枕詞論のまとめ(下)

ひとまずこれで、しばらく中断します。
これは、中断することとは直接関係ないことなのだが、このところずっとしつこい嫌がらせのコメントが続いています。それだけならまあ我慢するしかないのだが、どうやらパソコン内の情報を盗まれ、おまけに住んでいる街の駅前で待ち伏せされたりしているらしいのです。で、警察に電話で相談したところ、それはもう犯罪行為だから被害届を出してください、とのことで、そうすることに決めました。会ったこともある人だから、電話番号も知っているし、そこから住所もわかるらしい。もともとシャイなインテリの風情だった人がこんなふうに豹変してしまうなんて、なんだか気味悪く、いささか不憫でもあります。
世の中には、いろんな人がいる。
というわけで、しばらく中断します。


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(承前)

枕詞について考えることは、やまとことば(日本語)の語源について考えることでもある。
おそらくそれは、純粋な「感慨の表出」としてのとても原初的な言葉だった。
もともとの枕詞は何か具体的な事物のことをいっていたのではない。
古代人は、あとにかかる言葉の飾りとして枕詞を生み出したのではない。彼らは枕詞が好きで、とても大切にしていた。彼らの歌の歴史は枕詞からはじまったといってもよい。
「あおによし」は奈良が「青丹(あおに)」という顔料がたくさんとれるところだったからとか、そんな解釈は程度の低いただのこじつけだ。それでは古代人を甘く見過ぎているし、人間をなめている。
枕詞という歌づくりの作法を定着させていった彼らの言葉に対するセンス、世界観、生命観がある。それは、ただの言葉遊びではないし、よくいわれる霊魂がどうのという問題でもない。彼らには彼らの生きた暮らしの生活感情や身体感覚があったはずで、そこのところを問わなければ枕詞の姿は何も見えてこない。
原初の言葉は「感慨の表出」の「音声」だったのであり、そういう感覚が古代人にもまだ残っていた。
「あをによし」は、「あを・に・よし」か、それとも「あをに・よし」か。普通に、われわれの頭にインプットされてあるのは「あを・に・よし」という語感である。
「あおに・よし」では、何か言葉のつながりが野暮ったい。
われわれは、無意識のうちに「あを・に・よし」という調子でこの言葉を思い浮かべている。そのほうが端正な調べになり、イメージの喚起力も鮮やかになる。もともとそういう調べの言葉だったから人々に愛着されてきたのだろう。
「あを・に・よし」という音声の調べの美しさがある。万葉時代以来日本人は、それを愛着してきた。
「青丹」という顔料のことなどどうでもいい。この言葉を聞いて真っ先にそれを思い浮かべることによって、この言葉の美しい響きはより鮮やかに際立つか。そんなもの思い浮かべてしまったら、ぶち壊しではないか。
たとえば「さようなら」という言葉は、直接的には「別れ」を意味しているわけではない。意味がないからこそ、その音声の響きの何かしみじみとした気配を感じることができる。「さようなら」は「別れ」という意味の言葉ではないが、その音声にはしみじみとした別れのかなしみの気配が感じられる。
「あおによし」も、おそらくそのような言葉としての美しい響きを持っている。
「あを」という音声は、どこか「かなしみ」の響きをまとっている。それが「に」「よ」という音声によってやわらげられ、最後の「し」という音声とともに心が洗われさっぱりしてゆくというか、しいんとしてゆくニュアンスがある。
われわれは「あをによし」という音声の響きを愛しているのであって、「青丹が美しい」という意味を愛しているのではない。
「あをによし」という音声がまとっている「感慨のあや」を愛しているのだ。
「あをによし」というとき、誰だってまず「あを」という言葉=音声を思い浮かべている。それはもう、日本列島の歴史的な無意識である。
「あをによし」は「あを・に・よし」だから美しいのだ。
「あを」という音声がまとっている「感慨のあや」があり、そこに「あを」という言葉の語源の「姿」がある。
そして「に」という言葉=音声によってつながれていることにも、それはそれでそうであるべき必然性と味わいがある。
また「よし」には、「良い」とかとか「美しい」というような「意味」以前の、「音声」としてまとっている「感慨のあや」がある。
「たたなづく」がそうであるように、「音声」がまとっている「感慨のあや」を問うというアプローチをしないと「あをによし」のほんとうの姿は見えてこない。


