枕詞論のまとめ(上)

なんかこの終わり方では気持ち悪いので、枕詞論のまとめを最後に入れておきます。
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青い空を見上げながら、枕詞のことを考えた。
いまどきの愚劣なこじつけの解釈に閉じ込められてしまった「あおによし」という枕詞を救出したいと思った。
はるかに遠い空が広がっている。
青は、かなしみの色だろうか。
人の心のかなしみがそれをそのように見るのか、それとも空の青そのものがそのようなかなしみの気配をまとっているのか。
これは、かんたんなようでかんたんではない問題を含んでいる。単純に前者だともいえない。空を見ているうちにかなしくなってくる、ということはよくある。
いずれにせよ人間は、「かなしみ」というものを知ってしまった。それはもう、原始人だって知っていた。
現代人は、「青い空」と聞けば、まずはじめに事物(自然)の描写だと解釈する。
しかし原始人が「あおい」というのは、純粋に「かなしみ」というニュアンスだけで、「青」という色のことなどいっていなかった。もちろん青く見えているに決まっているが、その色彩のことを指して「あお」といったのではない。
彼らが「あおい」といっても、心がしーんとしてくるような空だなあ、といっているだけで、青い色だとはいっていない。
彼らは、色彩の名称など持っていなかった。色彩はちゃんと区別して見えていたが、それに名をつけようという意識はなかった。あとの時代になって、青い色彩のことも「あお=あを」というようになってきただけのこと。
初めに「青」という色彩の名称があったということは、論理的にありえない。
言葉の起源は、人間的なさまざまな感慨から知らず知らずさまざまな音声が口の端からこぼれ出るようになってきたのがはじまりだろう。
「やあ」とか「おーい」とか「ねえ」とか、ある感慨とともに音声が思わず口の端からこぼれ出ることは大いにありうるが、事物を描写するためにあらかじめ言葉をイメージしてゆくなどということは、起源のかたちとしてはありえない。そのような観念作用が人類史の言葉の発生の契機にあったなどというのは、いかにも不自然である。
まず、思わず音声を発してしまったのだ。それは、音声を発してしまうような人間的なさまざまな「感慨のあや」が生まれてきた、ということだ。
そうして、発してしまったあとから、その音声に「感慨のあや」がまとわれていたことに気づいていった。
原初の言葉は、「感慨のあや」の表出として生まれ、機能していった。
古代や古代以前の人々が「青い空」といっても、その「あおい」は第一義的には「はるかに遠いものに対するあこがれやかなしみ」のことであって、空の色彩の名称に対する意識はあくまで二の次だった。彼らの意識には、原初の言葉の発生の痕跡がまだ残っていた。ことに枕詞においては、空の色彩のことをいっているふりをしながら、じつは「感慨のあや」が意識されこめられていた。
つまり彼らは、枕詞によって「感慨のあや」を交歓していた。まあこれがこの論考のテーマであるわけだが、そこにこそ、枕詞を差し出したり聞いたりする醍醐味があった。
われわれはもう「あお=あを」という音声がそんな「感慨のあや」をまとっていることをほとんど忘れかけているが、古代や古代以前の人々は、まだまだそれを自覚しながら言葉を扱っていた。それが、彼らいう「ことだまの咲きはふ国」ということで、たぶん、その自覚から枕詞が生まれてきた。
枕詞は、古代人が、言葉における「感慨の表出」の機能を守り育てるための大切なよりどころになっていた。


枕詞の意味を調べてみると、辞典に「語義未詳」と記されていることが多い。
枕詞の謎、というようなことがあるのかもしれない。意味だけでなく、それが古代の歌においてどのように機能していたのかということも、まだよく解明されていないのではないだろうか。
古代の心に推参するということ、それがちゃんとできていないのではないだろうか。
まあ研究者だけが扱う特殊な研究対象であるのなら外野席からどうこういうこともないのだが、われわれ一般人にとっても気になっている問題であるなら、あれもこれも「語義未詳」ですませられたら困る。
中学や高校の教科書にも載っている言葉が、「わからない」というだけでなく、嘘を教えているとしたら由々しき問題にちがいない。
こんなにもたくさん「わからない」言葉があるのなら、中には苦しまぎれのこじつけで嘘を定説にしてしまっている場合もありうるだろう。
「あをによし」は日本人がもっと好きな枕詞のひとつだろうと思えるが、じつはまだよくわかっていない言葉でもある。
辞典で説明されているところによれば、奈良坂の付近で「青丹(あおに)」という青緑色の顔料がとれたから、ということになっている。
これなども、苦しまぎれにでっちあげられた嘘の匂いがぷんぷんする。
とてもじゃないが信じられない。
いつごろからこんな言われ方をするようになったのか知らないが、じつにいかがわしい解釈である。
べつにその顔料が日本中で奈良坂でしか採れないというわけでもないし、それが広く奈良の代名詞になっていたわけでもあるまい。日本人は誰もが、奈良といえば青丹がとれるところ、と思っていたのか。いや、奈良盆地の人々だってそんなことを郷土愛にしていたわけでもなかろう。
