「飛鳥(あすか)」の語源・ネアンデルタール人論104

 話が横道にそれてしまっているが、そのついでの話をもうひとつ書き加えておこうと思うのだが、今回の記事は長くなってしまいそうです。僕としても、胸の中にたまりにたまっていることがあるわけで。
「語源」のことは多くの人が気になるところだが、文字が生まれる以前の遠い昔からあった言葉の語源論はすべて「仮説」にすぎないわけで、多くの人がいろんな仮説を提出してきてひとつにまとまっていないことが多い。
 たとえば「旅(たび)」の語源などは、あれこれさまざまにいわれているが、まだこれだとという説は出てきていないらしい。
 和歌の「枕詞」だって、今ではもう意味がよくわからなくなってしまっている言葉が少なからずあるし、誤った解釈が定説になってしまっていることも多いのではないかと思える。
 語源の探索は、その人の思考力や想像力が試される。本居宣長折口信夫が語る古いやまとことばの語源はそれなりに説得力があるように評価されているが、僕としては二人ともぜんぜんダメだと思っている。探究の方法論そのものが納得できない。二人だけでなく、語源を語ると、けっきょく誰もが「それはこういう意味だった」という話になってしまうが、、古い言葉であればあるほど、「意味の表出」として生まれてきたのではなく、対象に対する「感慨の表出」だったのだ。彼らは、その音声の「感触」を問わないで、「意味」ばかり語っている。みんなそうだ。だから僕としては「みんな違う」と思ってしまう。
 語源の問題は、人類の言葉の起源の問題でもある。だから、これまでさんざん考えてきたし、これからもあれこれ気になる問題にぶつかってしまうのだろうと思う。


ここで、最近ブログで見つけた、典型的な今どきのインテリの語源論を引用してみることにする。
それはそうとう有名な人気ブログらしく、ブログ名は「極東ブログ」、管理人のハンドルネームは「finalvent」、どんな職業の人かはよく知らないのだが、とにかくおそろしく博識で文章も達者だし、人気ブログになるのも当然かな、と思わせられる。政治経済をはじめとする社会現象や文学のことを多く語っている。
 しかしよくよく読み進めてみれば、知ったかぶりをしているだけの脳みその薄っぺらなただの小者(プチインテリ)かな、と思わないでもない。政治経済や文学を語ってどんなに博識な才人を気取っても、こんなところでその思考力や想像力の貧しさが露呈してしまう。
 まったくしょうもない語源論なのだが、既成のやまとことばの語源論なんかみんなそのていどで、この人だけでなく、本居宣長だろうと折口信夫だろうと、誰が書いても安直に「意味」を説明しているだけで、その言葉のほんとうの「姿」というものが見えてこない。
 やまとことばの語源は、「意味」を語るだけでは解き明かせない。というか、「意味」で語ってはダメなのだ。その言葉が持っている「音声の感触」というものがあり、その「感触」に、その言葉=音声を発することの「感慨」が宿っている。やまとことばの語源に推参することは、その「感触」に宿っている「感慨」を問うてゆくことなのだ。
 やまとことばだけでなく、普遍的な人類の言葉の起源そのものが、「意味の伝達のための道具」だったのではない。それは、思わず発してしまうさまざまな人間的な音声のそれぞれにそれぞれの「感慨のあや」が宿っていることに気付いてゆく体験だったのであり、そのときその音声を発したものと聞いたものが同時にその「感慨のあや」に気づいていった。原初の言葉は、そうやってその「感慨のあや」を共有してゆくための道具だった。
文字がない時代の言葉は、その場で浮かんで消えてゆくあくまで純粋な「音声」だったのであり、その音声を発することや聞くことのカタルシスがあった。だからやまとことばでは、言葉のことを「ことのは」といった。それは「言の葉」などと表記されたりするが、この場合の「こと」は、「もの」と「こと」というときの「こと」で、「音声を発すること」あるいは「発せられた音声」というようなニュアンスであり、「は」は、その音声の「かけら」、あるいはその音声の「ゆくえ」としての「空間」というような意味合いもあった。つまり「ことのは」とは、言葉それ自体ではなく「言葉が生成している空間」とか「言葉を発したり聞いたりすることのカタルシス」というような意味合いだったわけで、古代人はそういうちょっとややこしくて高度なことに気付きながら言葉を扱っていたのであって、現代人が考えるような、ただ単純に「ことのは=言葉」というような扱い方をしていたのではない。
古代や原始時代は語彙が少なかったそのぶん、ひとつひとつの言葉の扱い方が、ひとつの言葉をひとつの意味に限定してしまっている現代よりも、ずっと重層的というか、ずっとややこしく玄妙で豊かだったのだ。こういうことを、典型的な今どきの薄っぺらな思考のインテリであるこの「finalvent」という人はおそらくわかっていない。彼は、語源の時代だって現代と同じようにひとつの言葉にはひとつの意味しかなかったかのような安直な考えしかしていない。つまり、その言葉が持っている「音声の感触」を問うてゆくだけの知性も感性も思考力も想像力もこの人にはない。しかしまあ、今どきの語源論なんてみんなそうなのだけれど。


その記事のタイトルは、<語源の話:「ぐすく」と「あすか」>。
「ぐすく」という琉球語は、「城」という漢字を当てる慣習になっているが、語源の意味もそのままかというと、あんがいあんがいそうでもないらしく、さまざまな仮説が立てられている。もちろん琉球語は日本語=やまとことばのただの方言の範疇の言葉で、折口信夫なども「ぐすく」の語源について言及している。
そして「飛鳥(あすか)」の語源に関してはもう、やまとことばの研究者だけでなくすべての歴史家が気になっていることで、あれこれさんざん語りつくされているが、誰も「これだ」という説得力のある仮説を提出できていない。
 とりあえずその記事の後半の「あすか」の語源を記述している部分を引用しておこう。