まず「あを=あを」という言葉=音声から見ていこう。
「あお」は「青空」の「あお」、「あ」も「お」も、はるかな感慨から発声される。「あ」と気づき、「お」と気づく。そして「ああ」と嘆き、「おお」と驚く。
語源としては、はるかに遠いものに対する感慨を「あを」といったのだ。それが、古代以前の言葉の第一義的なかたちだった。彼らにとっては、「海の青」も「空の青」も「はるかに遠いもの」であり、それを見る「あこがれ・かなしみ」を込めて「あを」といった。
神社に神馬として飼われている馬は、たとえ白い馬でも、その神々しい姿は「あをい馬」と形容される。それはまあ、「悠久の馬」というようなニュアンスなのだ。
日本人は、つい最近まで「あを」という言葉をそういうニュアンスでも使っていた。
戦前までの農村の馬の名の定番が「あを」だったのは、誰もがその言葉=音声にそういうニュアンスを感じていたからだ。
「あをによし」の「あを」をあえていうなら「空の青」だろうか。空の青を仰ぎ見るはるかなあこがれやかなしみを込めて「あを」と発声される。そのはるかなあこがれやかなしみの表出としての「あを」という音声が、やがて「青」という事物(自然)を描写する言葉にもなっていった。
しかし枕詞は、古代においてもなお、あくまで語源における「心の表現」の言葉=音声としての機能を残しながら扱われていた。
「あを」は、はるかに遠いものに対するあこがれやかなしみ。
歌は、声に出して詠むものだった。日本列島の住民が伝統的にこのことにこだわってきたのは、音声がまとっている「心のあや」を知っていたからだ。そのようにして歌においては「心の表現」という語源の姿が残されてきた。
歌の調べとは、たんなる音声のリズムとか響きの心地よさだけのことではない。そのリズムや響きには、「感慨のあや」がまとわれている。詠み手と聞き手がその「感慨のあや」を交感できなければ、歌は歌でなくなってしまう。
「あを・に・よし」という感慨の流れの調べがある。
「あを」と「よし」は「に」という音声でつながれている。
「あをに・よし」ではない。
「に」は、「似る」「煮る」の「に」。「過程」「接近」の語義。「立派になる」とか「花になる」などという。「あを」がだんだん「よし」になってゆく、ということ。「あをによし」は、停止した状態ではない。心に浮かんだ「はるかに遠いものに対するあこがれやかなしみ」がだんだんやみがたいものになってゆく過程のさまを表している。
そして、語源としての「よし」は、「良い」とか「美しい」という事物(自然)を表す意味に限定されていたのではなく、そういう心の動きを表す言葉だった。
「よし」の「よ」は「寄る」の「よ」、「よお」とか「よっ、日本一」と声をかける。「親密」「接近」の語義。
「し」は「しーん」の「し」、「静寂」「孤独」「固有性」の語義。
「よし」は、気持ちがひとつに定まってゆくこと。そういう感慨が生まれてきたときには、思わずそういう「音声」が口の端からこぼれ出る。「よし、行こう」とか「これでよし」というように。
「あをによし」とは、はるかに遠い奈良盆地に対する想いがしだいに湧き起ってきて胸がいっぱいになること。胸にしみてくること。「に」という言葉でつながれていることによって、そういう「心の動き」をイメージさせる。ただ切ないのではない。だんだん切なくなっていってじわっと涙がこぼれてくるとか、たぶん古代人はそこまでこの言葉がまとっているニュアンスを汲み取っていたのだろう。
何はともあれ「あをによし」は、一般的にいわれているような「奈良」を賛美している言葉ではけっしてなく、じつは、旅人の胸にこみ上げる望郷の念が込められている言葉なのだ。
「あをによし」には、「奈良」が故郷だという意味は含まれていない。あくまで「やみがたい望郷の念」を表しているだけであり、だから、そのあとに「奈良」という言葉を置かねばならなかった。
「あをによし」は、「奈良」の代名詞ではない。
枕詞は、ただの無意味な飾りだったのではない。まず「あをによし」と詠いださずにいられない感慨があり、それが歌の主題であり、歌全体の通奏低音だった。


「あをによし」の歌を万葉集の中から挙げてみよう。
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あをによし奈良の家には万代(よろずよ)に我れも通はむ忘ると思ふな

あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも

あをによし奈良の都に行く人もがも 草枕 旅行く船の泊り告げむに

あをによし奈良の大道(おほじ)は行きよけどこの山道は行き悪しかりけり

あをによし奈良の都は古(ふ)りぬれどもと霍公鳥(ほととぎす)鳴かずあらなくに

あをによし奈良にある妹が高々に待つらむ心しかにはあらじか

あをによし奈良の人見むと我が背子が標(しめ)けむ黄葉(もみぢ)地(つち)に落ちめやも
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これらはすべて、奈良から遠く離れた地からの望郷の歌である。
望郷の歌でなければ「あをによし」という枕詞は使わなかった。奈良盆地の住民がのうてんきにお国自慢している歌などひとつもない。
これらの歌の作者は、何はともあれ「あおによし」と詠いたかった。そしてそのあとに「奈良」という言葉をつなげないと故郷がどこかわからなかった。
まあ、みごとに判で押したように「奈良」という言葉があとに置かれているが、それは、「あをによし」には「奈良」という意味が含まれていないからだ。
この中でもっとも有名なのは「あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも」という歌であるが、この場合、「あをによし」から「やみがたい望郷の念」を読みとらなければ、ただののうてんきな奈良賛歌にすぎない。しかしこれは、朝鮮の新羅に派遣されていった人の歌なのである。
そして「あをによし」のあとの言葉の連なりも、じつは「あをによし=望郷」のメタファーになっている。
もともと心の表現である原初の言葉のタッチの記憶が残っていた古代人が「雲」といえば、事物(自然)の表現よりも先にまず、その音声がまとっている「感慨のあや」が意識されていた。言葉の歴史は、はじめに「(心が)くもる」という表現があって、そこから事物(自然)を表す「雲」という言葉が生まれてきた。
古代人が、「あをによし」のあとに「奈良の都にたなびける天の白雲」と聞けばもう、その事物(自然)よりも先に、「胸の中に心細さで曇る心がひっそりと漂っているさま」を思い浮かべた。「しろ」はもともと「心細さ」「無垢な心」を表す言葉だったし、「たなびく」だって胸の中に漂う心のさまを表していたのだ。
心が、そのはるかに遠いものを思うかなしみ一色に染まってゆくことを、「あをによし」という。そこには、千字費やしてもまだ書きつくせない豊かな想いが込められている。