寺院の建物の桟などにはこの色が塗られていたらしいが、もしかしたらこの枕詞は、奈良盆地にほとんど寺院などない時代から使われていたかもしれないのだ。まあ平城京の華やかさにはそんな彩りもあったかもしれないが、飛鳥時代やそれ以前の奈良の街並にそんな色があふれていたはずもない。だいいち寺院や宮殿の建築の華やかさなら、朱の色のほうがずっと目立つ。
こんな嘘っぽい説明が、辞典や教科書に載っていていいのか。
薬師寺で観光客の案内をする僧侶も、得々としてこの「青丹」云々の枕詞解釈を語ってはいにしえの奈良の都を説いてみせたつもりになっていたりする。
それのみか、中西進という万葉学の権威といわれている研究者だって、「あをによし」の現代語訳を「青丹も美しい」と表現している。
彼らはもう、「あをによし」の解釈はこれで決まりだと思っているのだろうか。
古代および古代以前の人々が奈良盆地の何に愛着していたかといえば、そんな「青丹」という顔料のことなどではなかったはずだ。
古代の奈良盆地の人々が愛していたのは、奈良盆地の自然の景観であるにきまっている。
古事記には、「たたなづく青垣山籠れる大和しうるはし」という記述がある。
これは、東国征伐から帰ってきたヤマトタケル奈良盆地に入ろうとして、父である天皇から拒否され追い返されたときに詠ったものだ。だからこの「青」という言葉にも、ヤマトタケル奈良盆地に対するあこがれとかなしみが深くにじんでいる。
ともあれ、「青垣山籠れる」というたおやかな姿をした山なみに囲まれている景観こそ、奈良盆地の人々がもっとも愛するものだったのだろう。少なくとも、「青丹」よりは「青垣」のほうをずっと愛していたのだ。
ついでにこの「たたなづく」という枕詞のことにもちょっと触れておこう。
辞典では、この意味を「幾重にも重なる」と説明している。まあ、まわりの山なみのことならそういう意味にもなるのだろうが、別の歌では、この枕詞のあとに「柔膚(にきはだ)」という言葉が置かれていたりする。つまり「女のやわ肌」。そして辞典ではこのかかり方を「未詳」だとしているのだが、これは研究者の逃げ口上である。かかり方がわからないというより、彼らが解釈する「幾重にも重なる」という意味じたいがおかしいのだ。
山が連なっていることは「たたなづく」とはいわない。その意味は、「山籠れる」という表現の中にある。「たたなづく」にそういう意味があるのなら、もう「籠れる」という必要はない。
現在の通説では、枕詞はあとの言葉を説明している飾りの役目として置かれている、ということになっている。「たたなづく」は「青垣」の蛇足の説明の言葉であるのか。だから、「柔膚」という言葉の前に置かれているのは何かのまちがいだろう、といわれたりする。
しかし、まちがいではないのだ。
この「たたなづく」は「愛着してやまない」という感慨を表出した言葉である。だからそれは、「青垣」にも「柔膚」にもつながってゆく。
「なづく=なつく」は「懐(なつ)く」で、「愛着」すること。そして「たた」は「まっすぐ」とか「そのまま」というような意味で、「まさにそのようなことだ」というニュアンスで強調する接頭語として使われている。
この場合の「たた」も、「なつく」という感慨の表現を強調している。
研究者がなぜ「幾重にも重なる」と解釈するかといえば、「たたな」を「たたむ」と読み替えているからだろう。たたんでくっついて(連なって)いるから、「たたなづく」ということらしい。
しかし「たたむ」という言葉はもともと「中におさめる」というようなニュアンスだったのであり、「たたみこむ」とは、まさに中に入れて隠してしまうことだ。
畳は、イグサを中にたたみこんである。
それに対して奈良盆地の青垣の山なみは、中にたたみこんであるものではなく、外側を覆っている奈良盆地の輪郭である。
語源としての「たた=ただ」は、「まっすぐ」とか「そのまま」というようなニュアンスで、「まったくその通りだなあ」という感慨から発せられる言葉=音声だったのであり、そこからあとのことばを「まっすぐそのまま」強調する接頭語にもなっていた。
まあ「たたむ」といわなくても、「たた」というだけですでに「中におさめる」というニュアンスがある。
「たたなづく」は「なつく」の感慨を中にたたみこんでいる。そうやってつくづくしみじみと愛着を寄せてゆく対象として「青垣」や「柔膚」が連想されている。
したがってここでの「たたなづく」は「青垣山籠れる大和しうるわし」という表現の「主題」になっているわけで、枕詞がただの「飾りことば」だと思うと間違う。
「たたなづく」は「青垣」を補足説明しているのではなく、「青垣」に対する「感慨」を表している。
ともあれ、古代の奈良盆地の人々は、青垣になっているまわりの山なみをことのほか愛着していたらしい。いや、今でもきっとそうだろう。その気持ちは、奈良盆地を訪ねた旅行者だってうなずける。
「青垣の奈良」というのならわかるが、「青丹(あおに)の奈良」だといわれてもピンとこない。
研究者は、「あをによし」は「奈良」の代名詞だと決めつけているし、今や日本人の誰もがそう思わせられてしまっている。
しかし、どうもおかしい。もしかしたら「奈良」とは関係ない言葉かもしれない。だから、そのあとには必ず「奈良」がつけられるのではないだろうか。「あをによし」といえば必ず「奈良」が浮かぶのなら、たまには省略してもいいではないか。たとえば「あをによし(奈良の)東大寺」とか「あをによし(奈良の)斑鳩」とか。しかし、「奈良」が省略されている「あをによし」の歌はひとつもない。
