なんとなくの感触・ネアンデルタール人論・103

「人の心は言葉でものを考えている」などといわれる。
 じゃあ、言葉を知らない人は何も考えないのか。少しの言葉しか知らない人は、少しのことしか考えないのか。たくさんの言葉を知っている人はたくさん考えているのか。
 そうじゃない。
人は言葉でこの世界を認識しているのではなく、認識しているかたちが言葉になっているだけだ。
 言葉の通じない知的障害者や赤ん坊だって、叱られているとかほめられているとかということは相手の表情や声のトーンでわかるだろうし、親しみが持てる相手かどうかとか、いろいろ考えることはあるに違いない。そして彼らの直感の方がずっと確かに他者の人間性というか人格の本質をとらえている場合もあるのだろう。彼らはそれを「意味」や「価値」としてではなく、それ以前の直截な「感触」としてとらえる。
「意味」や「価値」に対する観念のはたらきが膨らみすぎると、そうした「感触」をとらえる直感力が鈍くなる。言葉は、この世界を「意味」や「価値」として裁量する機能として生まれてきたのではなく、「意味」や「価値」以前の、この世界に対する「感触」の表出だった。その「感触」に気づくときの感慨とともに発せられる音声だった。そして、人間なら「音声」を発することができなくても、「感触に気づく感慨」は誰でも持っている。言葉は社会から生まれてくるものだから、社会性をちゃんと持っていないと言葉を覚えてゆくことはできないが、社会性がなくても「感触」に気づき考えるということはできる。
 まあ、意識があるということは、考えている、ということだ。言葉がなくても考えることはできるし、言葉でこの世界の「意味」や「価値」ばかり計量していると、「感触に気づく」はたらきが鈍くなってくる。「意味」や「価値」は言葉で考えるが、言葉のはたらきはそれだけではないし、言葉がなくても考えることはできる。言葉がなくても考えることができるから、言葉が生まれてきたのだ。言葉のない時代の人類は何も考えていなかったわけではあるまい。いろいろ気づいたり考えたりすることがあったから言葉が生まれてきたのだ。
 だから、「言葉で考えている」とはいえない。「人は言葉が生まれてくる思考を持っている」、ということはいえるとしても。そしてそれは、「意味」や「価値」でこの世界を計量する思考ではなく、あくまで「なんとなく」の「感触」で気づいてゆく思考なのだ。


「言葉で考える」とは、「意味で考える」ということだろうか。だったら、それはちょっと違う。
 まあ、「意味」や「価値」に対する意識くらい、猿でも持っている。好物のバナナを見つけたら、ひとり占めしようとする。これは「意味」と「価値」の意識に違いない。いやもう彼らは、「意味」と「価値」の意識をいっぱいにして生きているともいえる。彼らのテリトリーの意識とか「順位性」の意識とかだって、ようするにそういうことだろう。彼らは言葉を持っていないのに、言葉=意味で考えている。
 原初の人類は、そういう「意味」や「価値」を壊すことによって二本の足で立ち上がっていった。壊してなんとなくの「感触」に気づきときめいていったのだ。だから、バナナを人と分けることも、人にあげてしまうこともできる。人間的なそうした心の動きは、「意味」や「価値」以前の原初的本能的なものであると同時に、本格的な学者や芸術家の才能のように、「意味」や「価値」を超えてそこから解き放たれることでもある。
 文明人の心は、「意味」や「価値」の概念に幽閉されている。
 人類は、わりと早い段階からなんでも食う存在になっていったに違いない。なんでも食わないと生きられない弱い猿だったからだが、しかしなんでも食えるのは、「意味」や「価値」にこだわっていなかったからだ。猿はこだわりがあるから、人類ほどには「新しい体験」ができない。新しいものを食うとか、新しい土地に住み着いてゆくとか、そんなことは「意味」や「価値」にこだわっていたらできない。
人の心は、「意味」や「価値」を壊して生まれ変わったような心地=カタルシス(浄化作用)を体験する。そうやって人は「発見」という体験をする。それはつまり、いったん死んで生まれ変わるということであり、そうやって「もう死んでもいい」というカタルシス(浄化作用)を体験する。「もう死んでもいい」という勢いで心が華やぎ、この世界にときめいてゆく。そこにこそ人の思考の基礎と究極のかたちがある。
 