ともあれ、万葉集の「あをによし」の歌はこれに尽きる。
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あをによし 奈良の都は咲く花の薫(にお)ふがごとく今盛りなり
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この歌だって、もちろんただの奈良賛歌ではない。
まず「あをによし」という枕詞とともに「望郷やみがたし」と詠いはじめたのだ。
古代においては、「あをによし」と詠い出せば、それが望郷の歌であることを誰もが知っていた。
作者は、小野老朝臣(おののおゆのあさおみ)、役人として九州大宰府の地に派遣されていたときに故郷の奈良を懐かしんでつくった歌だといわれている。だから、そういう舞台裏がわからなければこの歌の「望郷の念やみがたし」というほんとうの情趣は読み取れないなどともいわれているのだが、そうではない、その情趣はちゃんと「あをによし」という枕詞に込められている。
のうてんきに奈良の都を賛美しているだけの歌ではない。「あをによし」と詠いはじめることこそこの歌の魅力であり、この枕詞がなければ名歌として現在まで語り継がれてくることもなかったにちがいない。
枕詞は、歌の主題なのだ。それはもう、枕詞の歌のすべてに当てはまる。
まあこの歌の作者はひとことではいえない胸に溢れるさまざまな望郷の念をこの「あをによし」という五音に込めたのであり、その言葉に誰もが「なるほど、そうか」と納得できる合意があった。
まあ「あをによし」は、もともととくに限定された意味のない「音声」として成り立っている言葉だった。枕ことばそのものが、そういう言葉だったのだ。だから、はっきりとした「意味」が伝えられてこなかった。しかし古代人はみな、詠う者も聞く者も、その「音声」がまとっている「感慨のあや」をちゃんと心得ていた。望郷の念が胸にあふれてくるその「感慨のあや」を。
「あをによし」という音声には、「はるかに遠いものに対する想いが胸にこみ上げてくる」という「感慨のあや」が込められている。「さようなら」がそうであるように、「あをによし」もべつに「望郷の念」という「意味」を直接表しているわけではないのだが、それが連想される言葉である。
このとき作者は「望郷」という「意味」を表現したかったのではなく、あくまでそうした「想いのあや」を表現したかったのであり、31音という制約の中では「あをによし」と詠み上げるのがもっとも有効な方法だった。
また、言葉を並べてあれこれいうよりも、そのひとことがまとっている「音声のあや」に託すほうがかえって豊かにも深くもなるという意識があった。
それは、直接的には「望郷」を意味しているわけではない。ここのところが微妙なのだ。だから「望郷」という意味が後世まで伝わってこなかった。古代人は、枕詞にあくまで「感慨のあや」を託していただけで、「意味を表現する」という意識はもとよりなかった。
また、枕詞は神道祝詞から派生したという合意が一般化していて、枕詞は祝福賛美する言葉である、と決めつけている研究者も多い。しかし枕詞は、祝福している場合もあれば嘆きを詠っている場合もあり、そんな決まりはない。
具体的な事物の「意味」を詮索することばかりしていたら、なおさら「あおによし」から「やみがたい望郷の念」という感慨を読み取ることができない。
「あおによし」という音声はそういっているようにしか聞こえないし、ほんとは誰もが無意識のところでそれを感じている。だから日本人は「あおによし」という枕詞が好きなのだ。
「あおによし」という音声に耳を澄ませばいいだけである。
ひとまずむやみな「意味」のこじつけはやめようではないか。そうでないと、枕詞を身体化し共有していた古代以前の人々の心模様に推参できない。
「あおによし」という音声に癒されてゆく心模様があったのだ。
古代以前の人々は、われわれ現代人が考える以上に「癒される」という体験に対する切実な思いがあった。その体験なしにどうして人間が生きてあることができよう。しかも彼らは、現代人のようなもっといい暮らしがしたいという欲望は希薄だった。彼らは、この生を嘆きつつ癒されながら生きていた。その「あおによし」という言葉=音声に対する感受性は、現代人よりもはるかに深く豊かだった。
「あおによし」と詠い上げてゆくことによってかなしみが極まり、同時にその音声によって癒されてゆく。嘆きを嘆ききることが、癒されることだった。ぐったりと疲れ果てて深い眠りに落ちてゆく……嘆きを嘆ききることによって、そのようなカタルシスがもたらされる。
たしかに「ひたぶるなる」思いなのだ。それが、古代人の生きる作法だった。
この国の伝統である「無常観」だって、ぐったりと疲れ果てて眠りに落ちてゆく作法で生きていた人たちによってはぐくまれてきた世界観であり生命観なのだ。


