やまとことばの語源・いけにえ

最近、「いけにへ」ということばが気になっています。
そこで、折口信夫がこのことばの語源をなんと解釈しているのかを調べてみました。
折口の文学的想像力と、僕のみもふたもない一音一義の想像力と、どちらが古代人の心(無意識)に推参してゆくことができているか、勝負してみました。
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折口信夫・「信太妻の話」より
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犠牲を<いけにへ>と訓(よ)むのは、一部分当たって、大体において外れている。<にへ>は、神および神に近い人の喰う、調理した食べ物である。<いけ>は活け飼いする意である。いつでも、神の贄に供えることのできるように飼うている動物を言う。同時に、死物のような植物性の贄と、区別する語なのである。
……生け贄になる動物を、軽く見てはいけない。それは、あるときは神とも考えられ、またあるときは、神の<使わしめ>とも考えられてきたのである。
遠慮のない話をすれば、属性の純化せなかった時代の神は、犠牲料(イケニヘ)と一つであったように考えられる。そうして次の時期にはその神聖な動物は、一段地位を下げられて、神の役獣というふうに、役霊の考えの影響をとり込んでくる。そうした上で、一方へは、<使わしめ<として現れ、一方では神だけの食い物というように岐れてゆく。この次に出てくるのが、前に言うた、神の呪いを受けた物(筆者注・犠牲)、という考え方である。
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そういう具体的な「意味」はさておき、われわれはまず「いけにえ」ということばの純粋なニュアンス、すなわち「いけにえ」という音声を発する感慨とは、どういうところにあるのだろうか、と考える。意味は、そのあとに生まれてくる。
「いけ」とは、「飼っている生き物」という意味だ、と折口氏はいう。「いけ」が「生きもの」で、「にへ」が「かみ」、ということらしい。語源論としては、なんだか安直過ぎやしないか。
だったら「池(いけ)」の「いけ」は、なんと説明する。語源ということなら、そこにおいても共通性がなければならない。
「いけ」という音声は、どういうニュアンス(感慨)で発せられてきたのか、そこが問われなければならない。
「い」は「いのいちばん」の「い」、「印象」を強調する音韻。「なんといっても」というようなニュアンス。
「け」は、「蹴る」の「け」、「もののけ」の「け」、「分裂」「変化」の語義。
「いけ」という音声は、異様なものに対する「畏れ」の表出。すなわち「いけ」とは、「異物」「異界」のこと。
池は、まわりの林や原っぱに対して、「異世界」の気配を持っている。そこは異世界への入り口である、というような言い伝えも多いし、池の底に棲む大蛇が村の娘をさらっていったとか、池の主の妖怪、というのもよくある話だ。古代人は、池に対してそういう「畏れ」を抱いていた。だから、「いけ」という音声でそれを表現した。
「生きもの」だから「いけ」などという、そんな安直な解釈は気に入らない。
「いけばな」の「いけ」は、生きた花だからか。そうじゃない。昔はドライフラワーや造花など、ほとんど意識になかった。それは「いきばな」とはいわない。「け」というほかない必然性がある。
野に咲いている花を花瓶に移して「別世界」をつくる、だから「いけ=いける」というのだ。
「いけない」とか関西弁の「いけず」というときの「いけ」も、「異常」とか「異変」のニュアンスをあらわしている。
「いけ」とは「異世界」のこと、これが語原だ。
「いける」と「いきる」は違うのですよ、折口先生。
「にへ」は、「神」あるいは「神の食べ物」を意味した、と折口氏はいう。
「に」は「煮る」「似る」の「に」、「接近」「到達」の語義。「にやっと笑う」という、親近感が湧いてきたときにこぼれ出る音声。
「へ」は「へだたり」の「へ」、「へーっ!」と感心する、「へえ?」といぶかる、遠くを仰ぐような心持からこぼれ出る音声。
「にへ」は、「神=遠く」にひざまずき「神=遠く」を仰ぐこと。そこから、「神の食べ物」という意味も生まれてきた。「神の国に」の「に」と「「神の国へ」の「へ」が合わさって「にへ」という。へだたりに気づき、そこへ思いをはせることを「にへ」という。