必ずくっついていることが、かえってあやしい。「私は犯人ではありません」としつこく繰り返す犯人みたいではないか。
「たたなづく」は、「青垣」の代名詞でも飾り言葉でもない、「青垣」に対する「感慨」の言葉である。「あおによし」だって、「奈良」の代名詞でも飾り言葉でもなく、「奈良」に対する「感慨」の言葉ではないのか。
原初の言葉は、「感慨の表出」として生まれ育ってきた。枕詞とは、そういう原初的な言葉だったのではないだろうか。
まあ僕は、すべての枕詞がもともとは「感慨の表出」の言葉だったと考えている。


小林秀雄は、『本居宣長』の中で、本格的な枕詞の研究書である賀茂真淵の『冠辞考』に対する感想として、こんな言い方をしている。
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冠が頭につくが如く、「あしびきの」という上句は、「このかた山に」という下句に、しっくりと似合う。(…略…)互に相映じ、両者の脈絡は感じられるが、けっして露わにではない。
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これは、現在のもっとも良識的な枕詞の解釈だろうと思えるが、これで満足というわけにはいかない。
「あしびきの」は「山」にかかる枕詞だといわれている。
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あしひきの 山鳥の尾のしだり尾の 長々し夜をひとりかも寝む
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柿本人麻呂のこの有名な歌における「あしひきの」は、「山」をいうためのただの飾りではない。この歌の「飾り」の役目をしているのは、「山鳥の尾のしだり尾の」という表現である。一般的にはこういう飾り言葉が枕詞だといわれている。これは「長々し夜」を修飾しているだけで、べつにこの歌の主題とは何の関係もない。
「あしひきの」は、「孤独」の感慨を表す枕詞で、この歌の主題である「長々し夜をひとりかも寝む」という「ひとりぼっちのわびしさ」と照応している。
ここでの「あしひきの」は、「山鳥の尾の」という「下句にしっくり似合」っているのではない。
「あ」は「あ」と気づく。この場合は「し」を強調するための接頭語の役割をしている。「し」は「しーん」の「し」、「静寂・孤独・固有性」の語義。「ひき」は「引き込まれる」という感慨の表出。
山を前にしていると、山の姿に気持ちが引き込まれて「この世に自分ひとり」という気分にさせられる。「あしひきの」という言葉=音声がまとっている「孤立感」というニュアンスは、「山」という言葉を飾っているのではないが、山に向かったときの感慨を連想させる。そこにおいて「しっくりと似合」っているのだ。
「あしひきの」というとき、古代人は自然に「山」を連想したが、「あしひきの」が「山」の意味を修飾説明しているのではない。
たしかに今となればもう、「あをによし」と「奈良の都」は、歌の調子としてというか語感として「しっくりと似合」っているように感じられる。それはまあそうなのだが、「青丹も美しい奈良の都は」と訳してしまったら、「露わにではない」というような風情でもあるまい。露わすぎるくらい露わに「脈絡」がつながっている。
まあ研究者たちは、意味がわかれば露わすぎるくらい露わな脈絡で説明し、よくわからなければ「ただの飾りの言葉」であるという。きっとほんとうは、すべてに露わな意味をつけてしまいたいのだろう。
「たたなづく」は、けっして「青垣」や「柔膚」のさまを補足説明している飾り言葉ではない。「深い愛着」があるのなら、あとの言葉は「りんご」でも「みかん」でもいいのである。いやこれは、「たたなづく」だけのことではない。すべての枕詞とあとの言葉との関係にいえることなのだ。
枕詞とあとの言葉は、頭にかぶる冠のように「しっくりと似合う」というような関係ではない。枕詞からあとの言葉を連想していっているだけである。
古代人は「たたなづく青垣」と続けて詠み上げていたのではない。「たたなづく」でいったん切り、そのあとおもむろに「青垣……」「柔膚……」と詠んでいったのだ。
枕詞は、それ自体で独立した言葉である。あとの言葉のただのお飾りであるかのように「しっくりと似合う」などといってすませてもらっては困る。
言葉の原初的な機能は、集団生活をいとなむためにみんなで「感慨のあや」を共有してゆくことにあった。それが共同体(国家)の成立と文字の普及によって、言葉が「意味の伝達」が第一義の機能に変質していった。枕詞は、いわばその「過渡期」の時代に生まれてきた。
それ以後言葉は、時代とともにますます「意味の伝達」が第一義の機能になってゆき、枕詞がほんらいまとっていた「感慨のあや」がしだいに忘れられていった。



枕詞の起源については、折口信夫をはじめとして、原始神道の「祝詞(のりと)」から派生してきたと考えている研究者は多い。だから、枕詞は祝福賛美する言葉である、という。そうやって「あをによし」が奈良を祝福賛美する奈良の代名詞である、という合意がつくられている。