日本人は旅が好きだといっても、古代の「防人」という制度は、彼らの「嘆きを嘆ききり、嘆きそのものを生きてしまう」という習性のうえに成り立っていた。彼らは、生きて帰れる保証などないのに旅立っていった。
古代人にとっての九州の太宰府と奈良の都の隔たりは、おそらく現代人の想像をはるかに超えるものだったのだろう。
「あをによし」という言葉=音声こぼれ出る隔絶感とは、どれほどのものだったのだろうか。たぶんこの歌では「あをによし」と「今」が響き合っている。その隔絶感とともに「咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり」と詠い上げていった。現在なら飛行機や新幹線ですぐの距離だが、彼らにとってそれはもう絶望的に届かない「今」だった。
その隔絶感を嘆ききることによって、「あをによし」という言葉=音声がこぼれ出てくる。
真淵は「思ふこと、ひたぶるなるときは、言(こと)足らず」といったが、そんなことはない。「ひたぶる」であれば、言葉=音声は自然にこぼれ出る。原初の人類は、そのようにして言葉を生み出していったのだ。
「ひたぶるなる」思いがあれば、それを表出する文化が育ってゆく。枕詞を置くことこそ、もっとも豊かに効率よく「思い」を表出する技法だったのだ。
真淵にすれば「あをによし」は「言(こと)足らず」のあいまいな「仇し語(飾りことば)」のように映ったのかもしれないが、古代人は彼らなりにその「ひたぶる」思いを表現しつくす技法として枕詞を扱っていたのであり、われわれ現代人がそれを汲み取ることができないだけなのだ。
そうでなければ「大和は<ことだま>の咲きはふ国」などとはいわない。彼らは彼らなりに、豊かな言語表現を交歓しているという思いがあった。
この「あをによし」という言葉には、望郷の念の隔絶感も、胸にこみ上げてくる切なさやかなしみも、ちゃんと込められている。
「言(こと)足らず」などというべきではない。それはもう、事物(自然)の意味にとらわれたわれわれが枕詞の豊かなニュアンスを汲み取る能力を失っているからだ。
古代人はちゃんと「ことだまの咲きはふ国」を生きていたのだ。
彼らにとって言葉を交わすことは、なによりもまず音声がまとっている「心のあや」を聞き取ってゆくことにあった。それが、「ことだまの咲きはふ」ということである。
「ことだま」とは、「言葉の霊魂」のことではない。そんな解釈は現代人の勝手な思い込みで、古代人の心ではない。少なくとも古代以前の人々は、「ことだま」の「たま」は「霊魂」のことだとは思っていなかった。
「ことだま」の「たま」は「心のあや」のことだ。言葉=音声は「心のあや」をまとっている。プリミティブな言葉ほど、「心のあや」の表出を色濃くまとっている。言葉は、「心のあや」の表出として生まれ育ってきた。
古代以前の人々は、自然の描写を心の表現にしていたのではない、心の表現を自然の描写にしていっただけなのだ。古いやまとことばは、どんな事物(自然)を表す言葉だろうと、その音声そのものに「心のあや」をまとっていた。
それでもまあ事物は事物なのだが、枕詞だけは、純粋に「心のあや」を表現する言葉として合意されていた。だから枕詞のあとの言葉はもう、枕詞が示す感慨のメタファーとして聞き取っていった。
古代人にとっての枕詞は、歌が「感慨の表出」であることのよりどころだった。
そのとき人々は、「あをによし」という音声そのものから直裁にその「心のあや」を汲み取っていった。
そしてそのあとの「奈良の都は咲く花の薫(にほ)ふがごとく今盛りなり」は、事物(自然)の描写のふりをしながら、すでにその音声が「心の表現」をまとっているのであり、それは「あおによし」という感慨のメタファーなのだ。
「咲く花の薫(にほ)ふがごとく」といえば、ひとまず「都の絢爛たる華やかさ」を描写しているように見えるが、音声の感触としてはなんだかひっそりとしている。「咲く」は「裂く」、心が避けて(ちぎれて)心ここにあらずということ。「はな」は、はかなくたよりない響きの音声である。「にほふ」は、心にしみてくる、という感じ。
「咲く花の薫(にほ)ふ」という言葉=音声は、そうした都の華やかさの描写の裏に、じつは「心細さが胸にしみてきて生きた心地がしない」という「心のあや」を隠している。そういう心が、都の華やかさを想っている。「咲く花の薫(にほ)ふ」という表現は、音声の響きとしてはけっして溌剌とはしていない。作者はたぶん、無意識のうちにそういう感触の音声を拾っていってしまったのだ。
それは、はじめに「あおによし」と枕詞を差し出していたからであり、その感慨にせかされながら知らず知らずそのような言葉が連想されていった。
歌とは、きっとそういうものなのだろう。
とくに古代の歌は、即興的に贈ったり返したりするものだった。
人間が生きてあることの即興性ということは考えさせられる。われわれは、観念的にはつねに未来のスケジュールを追いかけて生きているが、いつの時代であれ、「心」とはつまるところ「今ここ」に反応して生起するものにほかならない。
この生の即興性……そこから人類の言葉が生まれ歌が生まれ、枕詞が生まれてきた。
日本列島の歌は、つねに即興性とともにあったからこそ、あらかじめ用意されてある枕詞が必要だった。それは、じっくり考え紙に書いて創り出す、というようなものではなかった。「今ここ」で生起する心の流れとともに歌があった。その心の流れが、歌の調べだった。
嘆きを嘆ききらないと言葉は生まれてこないし、新しい心も生まれてこない。言葉が生まれてくることのカタルシスは、われわれより古代人のほうがずっと深く豊かに体験していた。
枕詞は、具体的な事物(自然)の名称でも、それを描写形容しているのでもない。直截な心の表現だった。そこのところで枕詞について考え直してみてもいいのではないだろうか。