連想するのは、飛鳥、「あすか」である。これにはこじつけでなく「安宿」の表記があり、朝鮮語の「アンスク」に一致する。諸説あるが、表記の残存から考えて、単純に「安宿」でいいのではないか。もっとも、このあたりの語源説はすでに「と」臭が漂う。どさくさで言うのだが、「奈良」の語源が朝鮮語の「国」を意味する「なら」のようにも思う。関連して、「百済」の「くだら」については、「大国」を意味する朝鮮語「くんなら」でいいのではないか。
 百済は滅亡して後、日本は百済遺民を多く受け入れている。彼らにとって親国はまさに「くんなら」だろう。もちろん、異論があることは知っているし、強弁する気などさらさらない。ただ、こうした語源の問題は、どうすれば解答になるかという条件も存在しえないのである。
 関連の話をもう一つつけて終わりたい。「飛鳥・明日香」の枕言葉は「飛ぶ鳥の」である。これが「飛鳥」という表記の語源になっているのは「と」ではない。なぜ、「とぶとり」がアスカなのか、これも定説はない。私は「安宿」(あんすく)と考えたいのだが、「とぶとりのあんすく」とはなんだろうか?
 枕言葉それ自体、定説がないが、一応文学の範疇されているせいか、修辞または詩法として考えられがちだ。だが、私はもっと素朴に、社会言語学的な弁別性だろうと考えたい。つまり、「とぶとりのあんすく」ではない「あんすく」との区別だ。あるいは、「TOKYO、T」といったふうに、弁別性の発音の便宜かもしれない。
 飛鳥時代は、皇室や寺院回りには百済新羅高句麗民がかなりいたのだから、ある種のマルチリンガルな状況だったことは間違いない。そういう上層民はそれでもいいが、下層民は単一言語だろうから、そのインタフェース的な言語の便宜が必要になる。枕言葉はそうした残存だろうと思う。
 「とぶとりの」の語源は皆目わからないのだが、田井信之著「日本語の語源」という、奇書としか言えないのだが、この本によると、「富み足る」の音変化だという。こじつけのようだが、古事記には「とだる」という語があり(「天つ神の御子の天つ日継知らしめすとだる天の御巣みすなして」と広辞苑にもある)、富むの意味を持つ。この語の場合は、古形に「とみたる」があっても不思議ではない。
 推測に推測を重ねるのが「と」の本領だが、「富み足る安宿」としてみると、「安宿」という地名なりその居住地に対する国褒め歌の一部のようにも聞こえる。その背景には、貧しく逃れる人々の思いのようなものが感じられる。

 
まあこの人は琉球語の「城(ぐすく)」の語源のことを中心に語りたかったらしいのだが、記事の前半部分では、「ぐすく」の「すく」は朝鮮語の「宿=すく」と同じで朝鮮から伝わってきた言葉だといっていて、それが「あすか」の「すか」朝鮮語の「宿=すく」だいう話になってゆくのだが、はたしてそうだろうか。もちろんそんなはずがないだろう。これではちょっと安直すぎる。ただの勝手な思い付きだけで、「探究」という思考過程がない。語源というのは、そんなにかんたんに解き明かせるものではない。
 この言葉を生み出した昔の沖縄の人々は、「宿」という意味だけで「すく」といっていたのだろうか。「すく」という音声を発することのカタルシスはなかったのだろうか。琉球語だってやまとことばの範疇だから、「すく」という音声を発することの、やまとことばと同じようなある「感慨」があったはずだ。
 やまとことばで「すく」といえば「透く」「梳く」「漉く」「空く」で、上にたまったよけいなものがなくなって透明になったり空っぽになったりすることをいう。濁った水が透き通ってゆくことも、髪を梳くのも、紙を漉くのも、乗客が降りて座席が空(す)くのも、そういうことだろう。それはもともと「気持ちが澄んでゆくことのカタルシス(浄化作用)」を表出する音声として生まれ、のちの時代にそういう事物の意味表現に転用されていったのだ。
 言葉は、「意味」の表現・伝達の道具として生まれてきたのではない。言葉にそんな機能が付与されていったのはあとの時代のことで、そこのところを多くの研究者が誤解している。「意味」を語るだけでは、語源の説明はつかない。
 語源は、「意味」ではない。その言葉=音声の「感触」なのだ。「感触」は「意味」ではない。その言葉=音声を発する「感慨のあや」があるわけで、それは「意味」と同じとはいえない。
 人類が普遍的に共有している音声の「感触」というものがある。英語だって「スムース」といったりするではないか。「す」という音声には、そういう「感触」がある。したがって沖縄の人々も、「すく」と発声するときのそうした「感慨」や、それを聞いたときにそのことに気づいてゆく体験はあったのではないだろうか。
 とすれば「ぐすく=くすく」とは、「苦を漉(す)く」というようなニュアンスだったのかもしれない。そうやって気持ちがさっぱりしてゆくこと。気持ちが晴ればれする、と言い換えてもいい。そういう場所のことを「ぐすく」といったのかもしれない。だからそれは「神の国=理想郷」というような意味もある。ただ「城」という漢字を当てているだけで、もともとは「城」を意味したのではないということはたしかのようで、多くの研究者がいろんな解釈を提出している。
 しかしそれが朝鮮から伝わった言葉であるのなら、沖縄の人々だってそれに「城」という字を当てたりはしないだろう。朝鮮から伝わったのなら、普通に「宿」と表記するだろうし、すなわちこの人のいう「ぐすく=御宿」という表記が習慣化してゆくにちがいない。その方が「城」という字を当てるよりもずっと読みやすい。
「城」という字なんか、「ぐすく」と読めるはずがないのだ。それでも「城」という字を当てずにいられない沖縄の人々の感慨があった。そこのところを問わないで、自分の都合のいいように勝手に「御宿」とこじつけて得意になっているなんて、その思考の怠惰と粗雑さはいったい何なのだ。今どきはこんなタイプの底の浅いプチインテリがうようよいる。
「ぐすく」に「城」という字を当てることにはそうとう無理がある。それでもその字を当てずにいられない深い思い入れが沖縄の人々にあった。まあ、沖縄において、「ぐすく」は特別めでたい言葉のひとつだ。そのめでたさの感慨を込めて「ぐすく」といった。「御宿」もめでたいだろうが、それは旅をしてきたよそ者の感慨であって、地元民の「国褒め=お国自慢」ではない。それに対して「城」は、おらが国さのシンボルでありランドマークである。そういう感慨とともに「ぐすく」という言葉が生まれてきた。長く列島本土からの侵略行為にあえいできた沖縄の人々にとっては、どこにも誰にも邪魔されない堅固な「城」に対するあこがれも込めていたのかもしれない。
 まあ、語源の探索に「意味」なんかいくつ並べてもだめなのだ。「すく」という音声の感触に宿っている「感慨」の表出こそが語源の「姿」だったはずで、そこのところは琉球語だろうと日本語だろうと同じで、さしあたって同じ「やまとことば」なのだ。