神道祝詞がいつの時代から生まれてきたかはともかく、日本列島ではそれ以前から「歌垣」という男女がひとつのところに集まって歌を交歓する習俗があった。
これはもう、縄文時代からなされていたともいわれている。
はじめに歌の文化というか習俗があり、神道祝詞だって歌の作法から派生していったのだろう。
おそらく最初期は、「感慨の表出」としての枕詞だけを差し出し、それを相手と共有できるかどうかが、カップルになるための試金石だった。相手も同じ枕詞を返してくるかどうかということ。
枕詞は、その場で生まれてくるものではなく、あらかじめみんなに共有されている言葉だった。ここのところが大事なのだ。そのとき歌は、「生み出す」ものではなく「差し出す」ものだった。
その場の感慨を他者と共有しているかどうか、それを問うて返すのが、起源における歌の交歓だった。そうしてそれは、万葉のころにおいても、たがいの親密さの証として同じ枕詞で歌を返すのが作法だった。
枕詞が発展して短歌になり長歌になり、神道祝詞にもなっていったのだ。
人類は、言葉を覚えたから歌を生み出したのではない。言葉は、「歌」として生まれてきた。
ここにおいて、一般的な歌の歴史に対する通念はおそらく間違っている。
起源としての言葉は、「やあ」とか「おお」とか「おーい」とか「ねえ」とか「うんうん」とか、まあそのような無意識のうちに口の端からこぼれ出る「音声」だったはずである。それは、他者との関係に対する「感慨(心)の表出」であり、それ自体すでに「歌」だった。
「感慨の表出」だから、そこには表情や声の抑揚も加わっている。つまり、歌なのだ。そうしてそれはやがて、他者に対する感慨だけでなく、まわりの事物(自然)に対する感慨も表したくなる。花はきれいだとか、雷は怖いとか、そういう感慨を他者と共有しているかどうかということが気になってきて、その感慨をひとまず音声に出してみる。
というか、他者と共有しているかどうかと気になっていれば、自然に何らかの音声がこぼれ出てくる。で、共有されていると気づいた音声が、その集団の「言葉」になっていった。
共有されているかどうかと問うて、共有されていると認知された音声が集団の言葉になってゆくのだから、それがどんな言葉になるのかは、集団の置かれている条件によって違ってくる。
 言葉が集団によって違うということは、言葉は集団のかたちや環境が決めているのであって、人間の創作ではない、ということだ。人間はただ、そうした条件から言葉を発するように仕向けられてきただけである。
「伝える」ことによって言葉になるのではない。誰もが「共有している」と気づくことによって集団の言葉になってゆく。それは、「伝えられた言葉」ではなく、誰もがすでに共有していたのであり、発せられたあとに共有していたことに気づいてゆく。
このあたりのいきさつは、ちょっとややこしい。
初めに「リンゴ」という名称がつけられたのではない。リンゴに対する「感慨のあや」が音声として発せられた。したがってそこで共有されているのはリンゴに対する「感慨のあや」であって、リンゴそのものの名称ではない。
「かわいい」とか「おいしそう」とか「きれい」とか、まあそのような心の動きであり、その「心」を共有していることこそ原始人のよろこびだった。彼らはそれが「心」を表す言葉=音声であることを知っていたと同時に、それがリンゴを表す名称だという意識はなかった。彼らにとって言葉とは、あくまで他者との関係を確認し合うための道具だったのであって、その事物(自然)に名前を付けるということにはほとんど興味がなかった。
「感慨のあや」を共有しているということはその場に他者とともにいるということに安心やよろこびをもたらすが、リンゴの名称を共有しても、そのことの契機にはならない。
原初の言葉は「感慨の表出」だった。原始人はそのことを自覚しながら言葉を育てていった。育てているあいだにいくつかの「名称」も生まれてきただろうが、彼らの言葉=音声に対する一義的な関心はあくまで「感慨の表出」にあった。
古代人だって、われわれ現代人よりはずっと「言葉とは感慨の表出である」という自覚を持っていた。「感慨のあや」を「言葉=音声」として共有してゆくことこそ、人が集団で生きてゆくことの基本なのだ。
彼らは、集団の中で生きてゆく作法として、「感慨のあや」を共有してゆこうとした。それは、「感慨のあや」を差し出して、共有しているかどうかと問うことだった。
起源における言葉は、「問い」であり、感慨の表出である「歌」だった。
「感慨を差し出す」ということ。これが歌であり、他者も頷いて同じ音声を返してくれば、それが共有の言葉になる。
そのとき、事物(自然)を描写しているのではない。他者と同じものを見ているのだから、描写する必要などないし、できるはずもない。
ただ、その感慨を共有していることが、ときめき合って存在しているというか、場を共有していることの証になる。
生き物なら、目の前の相手が自分に危害を加える存在であるか否かということは、どうしても気になる。それはもう本能のようなものだろう。そのようにして原初の人と人も、感慨の表出である「言葉=音声」を共有していった。
その事物(自然)が何であるかということは、すでにおたがいがわかっているのだから、それを描写して伝える必要など何もない。それよりも、その場のもっとも差し迫った問題は、たがいに危害を加えようとする意思を持たずにときめき合っているかどうかということだ。