 人は、根源・自然において、「意味」や「価値」で生きているのではない。「意味」や「価値」から解放される、なんとなくの「感触」こそが人を生かしている。
「生きられないこの世のもっとも弱いもの」とは、この生の「意味」や「価値」から置き去りにされた存在であると同時に、この生の「意味」や「価値」から解き放たれた存在でもある。その尊厳に向けて人は、献身し「介護」という行為をしてゆく。
 まあ、「介護」という行為に尊厳があるのではない、尊厳に向けて献身してゆくことが介護なのだ。「尊厳」なんて「意味=価値」の極みのような言葉だが、ともあれ人は根源・自然においてこの生のいたたまれなさから解き放たれようとする「献身」の衝動を持っているわけで、その対象をひとまず「尊厳」ということにしている。「尊厳」は、生と死のはざまに存在する。生と死のはざまのことを「尊厳」という。「神」という言葉は、生と死のはざまのその場所から生まれてきた。
 この生の「意味」や「価値」に執着して生き延びようとすることを「尊厳」とはいわない。人類にとってこの生はいろんな側面においていたたまれないものであり、この生から解き放たれようとする衝動を持っている。そして、解き放たれることがこの生のかたちになっている。この生から解き放たれる体験がないと生きられない。解き放たれることにこの生のカタルシス(浄化作用)がある。「死にたい」のではない、人は「もう死んでもいい」という勢いで生きている。「もう死んでもいい」という勢いで、この生を忘れながらこの世界にときめいてゆく。そうやってこの生は、生と死のはざまで生成している。
 生と死のはざまをなんとなくの「感触」として気づいてゆくこと、そのなんとなくの「感触」に気づいてゆく心映えというか心理機制から人類史における人間的な知性や感性が生まれ育ってきた。
「意味」や「価値」の観念が豊かになってゆくことが人間的な知性や感性のはたらきの本質・自然であるのではない。「意味」や「価値」の観念から解放されて、なんとなくの「感触」に気づきながら「何だろう?」と問うてゆくところから人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。
「意味」や「価値」の観念から解放されることのカタルシス(浄化作用)がある。やまとことばではそれを「みそぎ」といった。「みそぎ=意味をそぐ」といえばなんだかつじつま合わせの言葉遊びみたいだが、この場合の「み」とは胸にたまったもやもやしたいたたまれなさの思いのことであり、「そ」は「そっと」の「そ」で、静かで清らかな気配のこと、そして「き」は「昔男ありき」の「き」で「完了」の語義というか思いが定まることや落ち着くこと、そうやって生まれ変わったように「生きてあることのいたたまれなさの思いが洗い流され華やぎときめいてゆくカタルシス(浄化作用)」のことを「みそぎ」といった。
 そういう体験が日本列島の古代人を生かしていたし、ネアンデルタール人だって、そういうカタルシス(浄化作用)がなければ生きていられない苛酷な環境を生きていたのだ。そこでは、生きることに有能になるなんて誰もできなかったし、それができる現代人のようにこの生の「意味」や「価値」を称揚し執着してゆくことよりも、そこから解き放たれてゆくカタルシス(浄化作用)こそが彼らの生を成り立たせていた。
 どんなに生きることの「意味」や「価値」を称揚しても、人間ならいつの時代も誰にとっても生きるのはしんどいことだし、ましてやうまく生きることができなくなる老後においてはもう、そんな「意味」や「価値」よりも、そこからの解放としての「ときめき」すなわち「カタルシス(浄化作用)」の体験がなければ生きられなくなる。それを失ってインポテンツや認知症鬱病になってゆく。つまりそのときになって、人間性の本質・自然から試されている。
 

「ときめく」という体験に、「意味」や「価値」の意識は必要か?
「意味」や「価値」に対する意識が豊かだから「ときめき」も豊かだとはかぎらない。
 猿の生態は、「意味」や「価値」の意識の上に成り立っている。だからといって彼らが人よりも「ときめき」が豊かだとはいえない。同じように現代社会は、「意味」や「価値」の意識にあふれ、それによって動いているともいえるが、現代人が古代人や原始人よりも「ときめき」が豊かだとはいえない。むしろその心模様が減退していることのさまざまな病理を抱え込むことになっている。
「ときめく」ことは、「感触」に気づいてゆく心の動きなのだ。
 人が人を好きになることに、たしかな「意味」などない。あとからいろいろ意味づけはできるとしても、なんとなくいつの間にか好きになっていることが多い。美男美女であることや「正しい」とか「やさしい」という人格を持っていれば必ず好かれるとも限らない。セックスアピールという人間的な魅力は、「意味」や「価値」の問題ではなく、そういうなんとなくの「気配=感触」があるとしかいいようがない。
 出会いの状況そのものにときめき合う「気配=感触」があったりすることもある。
 猿の生は「意味」や「価値」の意識の上に成り立っており、人の生の方がむしろなんとなくの「感触」に気づいてゆく意識の上に成り立っていて、そこにこそ人間的な知性や感性の源泉がある。
 この生やこの世界の「感触」に気づいてゆく体験は、それなりの知性や感性を必要とする。それは、「意味」や「価値」で計量してゆく観念のはたらきよりも、もっと基礎的な心模様であると同時に、もっと高度な知性や感性のはたらきでもある。
 たとえば、われわれが草の葉っぱを見たとき、最初の瞬間は「草」だとも「葉っぱ」だとも「緑」だとも思わない。それでも、なにがしかの心の動きはある。ホッとするとか鬱陶しいとか、胸がざわざわするとか目に染みるとか、そんな、その眺めに対するなにがしかの「感触」がある。それが草であり葉っぱであり緑であるからこそそんな「感触」を持つのだが、ともあれそれは「意味」の意識ではない。
「気持ちがくさくさする」というときの「くさ」は、草のことではない。しかし、気持ちをあらわすこの「くさ」という言葉がもとになって「草」という意味をあらわす名詞が生まれてきた。草は「無秩序に繁茂する」植物であり、人類はもともと胸の中で「無秩序に繁茂する」気持ちになると思わず「くさくさする」といっていたから、そこからの連想で草という植物にも「くさ」という名称を与えた。「草」という植物の名などない時代にも、すでに「くさ」という言葉があったのだ。
「くさ」というこの生やこの世界の「感触」に対する「感慨」をあらわす言葉はすでにあった。
人類の言葉は、「感触」に気づく意識=感慨とともに生まれ育ってきたのであって、言葉が事物の「意味」をあらわすようになったのはあとの時代になってからのことだ。だから語源の記憶が人々の歴史の無意識として残っていた古代の言葉の多くは、事物の意味を説明しているだけのように見えても、その裏にその音声を発することの「感触=感慨のあや」を隠し持っていた。