 この人は「日本語は朝鮮から伝わった」という持論の持ち主で、だからなんでもかんでも朝鮮伝来にしてしまう。
「宿=すく」などという言葉はもともと漢語で、言葉もそうやって中国=朝鮮=日本と伝播してきた、といいたいらしい。
 しかしまあ、突っ込みどころ満載ではないか。あきれるくらいちんけな語源論だ。
 ここで何度か符牒のようにいわれている「と」とは世にいう「トンデモ説」のことらしいのだが、まったく、あんたのいうことこそどうしようもない「と」だよ。
 この語源論の結論は、「あすか」という地名は朝鮮からの渡来人がつけた、ということだろうか。あるいは、やまとことばはもともと朝鮮語の模倣として生まれ育ってきた、といいたいのだろうか。
 ほんとに、バカも休み休みにいえ、といいたくなってしまう。
「安宿(あんすく)」という「表記の残存から考えて」というなら、「明日香」とか「阿須加」とかの「あすか」という表記の方がはるかに多いのであり、その「安宿」だって「あすか」と読んでいたことは間違いない。たまたま朝鮮渡来の下級役人がカッコつけてそういう表記をしたことがあったとしても、そのころ飛鳥の地のことを「あんすく」といっていた人間などひとりもいないし、過去に「あんすく」といっていたという証拠はさらにない。べつにその「安宿」という表記が「あすか」という地名の誕生の瞬間でもなんでもない。その下級役人が「あんすく」と命名したとでもいいたいのか。そこではもう、それよりもずっと遠いはるか昔から「あすか」と呼びならわしてきたのだ。
「あんすく」が「あすか」に音韻変化してゆく法則でもあるのか。今でも朝鮮に「あんすく」という言葉があるということは、「あんすく」という音韻が変化してゆくことはない、ということを意味している。おそらく「あんすく」が「あすか」になってゆくことなど永遠にないのだ。
 古いやまとことばに「ん」という発音などなかった。現在「ん」になっている音声の多くは、つい最近まで「む」といっていた。だったら「あむすく」といっていたのか。だったら、なおさら「あすか」に変化しにくい。
 この人の論理に沿っていえば、やまとことばは朝鮮語の発音を模倣しながら生まれ育ってきたことになる。しかしたとえば、朝鮮からの在日一世の日本語は、どんなに長く住んでも死ぬまで奇妙な朝鮮訛りが消えない。それほどに日本語と朝鮮語の発音は異質なのだ。それに対してモンゴルからやってきた相撲取りは、あっという間に日本人と変わらない日本語の発音を身につけてしまう。それは。モンゴル語と日本語の発音の基礎構造が同じだからだろう。
 やまとことばが朝鮮語を模倣して生まれ育ってきたということなどありえないのだ。
 まあ「ぐすく」においては「すく」という音声が重要だったのだから、そこだけはけっして変化しない。そして「ぐすく」と発声することの沖縄の人ならではのカタルシスがあった。その「すく」という音声の感触のニュアンスは、沖縄と朝鮮では違うし、同じ人間なのだから同じようなところもある。
 朝鮮では「すく」が「宿」であるのなら、それほどに宿が貴重で希少な土地柄だったのだろう。社会制度として、よそ者がふらりとやってきても、かんたんには泊めてもらえなかった。日本列島では、旅人がわりとかんたんに村の民家に泊めてもらえたりしたから、そのあたりの感覚はちょっと違う。ともあれ「宿」は旅の垢や疲れを洗い流してくれるところで、「すく」という言葉にはそういうカタルシス(浄化作用)が宿っている。そのカタルシス(浄化作用)という部分においては琉球語の「すく」も朝鮮語の「すく」も同じといえば同じになる。しかしそれを朝鮮では「宿」という字を当て、沖縄では「城」という字を当てた。「すく」という音声に対する「感触」は同じでも、その音声を発する「感慨」はちょっと違う。
 朝鮮では、人にやさしくしてもらうカタルシスを込めて「すく」といった。だからそれに「宿」という字を当てた。彼らは、人と人の密着した関係を重んじる文化の伝統を持っている。昔の朝鮮では、遠い親族を訪ねて泊めてもらうことを「宿」といったのかもしれない。そういうかたちでしか「宿」は成り立たない土地柄だった。
 それに対して沖縄では、人にわずらわされないカタルシスで「ぐすく」といった。だからそれに「城」という字を当てた。「城」は「地域共同体」でもあった。朝鮮のように家系重視の親族ではなく、とりあえずその地に一緒に住み着いているものたちが他愛なくときめき合って親族のような関係になってゆく文化だったのだろう。<ここが「ぐすく」だ>、という感慨で住み着いていった。それはまあ、朝鮮半島とは違う日本列島全体の風土性でもあった。沖縄も列島本土も、もともと同じやまとことばの民族だったわけで、べつに大昔の琉球語はは朝鮮語だったがのちに列島本土との関係が生まれて日本語のようになってきたというのではない。そんなことはありえない。
 同じ人間なのだから同じ「すく」という音声の言葉を持つとしても、そういう民族性の違いは、言葉の起源の違いでもあったはずだ。沖縄の人の「城」という字を当てずにいられない感慨を無視して、最初は朝鮮と同じ「宿」だった、と決めつけられても困る。「ぐすく」の「すく」は、おそらくやまとことばの「すく」のニュアンスに近い。そう考えた方がつじつまが合う。
 この人の思考は、最初に勝手に捏造した結論があって、途中の論理の筋道はその結論に都合のいいようなことをあれこれの文献から拾ってくる、というのが常套手段なのだ。白紙のところから出発してそのつどそのつどの「感触」に気づきながら掘り進めてゆく、ということはしないし、できない。そういう「感触に気づく」という基礎的な知性や感性を持っていない。そしてそれは、本格的な知性や感性を持っていない、ということでもある。かれは、今どきの、知ったかぶりしたくてうずうずしているような半端なインテリの代表選手のひとりかもしれないが、しかしそれ以上でも以下でも以外でもない。
 まあ、ナルシズムというか自己撞着を温存しながら生きてゆく作法として、そのような思考の習性になってゆくのだろう。そういう病理が現在のこの国に蔓延している。