猿の社会では、ひとまずそこで力比べなどをしながら「順位関係」をつくるが、人間社会ではその習性がすでになかった。あくまで感慨の共有によってときめき合う関係をつくってゆこうとした。そのようにして歌=言葉が生まれてきた。
原初の人類は、ときめき合う関係をつくろうとして、歌=言葉を生み出した。
ときめき合っていなければ、順位のない関係で場を共有してゆくことはできない。これは、現代社会の人間関係の問題でもある。社会的な順位関係においての言葉は決められた規則にしたがったものでよいが、プライベートな恋や友情の場では感慨を共有しながら言葉が豊かにはたらいていなければ成り立ちにくい。それが、言葉の起源であり、究極のかたちでもある。
言葉の根源的な機能は、感慨を表出しながら他者に問うてゆくことにあり、そのようにして「歌」が生まれてきた。それは、「伝達」することではなく、「問う」ことにある。他者を「説得」するのではない、共有しているかどうかと問うてその「音声」を「差し出す」のだ。
人類は、事物(自然)の描写や伝達の方法としての言葉を覚えてから歌を生み出したのではない。言葉は、はじめから「心の表現」としての「歌」だった。
まあこんなことをいっても既成の言語論からあまりにもかけ離れているからほとんどの人はうなずいてくれないだろうが、既成の言語論が絶対的に正しいというわけでもあるまい。


吉本隆明氏は、枕詞のことも詳説している『初期歌謡論』で、このようにいっておられる。
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なぜ<歌>は直裁に<心>の表現で始まり<心>の表現で終るところに成立しなかったのだろうか?
なぜ自然(事物)をまず人間化して<心>のほうに引き寄せ、つぎに<心>の表現と結びつけるという、一見すると迂遠な方法がとられたのだろうか?
いま、こういう疑問をもちだすとすれば、応えはおおよそ二つありうる。
もともと歌の成立には、発生のときから事物(自然)の描写が本質的になければならないものだった、というのが、ひとつの応えである。
かれらには自然もまた依り代として<心>の一部とかんがえられていたのであった。
もうひとつの応えは、古代人(あるいはもっと遡って未開人)は、<心>を心によって直接に表わせなかったので、まず眼に触れる事物(自然)の手ごたえからはじめて、しだいにじぶんの<心>の表わし方を納得してゆくよりほかなかった、とかんがえることである。 
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僕は、ふつうに「歌は心の表現で始まり心の表現で終わる」と思っているから、こういう言い方をされると驚いてしまう。
枕詞ほど「直裁に心を表現している」言葉もないのである。
「たたなづく」は、吉本氏のいうような「事物(自然)の描写」の言葉だったのではない。「深い愛着」という「心の表現」だったのだ。
誰もが「事物(自然)の描写」から歌の歴史がはじまったと考えている。それが気に入らない。
そうではないのだ。
言葉の起源だって心の表現としてはじまり、現代人にとっても言葉を扱うことの究極の醍醐味は心の表現にあるのだろう。
「あなた、好きよ(アイ ラブ ユー)」のひとことが男の一生を決めてしまったりするのだ。言葉の起源と究極は心の表現にあるに決まっている。
原初の人類は「心の表現」として言葉=歌の歴史をはじめた。
人間が事物を(自然)を描写できるようになってきたのは、ずっとあとの時代である。
「たたむ」はもともと「深く納得する」という「心の表現」だったのであり、それがやがて「たたむ」や「たたみ」という事物(自然)を表す言葉になっていった。
やまとことばによる「初期歌謡」は、すべて「心の表現」だった。「心の表現」の言葉が「事物(自然)の描写」の言葉にもなっていっただけである。
古いやまとことばの語源は、「心の表現」としての「音声のあや」にある。そこのところをを問わなければ、語源にはたどりつけない。
それを問えないから、「たたなづく」は「幾重にも折り重なる」という意味である、などという愚にもつかないことを言い出す。
最初は、リンゴの名前などなかった。きれいだとか、かわいいとか、おいしそうだという印象=心を原始的な音声のニュアンスで表現し合っていただけだろう。「ああ」とか「うう」という音声のニュアンスや表情でなんとなくわかりあえた。何はともあれそれは「心の表現」だったはずである。
その音声のニュアンスが「歌」として育ってゆき、やがてはさまざまな「言葉」になっていった。
まず音声のニュアンスを聞き分ける、という体験がなければ、さまざまな音声を使い分けて発するということもできない。何を聞き分けるかというと、相手がどんな気持ちでその音声を発しているかということだろう。まあ、敵意があるか親密かとか、そんなことを感じるのは生き物としての本能に違いない。その「心の表現」の段階から「事物(自然)の描写」へと飛躍するためには、長い歴史の時間を要したであろうし、そのあいだも「心の表現」の能力はさらに発達していったはずである。
その音声がまとっている「心のあや」に気づいてゆくことによって、さらに音声の幅が広がっていった。
