつの時代においてもどんな理由であっても「別れのかなしみ」で胸がいっぱいになる事態であり、そこのところでは彼らは、「意味」や「価値」に心を汚染された現代人よりもはるかに率直だった。しかも、船での旅立ちほど人の心を劇的に揺さぶる別れの体験もない。
 人の心は「嘆き」とともに華やぎときめいてゆく。このとき額田王は、「嘆き」を詠うことによって兵士たちを鼓舞していったのだ。
 この歌の味わいを「勇壮」などという言葉で片付けてもらっては困る。また一部では、夜の舟遊びのときの戯れ歌だ、という説もあるらしいが、歌の調子というか言葉の並びの訴求力からして、そういうこととも違うのではないだろうか。



 ともあれ、何が「勇壮な歌」なものか。しかしこの歌の解釈をネットであれこれ検索しても、例外なくそういう歌だということになっている。この歌の真実の「姿」は、そんなところにあるのか。僕は、どうしても納得できない。この歌の言葉の味わい自体もそうだが、古代人がそんな歌を詠まねばならない必然性も認めがたい。
 朝鮮半島に軍隊を派遣することが、そんなにも心躍ることだったのか。今どきの「安保法制」じゃあるまいし、古代にはナショナリズムなどなかったのだ。それは、誰にとってもかなしみで胸がはちきれそうになる別れの体験だったのであり、現代人のように物事の「意味」や「価値」に汚されていなかった古代人の心は、そういう体験に対してひたすら率直だった。
 万葉集の歌の本当の姿を現代のナショナリズムに利用することなんかできるはずがないし、現代人の「意味」や「価値」の概念に汚染された思考で万葉集の本当の姿に迫れるはずもない。
 つまり、古代人はこの生やこの世界の「感触」にひたすら率直だった。万葉集の歌の基本的な主題は「嘆き」の感慨にあった。それはもう、二本の足で立っている人類の普遍的なこの生に対する感慨でもある。この生は「生きられないこの世のもっとも弱いもの」になってゆくことによって活性化する。そうやって生きてあることの「嘆き」とともに人類の歴史は進化発展してきたのだ。キリンの首は、「もっと首が長ければ」という「嘆き」とともに長くなってきたのだ。
 この歌には、たしかに独特のセックスアピール(色気)と格調の高さがある。味もそっけもない事物の描写を装いながら、しかしその裏にあふれるほどに豊かな感慨のあやをたたえている。だから初期の万葉集を象徴する歌にもなっているのだろう。勇壮な「大和魂」の表現だったのではない。それは、人類普遍の「別れのかなしみ」を詠っているところにある。
秘すれば花なり(世阿弥)」の伝統の美意識をみごとに体現している。「花」とは、セックスアピールのこと。だから「あの役者には花がある」などという。
 そしてセックスアピール(¬=人間的な魅力)とは、「生きられなさを生きている気配」のこと。そういう気配を持った存在に対して人は「献身」の衝動をかきたてる。
 まあ現代社会の恋や友情にはいろんな契機があるのだろうが、たがいに献身し合うことが人と人の関係の基本であり、相手が生きられない気配を持った存在だからこそ献身の衝動を呼び覚まさせられる。生きられる能力を持った存在に対して、献身して生きさせようとする衝動など生まれてくるはずがない。
 人と人は「生きられない嘆き」を共有しながらときめき合い、献身し合ってゆく。そうやって猿よりも弱い猿だった原初の人類は生き残ってきたのであり、そこにこそ万葉集の心がある。
人は基本的にたがいに生かし合っている存在であり、したがって「別れのかなしみ」とは「生きられない嘆き」でもある。そしてその「生きられない嘆き」とともに人の心は華やぎときめいてゆく。まあ、額田王のこの船出の歌はそういう心模様を詠んでいるのだし、それが万葉集に通底している歌の主題でもあった。
万葉集の心に推参するためには言葉の「意味」ではなく「感触」を問わねばならない……と誰もが自覚しているのだが、けっきょく誰もが「意味」の罠にからめとられてしまっている。古文の読解においてはわれわれ現代人よりもアドバンテージがあったはずの本居宣長賀茂真淵でさえも、なんだか信用のおけないことをいってきたりする。