 小林秀雄は「文献にたよるものは文献につまづく」といったが、「安宿」という表記があったからといって、「あすか」の語源のかたちが「あんすく」にあったといえる証拠になるはずがない。当事者たちは、それを「あすか」と読んでいたのだ。なのに彼は、人びとがなぜその地を「あすか」と呼んでいたかということに対する考察は何もしていない。まあできるはずもないのだが、それにしてもその思考の粗雑さと横着は、いったい何なのだ。自分の勝手な観念世界を成り立たせるためには、古代の人々の心の世界などどうでもいいらしい。
 語源の考察は、そんな文献探しのお遊びでできることではないし、そんな自己満足・自己撞着のお遊びなどどうでもいい。
 最初は「あんすく」だったと決めつける前に、その表記が生まれてきたころの人々がなぜ「あすか」と呼んでいたかということの方がずっと大きな問題ではないか。とにかくそのころからみんなが「あすか」と呼んでいたことはたしかであり、ひとまずその心模様に寄り添ってゆくということがなぜできないのか。語源探索の思考は、そこからはじめるのがごくあたりまえの作法というものだろう。
それは、「意味の表出」として生まれてきたのではない。古代人にはその地を「あすか」と呼ばずにいられない切実な思いがあったわけで、そう呼ぶことのカタルシスがあったのだ。その心模様を問わなければ語源のかたちには推参できない。その地に対する「感慨」とその言葉=音声に対するなんとなくの「感触」が歴史の無意識として堆積しながら、いつの間にか誰いうとなく「あすか」と呼びならわすようになっていったのだ。


「ぐすく」と「あすか」……この「すく」と「すか」は同じか、それとも別のニュアンスの言葉か。
「あすか」の「あ」は、「あっ」と驚くの「あ」、あるいは「ああ」という詠嘆。
「す」は、「胸がすっとする」とか「すっきりする」の「す」、そういうカタルシス(浄化作用)をあらわす音声であることはたしかだろう。
「か」は、「カッとなる」の「か」、強くはっきりしたかたちの感慨が湧き上がってくること。
「すか」は、「すっかり」とか「スカッとする」の「すか」、この言葉もまた、よけいな思いが消えてなくなることの「カタルシス(浄化作用)」をあらわしている。
「あす・か」ではなく、「あ・すか」なのだろう。「ああ」と詠嘆して「すか」とつぶやく。そういう感慨から「あすか」と呼びならわすようになったのではないだろうか。
 この「すか」というやまとことばは、おそらくとても古くからあり、そして現在でもさかんに活用されている。
 くじのはずれは「すか」という。そういう「消失感覚」の表出として生まれてきた言葉であり、それは日本人にとって「嘆き」であると同時に「カタルシス(浄化作用)」の体験でもある。「すっかりなくなってしまった」という一方で「すっかりきれいになった」ともいう。「すかすか」や「すっからかん」はネガティブなニュアンスで、「スカッとさわやか」とか「すかさず」というときはポジティブになる。「すかさず」とは、「間」の時間の消失を意味し、それくらい早いということ。
 はじめに「すか」という「消失感覚」の表出の言葉があり、それをもとにして日本人は、さまざまな表現の言葉へと展開していった。
 まあ英語の「スカイ=空」だって何もない空間のことだし、しゃれこうべのことを「スカル」というときは、肉や皮膚や目の玉などがすっかりなくなって骨だけになっている状態をあらわしているのだろう。「すか」という音声に「消失感覚」がともなっているのは世界共通で、日本人はことのほかその感覚を体験することに対する愛着があった。この国の伝統的な美意識である「わび」とか「さび」とか「あはれ」とか「はかなし」だって、ひとつの消失感覚の上に成り立っている。「穢れを洗い流してさっぱりする」ということだって、消失感覚だ。そういういわば「みそぎ」の「カタルシス(浄化作用)」が体験される土地として「あすか」と呼びならわすようになっていったのではないだろうか。
「あすか」という地名は日本中にいくらでもあるし、「あすか」というという女の子の名も少なくない。それほどに日本人は、「あすか」という言葉=音声の「感触」に対する愛着を歴史の伝統として持っている。「飛鳥(あすか)」という地名は、「あんすく」という音声として生まれてきたのではない。最初から「あすか」だったのだ。
奈良の中にだって「あすか」という地名は、ほかにもいくつかある。べつにその地だけを「あすか」といったのではない。
「すがすがしい」の「すが=すか」、だから浄められた土地のことを「すが地」といったりする。「あ」は接頭語、清らかな土地だから「あすか」といった、という語源説もあるわけで、もうそれでいいのではないか。
ただ、なぜそこが清らかな土地だったのかという説明が不十分だから、朝鮮語の「あんすく」だった……というような愚にもつかない語源説があれこれ跳梁跋扈してくる。
 古代人にとってそこは、「みそぎ」のカタルシスが体験される聖地だったのだろう。だから「飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)」という地名の場所に都がつくられたこともあった。
 ただ、「ぐすく」の「すく」が静かでしみじみとしたカタルシス(浄化作用)をあらわしているとすれば、「あすか」の「すか」には、「すっかり」「すかさず」というくらいで、素早くダイナミックなそれをあらわしている感触がある。このとき「すか」の「か」は、「なんと美しいことか!」というときの「感動」の心模様をあらわす「か」でもある。
イタリアには「ナポリを見て死ね」という諺があるらしいが、同じように、「あすか」というその地に立てばたちまち「もうここでも死んでもいい」という心地に浸される、というような消失感覚の「感動=国褒め」をあらわしているのかもしれない。