何はともあれ言葉は、他者との親密な関係を生み出し確保するための機能として生まれ育ってきた。それは、「心のあや」を共有してゆくという体験だった。
「心のあや」に気づくという体験なしに言葉の歴史はありえないし、音声が「心のあや」を表出するものだったから「歌」が生まれてきたのだ。
原始人が「事物(自然)の描写」を熱心にしていたということなどあり得ない。
「原始人は直裁に心の表現をすることができなかった」のではない。彼らは「心の表現」しかできなかったし、それを自覚しながら言葉=音声を育ててきた。
言葉の起源においてはまず、心の動きが音声になって思わず口の端からこぼれ出るという体験があった。そうして、その音声を聞くことによって、はじめて心の動きがあったことに気づいていった。
最初から頭の中に言葉を用意していてそれを吐き出したのではない。そんなふうにして人類の言葉が生まれてきたのではない。
人間は、さまざまな心の動きがさまざまな音声となってこぼれ出てしまう生き物である。何はさておいてもまずそれが言葉のはじまりであり、その体験とともに言葉が育っていった。その体験がなければ、言葉の歴史なんか存在していない。
心が動けば、自然に言葉=音声が口の端からこぼれ出てしまう。原始人や古代人は、何はさておいても表現せずにいられない心の動きを持っていたのであり、それを表現するものとしてそこに言葉が存在し機能している社会だった。
彼らにとって自分たちの社会にさまざまな言葉が存在するということは、自分の中にさまざまな心の動きが起きているということに気づかせてくれることだった。そうしてそのときの自分の心にしっくりくる言葉を選択して吐き出していった。おそらくこれが、枕詞の起源である。
原始社会には心の表現の言葉があっただけで、事物(自然)を描写する言葉など存在しなかった。彼らにとって言葉は、何はともあれ他者と仲良く一緒に生きるための道具だったのであって、べつに暮らしを便利で豊かにするとか自分を表現するとか、そんな理由で言葉を使っていたのではない。
人間は、他者に対しても世界に対しても胸がはちきれそうな思いを抱いてしまう存在であり、言葉はその感触にせかされて生まれ育ってきたのであって、原初の言葉は事物(自然)を描写するための道具だったのではない。
古代人や原始人は、事物(自然)に名称を付けそれを口にすることにはあまり興味がなかった。言葉はそうやって生まれてきたのではないし、そんなことが彼らの言葉を発することのよろこびだったのではない。原初においては、「感慨の表出」だけがあって「事物(自然)の名称」などはなかった。
現在においても、植物や虫や動物の語彙などほんの数種類しかないという未開社会はいくらでもある。彼らの言葉には草とキノコの区別などなかったりするが、区別ができていないのではなく、その区別を言葉として発することに興味がないだけだ。つまり、事物(自然)を描写することには興味がないということだ。それでも、彼らだって「感慨のあや」を表現するための歌も踊りも持っている。
もともと歌の成立には、発生のときから言葉に事物(自然)を描写するための名称も意味もなかった。
枕詞は「事物(自然)の描写」ではなかったし、あとの言葉のただのお飾りだったのでもない。枕詞こそが歌の主題であり、歌全体の通奏低音だった。



「ふゆごもり」とか「あさつゆの」という枕詞はもう、とうぜんのように事物(自然)を描写した言葉のようにいわれているが、じつはそれだって起源においては「心のあや」の表出だったはずである。
語源としての「ふゆ」とは、思いが震えて揺れることだった。すなわち、決心がつかなくて迷うこと。そこから派生して後世には、寒くなってぶるぶる震える季節のことを「冬」というようになった。
万葉集では、「ふゆごもり」の「ふゆ」に「冬」という字は使っていない。万葉人がそれを「冬」という意味で使っていた確証はない。あるいは、「冬」のふりをして、その裏に「迷い」という「感慨のあや」をしのばせていた。
やまとことば、とくに枕詞は、何はともあれ「感慨のあや」の表出が第一義の言葉なのだ。
誰かが「寒い!」といえば、われわれはまずその人の心模様を連想する。寒いのは誰だってわかっているが、「寒い!」と叫ばずにいられない「心のあや」があり、まずそれを連想している。そうしてその「心のあや」を強調して、われわれは「さぶい」といったりする。
やまとことば(日本語)を使う民族は、歴史的な無意識として、現在においてもなお「心のあや」を交感してゆく生態を残している。
迷って迷って迷い抜けばやがて決心もつくだろう、そのようにして「春」という言葉が連想されているのだ。「ふゆごもり」という言葉に「冬が過ぎて」という意味があるのではない。
少なくとも古代以前の枕詞は、「心の表現」の言葉だった。「ふゆごもり」とは、思い惑う心が胸にたまって出口を失っている状態のこと。つまり「迷いがこもる」こと。
それは「春」にかかる枕詞だから、一般的な現代語訳では必ず「冬が過ぎて」と訳されているのだが、そうではない。それが春を連想する言葉であるとしても、「ふゆごもり」の歌はみな、そのような思い惑う「心のあや」の表現を主題にしている。
「あさつゆの」という枕詞の場合も同じである。
迷いに閉じ込めながら、春のような晴れ晴れとさっぱりした気持になることを願っているから、「春」という言葉を連想する。万葉集の「ふゆごもり」の歌は、みなそのような感慨をにじませている。古代人がその「ふゆごもり」という枕詞に託したニュアンスの味わいを、現代人は何もわかっていない。