とすれば「いけにへ」とは、「この世界との関係を断って神に接近してゆく」ということになる。折口氏のいう「神である生きもの」という意味なんか、あとから派生してきたに過ぎない。最初から「犠牲(サクリファイス)」という意味だったのだ。折口氏はその解釈を、「一部分当たって、大体において外れている」とえらそうに語ってくれるのだが。「神である生きもの」という解釈こそ、「一部分当たって、大体において外れている」のだ。
縄文人弥生人はたぶん、神に捧げる米だって「いけにへ」といっていた。先史時代はむしろそれが主だったのであり、折口氏のいうように、植物の供え物と区別するために「いけにへ」といったのではない。牛や豚や鶏などの家畜などを供えるようになってきたのはそれらの飼育が盛んになってきた後の時代からのことだ。最初は、「神が降りてくる」というイメージだったが、そういう動物に託して神に接近していこうとする欲望が芽生えてきた。たとえば、雨乞いをするとか、豊漁豊作を願うとか、単純に自然の恵みに感謝するというような素朴な気持ちから、自然の恵みを獲得しようとするスケベ根性も生まれてきた。農耕経済が発達すれば、とうぜんそういう気持ちになってくる。そういうときに動物が、神の「使わしもの」としてイメージされていった。それは、「いけにへ」ということばが生まれてきてから後の時代のことだ。
「いけにへ」は、神のことをあらわすことばだったのではない。神に対する感慨をあらわすことばだった。神に思いを馳せることを「いけにへ」といったのだ。
「いけ」という音声のまがまがしいひびきと、「にへ」というなよやかなひびき。神に祈りを捧げてだんだん敬虔な気持ちになってゆくことを「いけにへ」という。「いけにへ」ということばには、そういうひびきがある。だから、そのような「にへ」の逆の状態を、「にへきらない(煮え切らない)」という。
古代の「いけにへ」は、珍しく貴重な生き物が選ばれたそうだが、その生きもののことを「いけにへ」といったのではない。その生きものが背負っている人々の「感慨=祈り」のことを「いけにへ」といったのだ。
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折口信夫のこの説明は、まったく俗っぽくて安直で、まるで説得力がないし、歌人釈超空らしい妖しい文学的想像力も感じられない。どうしてだろう。それは、自分と違って庶民なんてただの頭の悪い俗物だ、と見下しているからだろうか。古代人のことだって、やさしい目を向けているようで、どこかで見下している。
これは、人格の問題ではない。そういう言動や態度を見せない人格者でも、才能のある人の自意識とは、もともとそういうかたちの優越感を潜ませているものだ。
まあ、優越感とか自意識なんて、誰の中にもあるただの俗物根性だ。そういう俗物根性が、才能のある人ほど強い。そして才能のある人ほど、「神」とか「美」とか「知識」というような「権威」に弱い。そういう権威を持っているから、それに耽溺する。才能のある人ほど俗物だ。悪いけど、天才とは俗物根性の別名だと思っている。信長もピカソモーツアルトも、思想的にはみな俗物じゃないか。すべてそうだというつもりはないが、そういう側面は、たしかにある。
われわれは、天才の自意識と対決しなければならない。人間の真実は、彼らのもとにあるのではない。
折口氏は、どうしてあんなにも何でもかんでも「神」のイメージで解釈してしまうのか。「まれびと」とは神のことだといい、水平線の向こうには神のくにがあるといい、「いけにへ」すらも、もともとは神そのものだった、という。それほどに「神」という権威に耽溺し屈してしまっている俗物なのだ。
折口先生、その思考は、安直で通俗的過ぎます。
はじめに神があったのではない。「かみ」ということばが生まれてくる敬虔な心の動きがあっただけだ。そういう心の動きから「いけにへ」ということばも「まれびと」ということばも生まれてきたのだ。
原初の人々は、「神」など知らずに「神」と向き合って生きていたのだ。
そこのところ、折口信夫という天才は、なんにもわかっていない。
天才なんてだいたい、自分の才能に耽溺している自意識の強い俗物だから、人間の真実なんか何もわからないのだ。