 やまとことばの「すく」が朝鮮語の「宿=すく」の模倣だなんて、こんな粗雑で横着な語源論を吹聴してご当人の自意識は大いに満足なのだろうが、「ぐすく」といった沖縄の人々に対しても「あすか」といった日本列島の古代人に対しても失礼な話だ。やまとことばの語源論は、お前ごときのちんけな脳みそが繰り返すパズルゲームの範疇でおさまることではない。
 この人の思考には「他者」というものがなさすぎる。自意識をまさぐっているだけなのだ。自分の観念世界だけで完結してしまっている。そこがこの人のインテリとしての限界。
 語源論は、どのような意味として生まれてきたかと問うことではない。どのような「感慨」でそう呼びならわすようになっていったのか、と問うてゆくことがなぜできないのか。しようとしないのか。いや、ご当人はしているつもりなんだろうけどさ。それじゃあ全然だめなのですよ、finalventさん。
「あすか」の地に住み着いた人々は、無意識のうちにそういう音声の感触をいとしみまさぐりながら、いつの間にか誰いうとなくその地を「あすか」と呼ぶようになっていった。
 奈良盆地は、もともとはほとんどが湿地帯か湖のようなところだったわけで、弥生時代のはじめになってもまだ人が住めるような場所ではなく、多くの人々はまわりに連なる山々で暮らしていた。しかしそのころの日本列島の気候は乾燥寒冷化の傾向にあり、それとともにしだいに湿地帯の水が干上がっていった。そうしてまわりの山から人が降りてきた。
 弥生時代奈良盆地は、考古学的には、日本列島でもっともダイナミックな人口爆発が起きた土地になっているのだが、それは、そこに住み着いていった人びとがいかに豊かにときめき合っていたかということと、まわりの山々には縄文時代からすでにたくさんの人々が棲みついていたということを意味する。もともと人が住めない湿地帯だったのだ。それでもそこで人口爆発が起きたということは、まわりの山々にはすでにたくさんの人々が住み着いていて、彼らはその湿地帯の水がしだいに干上がってゆくのを眺めながら歴史を歩み、干上がってゆくとともに続々そこに下りてきたのだ。それは、「都市」というものが世界中どこでも「人口流入」によって形成されてゆくという普遍的な法則にかなっている。
 弥生時代から古代にかけての奈良盆地の人々は、たとえば天皇が山に登って「国見」をするとか、山の中に巫女や娼婦の里があったとか、山との豊かな関係を持ちながら生活していた。もともと山で暮らしていた人々だったからだ。そうして、山から木を切り出してきて住宅を建設するということもおそらく日本列島でもっとも進んでおり、その伝統が法隆寺薬師寺建立の技術の高さへと結実していった。また、盆地の水が干上がってゆくと同時に、後期になると巨大古墳の造営などの土木技術も発達して、その技術で積極的に干拓工事も進めていった。巨大古墳は、まわりの水を一カ所に集める干拓工事でもあったのだ。
 弥生時代奈良盆地から列島に広がっていった文化というのがたくさんある。奈良盆地は、九州や出雲などのように朝鮮半島の影響を受けて共同体を建設するという文化は遅れていたが、たくさんの人々が一か所で暮らす「都市」建設の文化においては、ハードの面でもソフトの面においても、列島でもっとも進んでいたのだ。その証拠となるのが現在の奈良盆地で発掘されている弥生時代後期の纏向遺跡であり、だから都市文化が成熟していったん共同体=国家を建設するということになれば、たちまち朝鮮半島を模倣していた出雲や九州を追い越していった。
 弥生時代においては、九州や出雲を中心とする「銅剣・銅矛」の文化圏と、奈良盆地を中心とする「銅鐸」の文化圏とに分かれていたといわれている。それは、他国を排斥し合う共同体の文化と、一か所に人が集まって盛り上がってゆく都市の文化との差異でもあった。奈良盆地には、そういう「都市」の文化が発達する地理的条件と歴史的な条件がそろっていた。
いまどきは、古墳時代以降の奈良盆地大和朝廷は九州や出雲の豪族による連立政権だったという説がもてはやされたりしているが、弥生時代からすでに奈良盆地は「都市文化」がもっとも進んだ地域だったのであり、その勢いで奈良盆地の人々が大和朝廷を打ち立てていっただけなのだ。まあそこは「都市」だったから、出雲や吉備や九州から流入してくるものはたくさんいたし、それらのものたちを受け入れる文化も持っていた。古事記日本書紀になんと書かれてあろうと、じっさいには、べつに地方の豪族たちが軍隊を率いて奈良盆地に押しかけてきたのではない。
 地理的な条件として、弥生時代奈良盆地には、朝鮮半島からの渡来人などほとんどいなかった。だから、出雲や九州のような「銅剣・銅矛」の文化圏にはならなかったのだ。それでも「都市」としての奈良盆地の文化の先進性というのがたしかにあったわけで、朝鮮半島を模倣していた出雲や九州よりももっと進んでいたのだ。今どきの思考力や想像力の貧しい半端なインテリの歴史家たちは、そこのところがなんにもわかっていない。
 古代の日本列島の歴史は朝鮮半島を模倣して歩んできたわけではないし、やまとことばの歴史だって、最初から朝鮮半島とは分かたれたところから生まれ育ってきたのだ。
やまとことばが朝鮮半島を模倣しながら生まれ育ってきたものであるのなら、今どきの朝鮮からの在日一世は、日本人よりももっと日本語がうまくなっている。


