祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」64・語原と感慨

心が「自分」にまとわりついてしまうのはしんどいことだ。
自分などさっぱり忘れて世界や他者にときめいてゆく意識こそ、「生きられる意識」であるにちがいない。
世間では、私は幸せだとか、自分もまんざらではないと悦にいっている意識こそ「生きられる意識」だという。
だから、そう思えるようになりなさい、という。
やつらが、そう思えない意識では生きられない社会にしてしまっている。
「人間とは自己意識である」などといって、自分のことを思え、自分のことを思えと強迫してくる。
そんなことばかりしていてインポになったやつがえらそうなことをいうな。
自分のことをさっぱりと忘れてしまうのが「生きられる意識」なのだ。
不幸だろうと幸せだろうと、そんなことはどっちでもいい。
不幸には不幸の味わいがある。
幸せの処方箋なんかいらない。人生を味わい尽くすことができればいいだけだ。
自分のことなんかさっぱりと忘れて世界にときめいてゆく体験が出来ないと、インポになっちまう。
自分にこだわってばかりいると、インポになっちまう。
「私」が消えてゆくときのエクスタシーがある。
われわれは、「私」をよりどこころにして生きてあるのではない。「私」を扱いあぐねて生きているだけのこと。
上手に「私」を扱うことが生きることの醍醐味ではない。
「私」を扱いあぐねながら「私」から離れてゆくところに醍醐味がある。
「私」を見つめることではなく、「私」と世界の裂け目に気づくときのときめきに醍醐味がある。
「美的生活」をしている人は、内田先生みたいに自分に耽溺なんかしていない。自分を扱いあぐねている。そしてそれは、それくらい自分が豊かであるからではなく、それくらい豊かにあざやかに世界が現前しているからだ。
「美的生活」をすれば、必然的に自分が空虚になってゆくのだ。
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「はじめにことばありき」ではない。
ことばが生まれてくる契機となる心の動き(感慨)がある。
心が動くことによって、ことばが生まれてくる。
それは、疑いようもない事実だ。
人類は、知能が発達したからことばを生み出したのではない。ことばによって知能が発達しただけのこと。
原初、ことばが生まれてくるような心の動きがあった。問われるべきはそのことだ。
人間は、生きものとしての限度を超えて密集した群れをつくって暮らしている。そういう負荷のかかったところから、ことば=音声がこぼれ出てきた。
密集してあることのうっとうしさ。
他者とともにあることのときめき。
この世に生きてあることのいたたまれなさ。
そういう心のゆらめきから、ことば=音声がこぼれ出てきた。
ろくにものを考える能力のないやつらや想像力の貧困なやつらは、知能が発達がどうの、自己意識がどうの、意味作用がどうの、象徴化の能力がどうのと、くだらないことばかりほざいていろ。
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生きてあることはしんどいことだ。うっとうしいことだ。いたたまれないことだ。そういう基礎の上にこの生が成り立っているから、人は、この世界の輝きを体験する。この世界や他者に心が憑依してゆく。
この世界や他者が輝いているのではない。輝いて見えるのだ。
美しいのではない。美しく見えるのだ。
何が美しいかなどどうでもいい。美しく見えればいいだけのことさ。
心がときめけばいいだけのことさ。そしてそういう心の動きは、深くかなしむもの、深くこの生を嘆いているものによって体験される。
幸せなものや賢いものや自分に酔いしれているものによってではない。人にうしろ指さされない正義を携えて生きているものによってではない。
言い換えれば、幸せなものや賢いものや正義を携えているものたちが美しいと思ったりときめいたりするためには、大げさな美の基準が必要になるし、深く嘆いているものたちは、世界の存在そのものにときめいている。
幸せや賢さや正義をよりどころにして生きているものたちは、インポになりやすい。
高級フレンチでないと美味くないとか、世界一の美女でないと恋人にできないというのは、インポの論理だ。
腹が減ったらなんだって美味いだろう。欲求不満でさびしくてたまらないのなら、女なら誰だっていいだろう。
場合にもよるが、世の多くの更年期障害や仮性インポに同情の余地はない。嘆きのない生き方をしようとすればそういうツケを払わねばならない、というだけのこと。
そういう自分に居座って生きていたら、そりゃあそうなるさ。
この生は、嘆くようにできているし、嘆いていれば、世界は輝いてたち現われる。
ネアンデルタール縄文人は、あれこれ女を値踏みするようなことはしなかった。
彼らは、「嘆き」とともに生きていた。そして、世界は輝いていた。
その「嘆き」からことばが生まれ育っていったのだ。
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この生(存在=身体)のいたたまれなさから解放されるとき、世界は輝いて見える。
人は「死」を意識する生きものである、などというが、それは、生きてあること、すなわちこの世に生まれてきてしまったことのいたたまれなさを抱えている、ということだ。
だからこそ、世界は輝いて見える。
それは、この生=身体に張り付いている意識が世界に向かって引きはがされるという体験であり、そうやってこの生=身体が浄化される。
われわれのこの生は、けがれている。けがれていると自覚するから世界の輝きを体験するのであり、われわれはそうしたときめきがなければ生きてゆけない。
世界の何が美しいかではない。死を意識し生きてあることのいたたまれなさを抱えている人間は、世界の存在そのものが美しいと感じられるときめきを体験してしまう生きものなのだ。
おどろきであれときめきであれかなしみであれいかりであれ、ともあれ、意識が身体から引きはがされる体験として「ことば」が生まれてきた。
「いやだ、いやだ」とか「あいつ殺してやる」とひとりごとをつぶやくのも、そうやって「自己=身体」に張り付いたうっとうしい意識を「ことば」とともに外に向かって引きはがそうとしている体験にほかならない。
「ことば」は、「自己=身体」に張り付いた意識を世界に向かって引きはがす体験として生まれてきた。
その引きはがされる意識とは、生きてあることのいたたまれなさ(=嘆き)のことだ。
人間はそういう嘆きが深い存在だから、どうしても世界にダイナミックに反応してしまう。そこから、ことばが生まれてきた。
生きてあることの嘆きが深い存在になったから、ことばを生み出した。
したがって、人間が直立二足歩行をはじめて人間になったときからすでに原初的なことばは芽生えていたのだろうが、最初に本格的なことばを生み出していったのは、なんといっても氷河期の極北の地に住み着いて深く嘆きながら生きていたネアンデルタールのはずである。
知能がことばを生み出したのではない、生きてあることの「嘆き」からことばが生まれてきたのだ。
賢いからことばが生まれてくるのではない、体ごと世界に反応する心の動きからことばという音声が発せられるのだ。
今どきのギャルの、他愛なく「かわいい」とときめいてゆく心の動きの奥には、生きてあることの嘆きが疼いている。その体験は、原初のことばの発生の体験と通底している。
やまとことばの語原を問うことは、原初のことばの発生を問うことであり、その原初的な心の動きが、やまとことばの語原なのだ。
折口信夫白川静も関係ない。あの人たちのいうことにいちいちつまずいているわけにはいかない。
僕は、バカギャルの「かわいい」というときめきから学ぶ。