「あさつゆの」だって同じだ。
「あさ」の「さ」は「裂く」。語源においては心が二つの方向とに裂けることだったのであり、そこから闇の世界と光の世界が裂けてゆく時間帯のことを「朝」というようになっていった。
「つゆ」とは、古い心が消えて新しい心が生起すること。だから「……だとはつゆ知らず」などという。
「あさつゆ」の「つゆ」も、昼になったら消えてしまっているものだから、そう呼ぶようになった。しかし語源においてはあくまで「心のあや」を表す言葉だった。
「あさつゆの」というと何か「命のはかなさ」を詠っているような印象だが、万葉集の「あさつゆの」の歌にそんな「あきらめ」の表現はひとつもなく、どの歌も、新しい心や事態が生起することに対するときめきや願望などが詠われている。
原初の言葉は、「心の表現」だった。
もうひとつ例を挙げてみよう。
草枕」は「旅」の枕詞だといわれている。草を枕に野宿するということは、古代の旅では当たり前のことだった。「草枕」と詠い出せば、自然に「旅」が連想される。
しかし、そう連想するのは、それが「旅」を意味する言葉ではないからだ。「旅」を意味するのなら、「旅」といわなくてもいい。旅を意味するわけではないから、「旅」という言葉を置く。それはあくまで、「旅」を「連想する」言葉であって、旅それ自体を意味しているのではない。「草枕」と書いて「旅」を意味しているふうを装いながら、ほんとうの姿は「感慨の表出」にある。
もともとは「くさまく」といっていたのかもしれない。「くさ」は「くさくさする」の「くさ」、鬱陶しいこと。「まく」は「巻く」、胸の中が鬱陶しさに取り巻かれる(包まれる)から、「くさまく」といった。
古代の旅は、つらくて困難なものだった。「くさまく」思いの連続である。
起源においてはおそらくそういう思いを表す言葉だったが、誰か(たぶん柿本人麻呂)が「ら」をつけて「草枕」と表記したことによって、旅の歌の枕詞に限られるようになっていった。しかし同時に、誰もがそれが「くさまく」思いを表す言葉であることも承知していた。だから、そのあとに「旅」という言葉を置かねばならなかったし、ときには「かりそめ」という言葉が置かれたりもした。
それがほんとうに旅を意味する言葉であったのなら、わざわざ「旅」という言葉をつけ足したりはしない。
そんなことよりも、古代人にとっての「くさ」とはどんな感慨だったのだろうということのほうが問題なのだ。われわれはまだそれをちゃんと理解していない。
おそらく「憂愁」というような感慨だったのだろうと思われる。「草枕」の旅の歌は、身体的なしんどさよりも、大切な人がそばにいないことのわびしさを詠ったものが多い。そのような「旅の憂愁」を詠おうとするときにだけ「草枕」を置いた。
ともあれ「憂愁」という感慨の言葉だったから「かりそめ」という言葉が連想されることもあったのだろう。そしてこのことは、現代人からは枕詞が具体的な事物の表現のように見えても、古代人はその感慨のニュアンスをちゃんとわかって使っていたということを意味する。
心の表現でなければ、「歌」なんか生まれてこない。心のあやが「歌」になる。
原初の歌は「音声のあや」がまとっている感慨のかたちを表現していたのであり、音声=言葉の意味としての「自然(事物)の表現」だったのではない。
日本列島の歌の歴史においては、おそらく最初は5音の枕詞の音声がまとう心のあやの表出だけだったが、やがてそこに自然(事物)の表現が加わって31音の短歌になっていった。
はじめに「自然(事物)の表現」があったのではない。
人類の言葉が完成してから歌が生まれてきたのではない。
人類の言葉は、「感慨の表出」の「歌」として生まれてきた。それは、人間的なさまざま感慨のあやを表出する歌だったからこそ、さまざまな言葉になってゆき、単語と単語をつなげる「文」にもなってゆくことができた。
 やまとことばの「てにをは」は、その1音に、どのようなニュアンスで単語と単語をつなげるかという「心のあや」が表出されている。
後述するが、「あをによし」の「に」だって、けっして見逃すことのできない玄妙な「心のあや」をまとっているのだ。


賀茂真淵は、枕詞をこのように定義している。
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ただ歌の調べのたらはぬを、ととのへるより起きて、かたへは、詞を飾るもの(『冠辞考』)
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枕詞は歌の調べ(調子)を整えるためにあり、もうひとつの役目はあとにかかる言葉を飾ることにある、というようなことだろうか。そして現在の多くの研究者がこの考えを踏襲している。
彼らは、短歌や長歌という様式が完成したあとから、その歌を飾るためのちょっとした技法として枕詞が生まれてきたと思っているが、そうではない、枕詞のほうが先にあったのだ。
万葉集長歌はもう、枕詞のオンパレードである。枕詞と枕詞をつなげながら歌をつくっていったのだ。とりあえず枕詞を置いて、そこから連想される言葉を挿入していった。それらの具体的な事物を描写する言葉は枕詞の飾りであり、枕詞がまとっている「感慨のあや」のメタファーとして機能していった。