 この論考は「閑話休題」という感じでもっとかんたんに終わらせるつもりだったのだが、こんなにも長くなってしまい、まだ終わりそうにもない。
「finalvent」というこんなにも博識である人が、こんなにも薄っぺらな語源論を書いて恥ずかしがるどころか得意になってさえいるというのは、どういうことだろう。今どきの「知の情況」は、どこか病んでいる。政治家の意識の低さとか子供たちの学力の低下を嘆いても、社会全体の「知の情況」の問題であるのかもしれない。この情況から誰も無縁でいられないし、誰も無罪で清廉潔白ではいられない。そして、自分たちだけは無罪で清廉潔白のつもりでいる「市民」とやらがのさばっている世の中でもある。
 彼らは、世の中の生きられない無能なものや犯罪者たちを「なんと愚かな……」と裁くだけで、「どうしてそうなったのだろう?」「どんな気持ちなのだろう?」と問うだけの知性や感性のはたらきを持っていない。自分だけは無罪で清廉潔白のつもりでいる。世の中の無能なものや犯罪者たちは、彼ら「市民」たちの「自己」や「生」の正当性を証明するために存在しているのか。
「なんと愚かな……」というその傲慢な無関心は、いったいなんなのか。一事が万事、この「finalvent」という人だって、古代人はどうしてその地を「あすか」と呼んでいたのだろうという問いをほとんどしていないし、少しだけ問うたとしても、じつに雑駁で程度の低い問いしか立てていない。「なんと愚かな……」という感想ですませてしまっている「善良な(?)」市民たちの思考と同じ次元であり、まあこの人も、時代に踊らされ共同体の制度に飼いならされて生きてきた「市民」のひとりなのだ。どんなに博識でも、そこがこの人の限界。


 もう少し考えてみよう。
 奈良盆地は、南の地域から先に干上がっていった。纏向遺跡がそうだし、初期の大和朝廷の都は飛鳥をはじめとしてほとんどすべて南の地域に集中している。そして頻繁に都の地が変わっていったのは、初期の国家であるために政争などの混乱がつねにあったことと、奈良盆地の水が干上がってゆく過程の段階で、新しく清浄な土地が次々に生まれてきていたということもあるのかもしれない。このころの遷都の理由の第一が「土地が穢れてきたから」ということにあり、その習性は平安遷都まで続いた。
 奈良盆地ではないし史実かどうかもよくわからないが、仁徳天皇の「難波の宮」は、仁徳天皇陵をはじめとするそのころの巨大古墳の造営ラッシュによる干拓事業によって干上がった新しい土地につくられたものだった。
 都が北部の奈良(平城京)に移ったときだって、そこがそのときの「新しく清浄な土地」だったのであり、都のまわりにはたくさんの巨大古墳がつくられていた。
 水が干上がって新しく清浄な土地が浮かび上がってくることの感動で「あすか」といったのかもしれない。
 弥生時代初期以前のまわりの山で暮らしていた人々は、山の中から、盆地の水が少しずつ干上がってゆくのを眺めながら暮らしていた。そしてときには、天香久山という「島」に小舟で渡り、その頂上から、たおやかな姿をしたまわりの山々やきらきら輝く水面を眺めたりしていたのかもしれない。そうして、もしもここが干上がって新しい土地があらわれてきたらここに住みたい、と思ったかもしれない。
「飛鳥浄御原」という地名は、「水が干上がって生まれ出てきた清浄な土地」という意味だったのかもしれない。べつに草茫々の原っぱが「清浄」というわけでもないだろう。
「住む」が「澄む」でもあるのは、そういう歴史過程から生まれてきたのかもしれない。


