私信

パソコンが壊れてしまったので、しばらく休業します。
これはネットカフェで書いています。
パソコンだけでなく、いろいろ崩壊の危機に瀕していることがあって、心がけを改めないといけなくなりました。
あれやこれや、わっと押し寄せてきた、というか。
何が、ということは、言いたくありません。
まあ、パソコンに向かっていると、何もしたくなくなってしまいます。
僕にとってパソコンに向かっていることは、ものを考えるいとなみです。
そして、パソコンの向こうに世間がある。
現実の世界のことなんかどうでもよくなってしまう。
ちょっと待って、今はこのことだけを考えたい。このことを考えてしまわないと、何もできない。
そんな気分で、もう7年くらいたちました。
しばらく考えるのをやめにします。
まあ、しばらくのつもりだけれど、元に戻らなくなってしまう心配もないではありません。
残念なのは、ここ数年、頭のトレーニングをさせてもらうのにこれ以上の相手はないというメル友がいて、その人には大いに刺激を受け励まされたりもしたのですが、断腸の思いで不義理をするしかありません。
顔も名前も知らないので、かえって申し訳なさが募ります。ごめんなさい。
ほんとに顔も名前も知らないし、一生知るつもりもないのだけれど、なんだか挫折感が募ります。
で、その人と、鳥取のMさんにメール代わりのひとことを書いておきます。


まず、その顔も名前も知らないその人に……。
すみません。
というわけで。
「心が生起する」という問題をもっと考えたかったのですが、今はもう頭の中が空っぽです。
このところ枕詞のことを考えてきて、やっぱり、言葉を完成させた現代人より、言葉を生み出した原始人のほうが「心が生起する」という働きは豊かだったのだろうと思います。完成させることより発見することのほうがえらいというか、豊かな体験だろうと思います。
ほんとうの科学は発見するいとなみで、文学は既成のものを「完成」させるいとなみかな、と思ったりします。特に「批評」という文学においては、吉本隆明とか折口信夫とか、なんだか自閉症的な人がリードして動いているように思えます。小説の世界のことはよく知らないけど、三島由紀夫の例もあるし、そういう人種がたくさんいるのでしょうか。
吉本にしろ折口にしろ、いつだって「俺は知ってるぞ」という言い方なんですよね。「発見した」という書きざまではない。折口「まれびと論」だって、おもちゃをいっぱい並べて自慢しているだけのような思考にしか読めない。この人はきっとプチ自閉症です。
まあ内田先生だってそうだけど、彼らには「発見する」とか「心が生起する」という体験がない。すでにあるものを「完成させる」という脳みその働き方しかしない。
そしてそれは、現代人が共有している病理でもある。「心が生起する」という働きが鈍くなってしまっている。そしてその分、既成・既知の世界を吟味分析する能力は発達した。
そこのところの退行と引き換えに、文明の発達やら、こんな大所帯の国家というものを持てるようになったのでしょうね。
よおく見渡せば、この世界は知らないことだらけで、発見することはいくらでも体験できるはずだけれど、発見するよりもすでに知っていることのほうがえらいと思いたがる風潮がある。
枕詞の研究だって、一生かかってもまだ足りないくらいの問題がたくさんあるように思うのだけれど、だれもが発見しようとするよりも、手持ちの札を数えることばかりしている。そうするしか能がないのかもしれないけど。
世間というのがどのような仕組みになっているのかということなど知りたくもないけど、作り笑いで生きて、みんなくたびれてゆく。
「いまここ」でばか笑いができる人は、幸せです。きっと豊かに心が生起しているのだろうと思います。


鳥取のMさんへ
「たましい」とか「命」についてのご意見、ありがとうございました。
「誰も初代ではないということ」「萌芽するということ」、はっとさせられ、そしておっしゃるとおりで、いろいろ考えてしまいます。  
空の星を眺めていたら、命というのはなんだろう、と考えさせられることも多いのでしょうね。部外者からは、それはちょっと怖いことのような気もしないでもないけど、「悠久」ということを変な霊魂論なしにイメージできたら、それはそれで幸せかもしれない。
僕は文科系だからどうしても言葉で考えてしまうのだけれど、日本人は霊魂のなんたるかも知らない無常観の民族でありながら、「悠久」というイメージが好きなのですよね。それは、ちょっと「かなしみ」と「あこがれ」が混じったような心の動きなのだろうと思うのだけれど、まあ、「あを」というのはそういう言葉だと思います。空の青。そして馬の名の「あを」も「悠久」というイメージだと思います。