「青垣山籠れる大和しうるはし」は「たたなづく=深い愛着」のメタファーである。「あなたは美しい」ということは、「あなたを愛しています」のメタファーである場合が多い。
「たたなづく」という枕詞があるから、それがメタファーになる。
「あしひきの」と詠んでから「山の上に雲がたなびいている」と描写すれば、それが「さびしさ」のメタファーとして機能する。
はじめに枕詞があったのだし、はじめに枕詞を置くような形式で短歌や長歌が生まれてきた。
枕詞は、あとから歌全体の調子を整えるためにかぶせてゆくとか、そのような言葉として機能していたのではない。初めに枕詞ありき……枕詞の感慨を聞き手と共有してゆくことができるかということこそ歌の命だった。
万葉集にあんなにもたくさんの「詠み人しらず」の歌が収録されているということは、古代以前からすでにそうした短歌が民衆によっても詠まれていたということを意味する。そして彼らは、自分の歌によって相手を感動させようという目的などほとんどなく、彼らにとって歌は他者と感慨を共有してゆくための道具だったのであり、歌を詠むことはひとつの「対話」の作法だった。
起源の歌は、短歌として31音が並べられたものではもちろんなく、おそらく「感慨の表出」としての枕詞のような言葉をひとつ差し出しただけだった。
そしてそれを、相手と共有しているかどうかを問うていった。
相手の心を動かそうとしたのではない。ひざまずいて差し出し問うていったのだ。
何かを表現したり描写したりして、相手に伝えようとしたのではない。誰もがすでに知っている枕詞なのだから、伝わることは最初からわかっている。
言葉は、根源的にはそのようなものだ。伝えるために発するのではなく、伝わることが前提で発せられる。
しかし共有しているかどうかは、発しないとわからない。
枕詞は、あらかじめ誰もが知っている言葉である。そして最初は、全体の調べを整えるまでもなく、それだけが差し出され、それだけを交歓し合っていた。
もうひとつ、真淵の言葉。
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思ふこと、ひたぶるなるときは、言(こと)足らず…略…思う事を末にいひ、仇(あだ)し語(こと)を本(もと)に冠(かぶ)らす。
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この考えは、ちょっとおかしい。
思うことが「ひたぶる」であるのなら、とうぜんそれを表す文化も育ってゆくだろう。枕詞は、その「ひたぶるなる思い」を差し出すのにもっともも有効であったから、大切にされていたのだ。思いが「ひたぶる」であるのなら、あれこれいわない。ひとことにこめる。そしてそれで「言(こと)」足りていたのが枕詞の文化だった。
思いが「ひたぶる」であるのなら、思わず口の端から音声がこぼれ出てしまう。それが人間の根源的な生態である。
枕詞は「仇し語(あだしこと)」か?たいして意味のない飾りの言葉であるのか?まあ、枕詞の研究者はみなそのようなことをいっている。
「たたなづく」や「あしひきの」はただの「仇し語」で、「たたなづく青垣」とか「あしひきのこのかた山」ということによって歌の調べが整う、と彼らはいう。そのように歌のかたちを整えれば、なんとなく調子がいい。しかしそれだけのために枕詞があり、それこそが「歌の命」だったのか。
冗談じゃない。「たたなづく」は「深い親密の情」を表し、「あしひきの」は「孤独」を表し、それこそが歌の主題であり歌全体の通奏低音になっているのだ。ただの「仇し語」ではないし、31文字の調べを整えるためでもない。枕詞こそが作者のもっともいいたいことだった。そして古代人は誰もがそれを知っていたし、その枕詞の感慨を共有できるかどうかということこそが「歌の命」だった。
歌のリズム(調べ)がどうのという話ではない。枕詞はそんなことのために機能していたのではなく、「歌の主題」であった。そしてその「思う」ことを「最初に差し出す」のが古代人の歌の作法だった。なぜなら、その起源においては枕詞だけを差し出していたのだから、そういう作法になってゆくのはもう歴史の必然だろう。
歌人が「31文字の歌の調べ」などというものを意識するよりずっと前から、すでに枕詞は存在していた。歌の調べを整えるために枕詞を差し出したのではない。まず枕詞という歌の主題を差し出し、そのあとにそこから連想される事物が詠われていったにすぎない。
まあ「調べ」というなら、枕詞だけの調べというか耳触りの良しあしは、古代人だってとうぜん気にしていただろうが、そこにその枕詞を置くということは、何はともあれ、作者の主題であるところの「感慨」によって決定されていた。
古代人は、何はさておいても枕詞が詠いたかった。そのあとにつらなる表現こそ枕詞の飾りの「仇し語」だともいえる。
彼らは、誰もが知っているその枕詞の感慨を相手と共有したかっただけで、何かを表現するというようなことは二の次だった。自分を捨てて枕詞を差し出していった。彼らにとって歌は他者との対話だった。
誰もが知っている枕詞を、ありったけの思いとともに差し出した。
それは、他者を「説得」したのではない、他者に「問う」作法だった。
古代人や古代以前の人々は、そのようにして言葉を扱っていた。