10

そしてこの人は、「奈良」は朝鮮語の「国」という意味と同じで渡来人が命名したのだと強弁し、そのころの大和朝廷が渡来人によって運営されていたかのようにいう。政治向きのことはよくはわからないが、これではまるで大和朝廷の政治の実権が百済からの渡来人に乗っ取られたかのようで、日本列島の住民の主体性は何もないかのようではないか。権力者たちがそうかんたんに既得権益を手放すはずがないだろうし、権力階級内の人間関係も政治の実務も、それなりに日本語が堪能で日本人のメンタリティに精通していなければやってゆけるものではないだろう。例外的な渡来人の一人か二人はいたとしても、基本的に渡来人の役目なんか、記録係の下級役人でじゅうぶんなのだ。
 何はともあれ渡来人がそこで生きてゆくためには、日本語=やまとことばを覚えることなしにはあり得なかったはずだ。まあ、日本語を当たり前のように話す二世・三世の代になってようやく権力機構への参加の機会も与えられるようになってくるのだろう。
奈良の地名が渡来人によって渡来人の母国語でつけられただなんて、そんなことがあるわけがない。そんな言葉が、やまとことばしか知らない民衆の間に広まってゆくはずがない。そこが渡来人だけのコミュニティだったときにのみ、そういう地名が生まれてくる。
飛鳥であれ奈良であれ、奈良盆地の民衆の必死の干拓事業の成果としてあらわれ出た土地だったのだ。そういう自分たちが愛着してやまない新しく清浄な土地の名を、渡来人に勝手につけられ、誰もがうれしがって飛びついていったといいたいのか。そのころの日本列島の民衆は地名をつけることを知らなかったとでもいうのか。
おそらくその「巨大古墳を造営する」という干拓事業は、権力の命令のもとに民衆が使役されてなされたのではない。それは、民衆の「清浄な土地へのあこがれ」とともに民衆自身によって、大和朝廷という権力機構が生まれる前からなされていたのだ。
弥生時代後期の纏向遺跡の「箸墓」という巨大古墳は、「卑弥呼」の墓だったなどともいわれたりしているが、とにかくそのときはまだ大和朝廷は存在しなかった。
 おそらく「飛鳥」も「奈良」も、民衆のあいだからいつの間にか生まれてきて広まっていった地名なのだ。
「奈良」という地名が生まれてきたいきさつだって、もともと人びとに「なら」という言葉=音声に対するそれなりの日本列島の住民ならではの愛着があったからこその話で、そのときすでに「なら」というやまとことばがあり、この地こそまさに「なら」ではないか、という感慨とともにいつの間にかそう呼びならわすようになっていったのだ。
「なら」という言葉は、日本列島で生まれたやまとことばであって、朝鮮語の「国」を意味する「ナラ」という言葉とはなんの関係もない。
たとえば日本語で「あの人ならではの……」とか「もしも……なら」というときの「なら」には「国」という意味なんか含まれていない。この場合の「なら」は、どちらも「均(なら)す」というニュアンスを持っているわけで、このニュアンスこそやまとことばの「なら」のほんらいの「姿」なのだ。
そのときの「奈良」だって干上がった土地を「ならして」町をつくっていったわけで、「なる」とか「なれる」とか「なつく」とか「なじむ」とか、そういう「な=愛着」の感慨が込められている。つまり「奈良」という地名には、「人と人が豊かにときめき合ってゆく」というかたちでの「ならす」という意味がメタファーとして隠されているのであり、これからそういう町をつくってゆこうという希望を込めて「なら」と呼びはじめたのかもしれない。だから「寧楽」などという字を当てたりもした。いずれにせよ、万葉集などを読めばわかるように、古代の奈良の人々の「なら」という地名に対する愛着の深さは並々ならぬものがあるわけで、ただの「国」という意味だけでそんな心模様が生まれてくるはずもないのだ。
もともと日本列島住民にとっての「くに=世の中」は疎ましい対象で、だから国旗も国歌も正規の国名もない歴史を歩んできたのだ。
 渡来人が「ここはわれわれの町=国だ」という思いで「奈良」と命名したのでも、民衆がそういう思いこめてそう命名したのでもない。日本語=やまとことばの「なら」が、どうして「国」という意味を持っていなければならないのか。ばかばかしい。
 古代の奈良盆地の人々の「奈良」という土地に対する愛着は、「国に対する愛着」だったのではない。「青垣、山こもれる(古事記)」というたおやかな姿をした山並みに囲まれたその景観にあったし、「なら」という音声そのものの「感触」によって、「咲く花の匂ふがごとく今さかりなり」というようなきらきらした空気感や、人と人がときめき合いながら日本で一番大きな都市になっていった歴史の無意識とかの、その「世界の輝き」がたちまち喚起されるカタルシス(浄化作用)があったのだ。

11

「飛ぶ鳥の明日香」という枕詞を最初に使ったのは柿本人麻呂らしく、それ以来「あすか」が「飛鳥」と表記されるようになっていったのだが、この枕詞は、同時に「明日香」以外にも使われている。つまり、もともと「飛ぶ鳥の」という枕詞は必ずしも「明日香=飛鳥」の代名詞ではなかった、ということだ。
 たとえば「飛ぶ鳥の」が、「浄御(きよみ)の宮に」とか、「早く来まさね」とか、「到らむとぞよ」とかの句に続いていったりする歌もある。
 「浄御の宮」はもちろん天武天皇飛鳥浄御原宮のことだが、この場合の「飛ぶ鳥」は「浄御」という言葉と呼応している。
「浄御」すなわち「カタルシス(浄化作用)」のこと。それは、生きてあることのいたたまれない思いが「すっかり」洗い流され、生まれ変わったようにすがすがしい心地になること。古代人にとっての明日香はそういう心地にさせてくれる土地だったわけで、そういう心地の象徴として「飛ぶ鳥の」という表現がなされたのではないだろうか。
万葉集は空を飛ぶ鳥の歌が多い。古代人には、空を飛ぶ鳥に対するひとしおの憧れがあり、そこにひとつの「カタルシス(浄化作用)」、すなわちこの生のいたたまれなさ(=穢れ)から解き放たれてある姿を見ていた。彼らにとって空を飛ぶ鳥は、そういう「みそぎ」の体験を象徴する存在だった。
「すか」というのはひとつの「消失感覚」をあらわす言葉で、日本列島の伝統としての「みそぎ」は、そうやってたちまち生まれ変わったように劇的に体験される。そこが、静かでしみじみとした「すく」とはちょっとニュアンス(感触)が違う。「すく」は「透く」であり、そういう「透明感」に対して、「すか」には素早く劇的な「消失感覚」がこめられている。だからそのカタルシス(浄化作用)には、「空を飛ぶ」という劇的な体験がよく似合う。そのようにして「飛ぶ鳥の」という「みそぎ=カタルシス(浄化作用)」を象徴する枕詞が生まれてきたのではないだろうか。
 まあ「飛ぶ鳥の明日香」という言葉は、「この地でもう死んでもい」という「カタルシス(浄化作用)」をあらわしているわけで、生き延びる能力としての「富みたる」ということなんか関係ない。現代人のそういう俗物根性を物差しにして、古代人の生きてあることに対する切実で豊かな心模様が測れるはずもない。
 古代の言葉は、この「finalvent」という人が考えるよりももっと豊かで深いニュアンス(感触)を重層的に持っている。彼のような、ただ文献をあさっているだけの通俗的なインテリには、そういう「言葉の感触」に気づいてゆけるだけの基礎的な知性や感性や思考力や想像力はない。そういう「感触」はたぶん、今どきのへんてこな言葉ばかり使っているおバカなギャルたちの方がずっとよく知っている。彼女らの方がずっと、言葉を「重層的」に扱っている。