人の心は、この世界をまず意味や価値以前の「感触」としてとらえる。このはたらきがあるから男のペニスは勃起するのであって、頭の中を意味や価値の観念で覆われてしまえばインポテンツになってしまうしかない。
 多くの大人たちが「このごろときめかなくなった」と愚痴をこぼしているのは、そうした「感触に気づく」はたらきが衰弱してしまっているからだ。
 心は、「感触」としてときめくのであって、意味や価値を計量してときめくのではない。意味や価値からの解放としてときめくのだ。そしてそれは「生きられない」この生からの解放でもあり、「生きられなさ」こそが「感触」に気づく「ときめき」すなわち人間的な知性や感性を豊かにしてゆく。
 この生やこの世界に対する意味や価値の観念を膨らませてゆくことは、生き延びる能力をもたらす。しかし、まさにその能力によって現代人は、ときめく心を衰弱させている。「ときめく」なんて、無意識的ななんとなくの「感触」に気づいてゆく心模様であって、大人の知恵としての生き延びる能力なんかなんの役にも立たない。
 その「ときめき」は、「生きられなさ」とともにある。
 人は、人間性の自然・根源として、生きられなさを生きようとする。
 その「感触」は、生と死のはざまにある。
「感触」とは「ときめき」のこと。「ときめき」こそが人を生かしている。
 心がときめいてゆく契機はどこにあるのかということ。そういう問題を考えるなら、生き延びる能力としての「幸せ」が解決になるとはいえない。それは生きてあることに閉じ込められている状態であり、そうやって人の心はときめかなくなってゆく。このままでいいのなら、解き放たれる必要はないし、心は動かない。
人は、存在そのものにおいて「解き放たれたい」という「願い」を持っているからこそ猿よりも豊かな「ときめく」という体験をするわけで、それはこの生がいたたまれないものであり「生きられない」存在だからだ。
「生きられる存在」になってしまったら、心の動きは衰弱する。
 人は、避けがたく生きられなさを生きてしまう。生きられなさを生きている存在だからこそ、たがいにときめき合い、たがいに献身し合い、たがいに相手を生かし合おうとしてゆく。そうやって人類の歴史は進化発展してきたのであれば、若者が愚かで生きられない存在になってゆくことはもう、しょうがないことなのだ。そこにこそ人間性の自然がある。そこでこそ人は、解き放たれたいと願い、この世界の輝きにときめいてゆく。「この生=自分」を忘れてときめいてゆく。「もう死んでもいい」という勢いでときめいてゆく。人は、そういう解き放たれたいという願いとともにときめいてゆく。
 因果なことに人は、生き延びる能力を持ってしまったり、生き延びようとする欲望を膨らませてしまったり、そうやって「この生=自分」に執着・耽溺してしまったらおしまいなのだ。そうやって「ときめき」を失い、認知症になったり鬱病になったりインポテンツになったりしてゆく。
生きられなさを生きながら「この生=自分」からとき解き放たれてゆこうとするのが、人間性の自然であり基礎であり究極のかたちなのだ。
 幼児の発達段階とか、人類が言葉を持つようになった契機として、世間ではよく「この生が意味や価値を持ってクリアーに立ちあらわれることにある」などといわれているが、そうじゃない。人は根源・自然において、世界をなんとなくの「感触」としてとらえている。それが人類史における言葉が生まれてくる契機だったのであり、幼児が言葉を覚えてゆく発達段階にも同じことがいえる。
 現代人の心は、この生やこの世界を意味や価値でとらえながらこの生やこの世界のさまを決定し、この生やこの世界に幽閉され、動かなくなってゆく。しかし人間性の自然においては、この生やこの世界をなんとなく「感触」としてとらえながら、この生のいたたまれなさから解き放たれ、この世界の輝きにときめいてゆく。
 生きてあることに途方に暮れているものこそ、より豊かにときめいてゆくのだ。そこにこそ人間性の自然がある。
 心にとってこの生やこの世界は、意味や価値としてではなく、「感触」として存在している。この生はいたたまれないものであり、この世界は輝いている。そういう「感触」として。