12

 古事記に表記されている「とだる」が「富みたる」だといっても、そもそも古代人がどんなニュアンスで「富む」といっていたのかという問題がある。
ここで引用されている「天つ神の御子の天つ日継知らしめすとだる天の御巣みすなして」の「とだる」は、「空の彼方にそびえたつ」とか「人間の世界とは隔たっている」というようなニュアンスで、べつに「金持ちの豪邸みたいな」という意味でもなかろう。
 やまとことばの「と」は「異次元」というようなニュアンスがある。「ここが世界の終わりで、この先は別の世界」というようなこと。だから、家の内と外の境界を「戸(と)」という。「とだる」とは、「完全に隔たっている」ということ。「とこ」とは「ここだけの別世界」というようなことで、「寝床」であろうと「苗床」だろうと「床屋」だろうと、「ここだけの別世界」の「とこ」なのだ。「いま飯食ってるとこ」というときの「とこ」だって、「ひとつの限定された世界」をあらわしている。
 今ここで死んで今ここで生まれ変わる、すなわち、自分を忘れて世界の輝きにときめいてゆくこと、これだって「と」という体験なのだ。生と死の境目、そこに立つことを「と」という。だから「とほうにくれる」とか「とむらう」という。「とほほ」という情けなさだって、それはそれで生と死の境目に立っている心地をあらわしている。
 まあ「とだる」とは、「隔てる=隔絶」というようなニュアンスの上に成り立っている言葉であり、もちろん金持ちになることも庶民から隔絶してゆくことで、だから「富む」という。
 そうして「飛ぶ鳥」だって、人間の世界から隔絶された異次元の世界の存在であり、その「非日常性」として「カタルシス(浄化作用)」が体験される。
「飛ぶ」の「ぶ=ふ」は「震(ふる)える」の「ふ」、異次元の世界で「羽ばたいている=震えている」から「とぶ」というのだろう。
 そして「富む」の「む」は、「苔むす」の「む」で、動かないで膨らんでゆく感じをあらわしている。
「富む」の「と」と「飛ぶ」の「と」は同じであり、「富む」と「飛ぶ」は違う。そして「富む」にも「飛ぶ」にも、それぞれいろんなニュアンスや意味があって、ひとつの「意味」だけを取り上げて語源にこじつけようなんて、語源探索としては邪道なのだ。言葉がひとつの意味に限定されてゆくのは言葉の歴史の最終的な段階であって、はじまりではない。言葉は「意味」として生まれてきたのではない。
やまとことばの歴史は、「すか」という「消失感覚」の表出の音声をもとにして「すっかり」や「すかさず」という「意味」を持った言葉として展開していった。
 古代や原始時代のやまとことばは、ひとつひとつの語彙に、現在よりもはるかに「重層的」な構造を持っていた。
 古代の「とだる」という言葉を現代社会の物差しを当てはめながら「富みたる=裕福になる」というようなひとつの「意味」に限定して語源論を語ろうなんてナンセンスだ。古代の「とだる」にはそれだけではすまない多様で重層的な意味があったし、基本的には「みごとに隔絶している」というようなニュアンスだった。「日常と非日常」とか「この世とあの世」とか「地上と天空」とか「生きてあることの閉塞感(=穢れ)と解放感(=みそぎ)」とか、そうやって「隔絶」してあることすなわち異次元的非日常的な「みごとさ」や「めでたさ」や「ありがたさ」のことを「とだる」といった。
 まあ貧乏から隔絶した裕福な状態もまた「とだる」ということかもしれないが、それだけではすまないやまとことばの「重層性」に分け入ってゆかなければ語源の姿は見えてこない。
「とぶ」の「と」だって、「とだる」の「と」と同じように「隔絶する」という意味合いを持っている。だから、人間離れして風変わりな人のことを「とんでる」などと評したりする。「とんでもない」といういい方もある。
 やまとことばでは、異次元にワープすることを「とぶ」という。だから「話が飛ぶ」などといったりする。
「飛ぶ鳥の」という枕詞には、「生まれ変わったようなみそぎのカタルシス(浄化作用)が体験される土地」というニュアンスがメタファーとして隠されている。そこに、「あすか」の「あすか」たるゆえんがあった。そこは、「水が干上がって新しくあらわれてきた清浄な土地」だった。あるいは、「この地に立てばもう死んでもいいという心地に浸される」とか、「明日香」すなわち朝の透明な光や空気の気配とか、「あすか」という言葉=音声の「感触」には、それらのことがすべて重層的に込められている。
「あすか」とは「消失感覚の恍惚」のこと。「ああ」と詠嘆して「すか」という。これが「あすか」の語源。ようするにそれだけのことだが、そこには、日本列島の古代人が奈良盆地に住み着いてゆくことのさまざまな感慨や体験が重層的に込められている。
朝鮮語を模倣した「あんすく」が「あすか」になっていったのでは断じてない。最初から「あすか」だったはずだ。この地名の本質というか基本的な骨格は「すか」にある。「すか」という音声とともに生まれてきて、「すか」という音声を現在まで大切に守り育ててきた。
 朝鮮半島からの渡来人が最初に奈良盆地にやってきたとき、すでに奈良盆地の民衆によって語り継がれてきた「あすか」という地名はあった。その渡来人が「あすか」のことを「安宿」と表記しようと、そんなことはどうでもいい。やまとことばはあくまで「ひらがな」の一音一音の「感触」を携えながら生まれ育ってきたのであり、起源のときからすでに中国大陸や朝鮮半島の言葉とは別の歴史を歩んできた。すなわち、起源のときからすでに「やまとことば」だったのだ。しかしまあ、このことを書き出せばさらに際限がなくなってしまうので、ひとまずここで筆を置くことにしよう。
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この論考を「山姥」さんに捧げます。この論考は、「山姥」さんに教えていただいたところが出発点です。